ドイツの建築家。旧ケーニヒスベルクに生まれ,故郷の建築学校をおえ,シュトゥットガルトのT.フィッシャーの建築事務所で見習い後,1910年からベルリンで独立。第1次大戦前には,田園都市運動に連なる都市郊外の集合住宅や博覧会建築の《鉄の記念堂》《ガラスの家》などで注目された。とくに総ガラスの円蓋に色彩照明の人工滝を収めたガラス館は,石や煉瓦の暗い建築を否定するガラスの多彩で美的な造形により評判になった。そこにはゴシックやオリエントを志向する詩人シェーアバルトの《ガラス建築》(1914)の思想が影響している。それに加えて,クロポトキンなどの反都市的な相互扶助共同体の思想からも刺激を受け,大戦後のドイツ革命期に《都市の冠》《アルプス建築》《都市の解体》などの著作を通じて,集会や文化のコア設計,山岳から星に至る宇宙的規模の幻想建造物,地方に分散した理想的共同体設計など,ユートピア的な社会変革の紙上プランを公にし,表現主義建築と呼ばれる新傾向の先導者となった。また彼が主唱した色彩建築は,1921年就任のマクデブルク市建築顧問時代に実践され,都市の若返りとして有名になった。しかしインフレが克服され,施工の実現の時代に入ってからは,ベルリンで総数1万2000戸に及ぶ集合住宅(ジードルング)の建設に専念した。なかでもブリッツやオンケル・トム地区のジードルングは,集団的居住形態と環境造成の調和により,ワイマール文化の遺産と評価されている。32年から約1年モスクワの都市計画に参加したが意見が合わず挫折。帰国後日本からの招きに応じて来日。36年秋イスタンブール芸大教授への赴任まで,仙台や高崎での工芸指導のほか,著述に携わり,桂離宮と伊勢神宮を建築の世界的奇跡とたたえるなど,日本美の再発見者として親しまれた。在日中の建築作品は少なく,熱海の旧日向別邸が存在するのみである。トルコで講義,設計と多忙のうちに倒れ,日本で構想された〈釣合〉の美学書《建築芸術論》が遺著となった。
執筆者:土肥 美夫
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ドイツの建築家。ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれる。同地の土木建築学校を卒業後、テオドール・フィッシャーに師事。1909年にF・ホフマンと共同事務所を開いて以来、ライプツィヒ博覧会の「鉄の記念塔」(1913)やドイツ工作連盟展の「ガラスの家」(1914)の独創性によって名を馳(は)せた。第一次世界大戦後は表現主義建築運動を推進、18年にグロピウスらと「芸術労働評議会」を結成し、また『アルプス建築』『都市の冠』『宇宙建築師』『都市の解体』を著して壮大なロマンと理想社会をうたい上げる。21年にはマクデブルク市の建築土木課長として果敢な色彩建築を実践し、24年からはベルリンで総計1万2000戸の住宅団地を建設した。
タウトは1932年に大モスクワ計画のため同地を訪れたのち、ナチス政権を逃れて日本へ亡命、33年(昭和8)5月から36年1月まで滞在した。日本では建築そのものの仕事に恵まれなかったものの、桂(かつら)離宮をはじめとする日本建築や日本の文化のあり方に多大の関心を示し、多くの著書を残した。また仙台と高崎で工芸の指導にあたり、日本の工芸界の方向を刷新させることになった。36年イスタンブール芸術大学教授に赴任、トルコ政府建築顧問として建築活動を再開したが、38年12月アンカラで客死した。
[高見堅志郎]
『タウト著、篠田英雄訳『日本美の再発見』(岩波新書)』▽『土肥美夫、J・ボーゼナー他著『ブルーノ・タウトと現代』(1981・岩波書店)』
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…それは近代建築の成立期における一つの顕著な傾向であって,空間的性格が近代建築と親近性の強い書院造,数寄屋,庭園の伝統を積極的に評価し,それらの近代における再生を意図したものであった。堀口捨己,吉田五十八,谷口吉郎らはそのような仕事を進め,また33年に来日したドイツの建築家B.タウトは伊勢神宮や桂離宮の造形を賛美して,日本の伝統への注意を喚起した。戦後においても日本的伝統の問題は解決したわけではなく,むしろ60年代の高度経済成長期以後,ポスト・モダンがささやかれるなかでようやく伝統を総体的に見直す動きが現れてきた。…
…こうした伝授形式が長い時代にわたって継承された結果,ある種の共通観念が定着したことが認められる。つまり,かつてブルーノ・タウトが日本建築の〈釣合い〉感覚を論じて,〈様式・形式の世界あるいは基本的定型を数世紀にわたって追究するという連続的な仕事によって成就される〉とのべたような,技術に関する基本的観念が人々の間に生まれ定着するのである。秘伝形式を核とする教育関係と家元制度は大なり小なりこの観念によって支持され,その実態がこの観念を再生強化してきたといえる。…
… このようにしてドイツ革命前後の表現主義美術は,ダダの過激な否定にもかかわらず,都市の崩壊や戦禍を描く黙示録的表現から,革命を射程におく時代批判的ないし風刺的な傾向へと変貌し,ディックスのようにグロテスクでリアルな作風を成立させた。また運動の主体も少人数から芸術労働評議会や〈11月集団Novembergruppe〉(1918結成)のような大集団に移り,前者からB.タウトを中心に〈ガラスの鎖Die gläserne Kette〉集団(1919‐20)のユートピア的表現主義建築のプランとグロピウスのバウハウス構想が生まれた。なお,表現主義的傾向の彫刻家としてはバルラハのほかレーンブルックWilhelm Lehmbruck(1881‐1919)などがあげられる。…
…革命的高揚期のユートピア的傾向から,鉄とガラスとコンクリートの機能主義的なインターナショナル・スタイルを確立して,今日の世界を支配する近代主義建築のモデルを生み出すまで,アバンギャルドと勤労者大衆のためにという社会主義イデオロギーとの結合は,ワイマール文化の両義性を目に見えるものとして提示してくれた点で,大きな意味をもつ。グロピウスやB.タウトの目ざした勤労者のための集合住宅は,日本の団地が今日果たしている役割を考えれば,原型としての意味は測りがたいほど大きい。しかし同時にこの〈住むための機械〉が,結局資本主義的合理性の徹底であったことの限界は,今日その解放的意味を逆転させる空虚さを露呈している。…
※「タウト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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