ソルジェニーツィン(英語表記)Aleksandr Isaevich Solzhenitsyn

デジタル大辞泉 「ソルジェニーツィン」の意味・読み・例文・類語

ソルジェニーツィン(Aleksandr Isaevich Solzhenitsïn)

[1918~2008]ソ連・ロシア小説家スターリニズムおよびソビエト政府に批判的な作品を発表。1970年ノーベル文学賞受賞。1974年に国外追放されたが、1994年帰国。作「イワン=デニーソビッチの一日」「ガン病棟」「収容所群島」など。

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精選版 日本国語大辞典 「ソルジェニーツィン」の意味・読み・例文・類語

ソルジェニーツィン

(Aljeksandr Isajevič Solžjenicin アレクサンドル=イサエビチ━) ソ連・ロシアの小説家。カフカスで生まれた。第二次世界大戦中、強制収容所に入れられた体験による処女作「イワン=デニーソビチの一日」で文壇に登場し、以後「ガン病棟」「収容所列島」などスターリニズム、ソビエト政策に批判的な長編ならびに、短編を発表。一九七〇年ノーベル文学賞を受けたが、一九七四年ソ連当局によって国外に強制移住させられた。一九一八年生。

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改訂新版 世界大百科事典 「ソルジェニーツィン」の意味・わかりやすい解説

ソルジェニーツィン
Aleksandr Isaevich Solzhenitsyn
生没年:1918-2008

ロシアの作家。カフカスのキスロボーツク市に生まれた。父は事故のために,生まれる半年前に死亡し,信心深い祖父母と母のもとで成長した。幼年時代にドン河畔ロストフ市に移り,ロストフ大学の物理・数学科に学んだ。この間モスクワの歴史・哲学・文学大学の通信学生となって文学を専攻した。また,後のモスクワ演劇界の大御所ザワツキーのもとで俳優修業を始めたが,発声に問題があって,俳優への道は断念したという。後年,収容所の中でも俳優を志願したことがあるが,それも実現しなかった。1941年6月,第2次世界大戦の独ソ開戦とともに召集され,砲兵学校の課程を終えて,砲兵大尉として転戦した。45年2月,東プロイセンケーニヒスベルク(現,カリーニングラード)で政治的告発をうけ,裁判もなく8年の刑を宣告された。前線から友人にあてた手紙のなかで,暗にスターリンを批判したからである。刑期のうち4年間を囚人数学者として特殊研究所で過ごし,最後の3年間を北カザフスタンの炭鉱地帯で働いた。53年2月,8年の刑期を終え,追放の身分のまま釈放された。56年の第20回共産党大会の翌年,ようやく完全に名誉回復され,中部ロシアのリャザンに移り住み,中学校の物理・数学の教師をしながらひそかに文筆活動を始めた。

 61年の第22回党大会での激しいスターリン批判をみて,処女作《イワン・デニーソビチの一日》(1962)の発表を決意,文芸誌《ノーブイ・ミール(新世界)》編集長トワルドーフスキーの尽力により,それは実現した。スターリン時代の収容所の一日を抑制のきいた文体で綴ったこの中編小説は一躍世界のベストセラーとなった。その後も《クレチェトフカ駅のできごと》(1963),《マトリョーナの家》(1963),《公共のためには》(1963)など優れた短編を発表,揺るぎない作家の地位を確立したが,67年5月第4回作家同盟大会へ公開状を送り,公然と当局による検閲の廃止を訴えた。この公開状は当局によって黙殺されたが,以来ソルジェニーツィンは事あるごとに公開状を発表して当局と激しく対立していった。この間,国内で発表できなかった長編《ガン病棟》(1968),《煉獄のなかで》(1968。原題《第一圏のなかで》)を海外で公刊した。前者はタシケントのガン病棟を舞台に死に直面した人々を,後者はモスクワ郊外の囚人研究所の生活を,自らの体験を踏まえて描いた秀作である。69年10月,反ソ的イデオロギー活動のゆえに,ソ連作家同盟を除名されたが,翌70年10月にはノーベル文学賞に輝いた。だが,海外に出ることによりソ連市民権を剝奪されることを恐れて,ストックホルムでの授賞式には出席しなかった。73年3月にはロシア正教会のピーメン総主教あてに公開状を送り,無神論者に支配される正教会の体質を批判した。この年の暮,パリで《収容所群島》第1巻を公表,ソ連当局から激しい非難を浴びたが,結局,74年2月12日モスクワで逮捕され,13日に市民権を剝奪されて西ドイツへ国外追放された。《収容所群島》全3巻(1973-75)は十月革命後60年におよぶ民衆弾圧の歴史を,文学のあらゆる可能性を駆使して描いた膨大なドキュメントであり,分量的にもトルストイの《戦争と平和》にまさる大作である。国を追われたとき〈噓によらず生きよ〉とのメッセージを国民に残した。

 その後アメリカ合衆国バーモント州の山奥で,ロシア革命史の書換えともいわれる大ロマン《赤い車輪》の執筆に没頭し,83年以降《1914年8月》《1916年10月》《1917年3月》を刊行。83年5月には宗教界のノーベル賞といわれるテンプルトン賞を受け,ロンドンでの授賞式に出席,〈現代の悲劇はすべてわれわれが神を忘れたことに原因がある〉とキリスト者の立場で現代文明を鋭く批判した。ペレストロイカの動向を見て《ロシア再建の方途》(1991)を発表,ソ連崩壊後の94年に帰国,市民権も回復した。文壇に登場以来,チェーホフ以後の最も優れた作家との評価がソ連国内でもあったが,現存する最も偉大な作家の一人として多くを期待されていた。2008年8月モスクワの自宅で死去。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ソルジェニーツィン」の意味・わかりやすい解説

