R.ゾルゲと尾崎秀実(ほつみ)を中心とする対日諜報機関関係者の検挙事件。ソ連赤軍第4本部に所属し諜報活動に従事していたゾルゲは,偽装のためナチス党へ入党,ドイツの新聞社の日本特派員として1933年9月に来日し,ドイツ大使館から絶大な信頼をかちえていた。尾崎は朝日新聞社特派員として上海に滞在中の1930年にゾルゲと知り合い,34年5月に再会して諜報グループを結成した。その後尾崎は,中国問題の高名な評論家としての地位を築く一方,昭和研究会に入会,37年第1次近衛文麿内閣のもとで内閣嘱託を務めるなど近衛のブレーンとして活躍し,近衛内閣総辞職後は南満州鉄道嘱託となり,諜報活動に従事した。諜報機関員はゾルゲ以下外国人3名と日本人13名で,その情報網は政界上層,ジャーナリズムから右翼や無産団体の一部にまで及んでいた。ゾルゲらの目的は日ソ間の平和維持にあり,彼らの活動は戦時下における反戦平和活動の特殊な一形態であった。ゾルゲらは国家の極秘文書などを盗みだしたのではなく,見聞入手した情報に綿密な分析を加え,的確な判断と見通しを無線でソ連へ通報していた。彼らの情報はきわめて確度が高く,とくに41年6月の独ソ開戦の予知や9月の太平洋戦争開戦に関する御前会議決定の通報などに顕著な成果をあげた。事件は,伊藤律が北林トモを密告したことから発覚し(《特高月報》1942年8月分),9月28日に北林,10月15日に尾崎,18日にゾルゲらが逮捕され,42年6月8日までに諜報機関員と犬養健,西園寺公一(きんかず)らの情報提供者合計35名が逮捕された。そのうちの18名が治安維持法,国防保安法,軍機保護法などの違反容疑で起訴され,ゾルゲと尾崎が死刑,2名が無期懲役のほか全員有罪の判決をうけたが,西園寺は執行猶予,犬養は上告審で無罪となった。ゾルゲと尾崎は44年11月7日に処刑され,5名が獄死したが,9名は45年10月に釈放された。
執筆者:木坂 順一郎
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ソ連防衛を最大の任務とする諜報活動を8年間展開したゾルゲらが,太平洋戦争直前に検挙された事件。1933年(昭和8)9月に来日したゾルゲ(当時はソ連赤軍の諜報機関に所属)は,ラムゼイ機関とよばれる諜報網を組織した。主要メンバーは近衛文麿側近の尾崎秀実(ほつみ),画家宮城与徳(よとく),特派員ブーケリッチ,無線技師クラウゼンら。同機関は日本の政界や軍部,ドイツ大使館などに深く浸透して機密情報を収集し,分析を加えてソ連に通報した。重要情報に日独防共協定の全容,独ソ戦開始の予告,御前会議決定の推移などがある。伊藤律の供述を糸口に,41年10月前後に関係者35人が逮捕され,44年11月7日ゾルゲ・尾崎は国防保安法・治安維持法違反などにより死刑に処せられた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…37年夏,長谷川浩と共産党再建活動を始め,39年8月からは満鉄東京支社調査室に勤務。同年11月の再検挙で転向,40年8月には保釈されて満鉄に復帰し,尾崎秀実に急接近したが,保釈のおりの不用意な供述が,のちにゾルゲ事件の発覚を招いた。41年9月の保釈取消しで満鉄を解雇。…
※「ゾルゲ事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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