フランス,パリ西郊のセーブルにある国立磁器製作所の製品。セーブル窯の前身はバンセンヌVincennes窯で,1738年オルリー・ド・フルビが,国王ルイ15世に国家による磁器焼成の必要を進言し,当時パリ郊外バンセンヌ城内の乗馬学校の建物と多額の資金を得て開窯した。開窯当初は磁器の焼成にはいたらなかったが,45年,有能な職人を採用して磁器(軟質)の焼成に成功した。また著名な化学者エローJean Hellot(1685-1766)や金工家デュプレシJ.C.Duplessisらを磁器製作の指導者とすることによって発展するとともに,勅令によって他の窯での多色・金彩磁器の焼成を禁止し独占を計った。53年には王立磁器製作所となり,製品には交差したLの窯印を用いた。
ルイ15世の愛妾で愛陶家のポンパドゥール夫人は53年,このバンセンヌ窯をベルサイユの彼女の邸館に近いセーブルに移転させることを提案し,その名称も〈フランス王立セーブル磁器製作所〉と改めさせた。56年の移転から69年にかけてセーブル窯はエロー,彫刻家のファルコネ,画家のブーシェら当代の著名な化学者や画家を招き,フランスの誇るすぐれた磁器を製作した。有名なバンセンヌ窯の〈王者の青〉(1749)やセーブル窯の〈ポンパドゥールのばら色〉(1757ころ)はいずれもエローの発明に帰されている。初期のバンセンヌ窯では器形やモティーフに東洋磁器の模倣が顕著であるが,セーブル窯では東洋趣味は装飾の一部となり,器形の大部分は花瓶やろうそく立て,コーヒー・紅茶カップなど西洋的なものが好まれた。ことに地色をばら色で埋め,窓絵に田園風景などの装飾を施した華麗な絵付け,ならびにファルコネらによる軟磁の優美な彫像は,それまでのマイセン磁器の様式に代わってフランス・ロココ様式の新たな時代を開き,その影響は全ヨーロッパに及んだ。68年以降リモージュで発見されたカオリン鉱を使用し本格的な硬質磁器の製作に努めたが,89年のフランス革命によって破壊され閉窯した。しかしナポレオンにより1804年〈国立セーブル製陶所〉として再興,ナポレオン好みの金彩のアンピール様式の磁器を製作した。現在も伝統を受け継ぎフランス第一の名窯として金彩の高級磁器を製作している。
執筆者:前田 正明
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フランスのもっとも代表的な磁器の一つ。ドイツのマイセン窯(よう)、オーストリアのウィーン窯など、ヨーロッパが相次いで磁器の焼成に成功したのを受け、フランスでも1741年デュボア兄弟によってバンセンヌに磁器製作所が創設された。その後、国家の保護を受けてこのバンセンヌ窯はしだいに王立陶磁器製作所として発展し、東洋の磁器を模した優れた軟質磁器を製作した。セーブル窯は、1756年、国王ルイ15世の寵妾(ちょうしょう)で愛陶家のポンパドゥール夫人の提言により、バンセンヌ窯をセーブルの地に移転し、王立セーブル磁器製作所として再出発したのに始まる。以来1789年の大革命に至るまで、それまでの中国や日本の色絵磁器の模倣を脱し、画家ブーシェをはじめ多くの芸術家が動員され、フランスが誇るロココ趣味のもっとも優れた磁器が製作された。大革命により一時閉窯、その後ナポレオン時代にアンピール(皇帝)様式の磁器を焼成した。現在は国立となって、往時に劣らぬ高級磁器の製作に努めている。
[前田正明]
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