ソルジェニーツィン
Solzhenitsyn, Aleksandr Isaevich

[生]1918.12.11. キスロボツク
[没]2008.8.3. モスクワ近郊トロイツェリュコボ
ロシアの小説家,歴史家。コサックのインテリ一家に生まれた。ロストフ大学で数学の学士号を取得,モスクワ大学の通信教育で文学を学んだ。ソビエト連邦が第2次世界大戦に参戦すると召集され,戦功により勲章を授けられたが,終戦の直前にヨシフ・スターリンを批判した疑いで告発され,収容所(ラーゲリ)に送られた。1956年のスターリン批判のあと釈放され,翌 1957年正式に名誉を回復,本格的な創作活動を始めた。第一作『イワン・デニーソヴィチの一日』Odin den iz zhizni lvana Denisovicha(1962)で一躍文名を高め,『クレチェトフカ駅の出来事』Sluchai na stantsii Krechetovka(1963),『マトリョーナの家』Matrënin dvor(1963)など,ソ連社会の矛盾をついた先鋭な主題をもった作品で世界的な注目を浴びた。ところが反体制的な言動のため,1966年以後国内で作品発表ができなくなり,長編小説『ガン病棟』Rakovy korpus(1968),『煉獄のなかで』V kruge pervom (1968)などの作品が次々に国外で出版された。そのため作家同盟を除名されたが,1970年にはノーベル文学賞を受賞した。長編『1914年8月』Avgust 1914(1971)も国外で出版,1973年にはパリで『収容所群島』Arkhipelag Gulag 1巻を発表,ソ連 50年の陰の歴史,ラーゲリに照明をあて,ソ連当局を徹底的に批判した。そのため 1974年国外追放となり,一時スイスに滞在したが,その後アメリカ合衆国に移った。この間『収容所群島』の 2巻と 3巻,自伝的作品『仔牛が樫の木に角突いた』Bodalsya telyonok s dubom(1975),『チューリヒのレーニン』Lenin v Tsyurikhe: glavy(1975)を発表した。ソ連がグラスノスチを導入後,国内でも作品が解禁され,1990年正式に市民権を回復した。1994年5月,20年ぶりにロシアへの帰国を果たした。

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百科事典マイペディア 「ソルジェニーツィン」の意味・わかりやすい解説

ソルジェニーツィン

ロシア(ソ連)の作家。カフカス生まれ。ロストフ大学物理数学科卒。1945年砲兵大尉として従軍中,政治的告発を受け10年間の流刑生活を送る。その体験をもとに中編《イワン・デニーソビチの一日》を1962年に発表し,世界的に有名になる。ついで《クレチェトフカ駅のできごと》《マトリョーナの家》《公共のためには》などを発表したが,思想的・政治的立場のために圧迫を受け,《ガン病棟》《煉獄のなかで》などはソ連で発表を許されなかった。1967年5月には検閲制度廃止を訴えた書簡を発表,1969年ソビエト連邦作家同盟から追放された。1970年ノーベル文学賞。1974年国外追放となり,以後ソ連では完全に黙殺されたが,ペレストロイカ以後は大作《収容所群島》を含め,作品が公刊された。1990年ソ連市民権回復後も外国で活動。1994年帰国。
→関連項目ビシネフスカヤロストロポービチ

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ソルジェニーツィン」の解説

ソルジェニーツィン
Aleksandr Isaevich Solzhenityn

1918~2008

ソ連,ロシアの作家。独ソ戦に応召して参加する間に,スターリンを批判したため,逮捕され,8年の刑を受けた。この経験を1962年に小説『イワン・デニーソヴィチの一日』に書いて発表し,文学者としてデビュー。長編小説『ガン病棟』が国内で発表できず,西欧で出版したため,69年作家同盟から除名。70年ノーベル文学賞を受けた。73年『収容所群島』を国外で発表すると,翌年市民権剥奪,国外追放となる。アメリカに住み続け,94年帰国。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ソルジェニーツィン」の解説

ソルジェニーツィン
Aleksandr Isaevich Solzhenitsyn

1918〜  
旧ソ連の作家
スターリンを批判した罪で強制収容所に服役,その時の体験をもとに,『イワン=デニーソヴィッチの一日』(1962)を著し,国際的な反響を呼び,ノーベル文学賞を受賞した(1972)。その他,国外で『ガン病棟』『収容所群島』などの体制を批判する作品を発表し,国外に追放された(1974)。その後はアメリカを中心に活動を続け,ペレストロイカで名誉を回復された(1990)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ソルジェニーツィン」の意味・わかりやすい解説

ソルジェニーツィン
そるじぇにーつぃん

ソルジェニツィン

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世界大百科事典(旧版)内のソルジェニーツィンの言及

【異論派】より

…その意味では異論派は70年代に最終的に成立したということができる。 異論派の最大の著作,ロイ・メドベージェフRoi Aleksandrovich Medvedev(1925‐ )の《歴史の審判を求めて――スターリン主義の起源と結果》(邦訳《共産主義とはなにか》)とソルジェニーツィンの《収容所群島》全3部はそれぞれ72年と73年以降国外で出版された。2人の立場は対照的である。…

【収容所群島】より

…ロシアの作家ソルジェニーツィンの著書。《1918‐1956 文学的考察》の副題で1973‐76年にパリのYMCAプレス社から全3巻として刊行され,1973年2月に著者がソ連から国外追放となる直接のきっかけとなった。…

※「ソルジェニーツィン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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