改訂新版 世界大百科事典 「チャルトリスキ」の意味・わかりやすい解説
チャルトリスキ
Adam Jerzy Czartoryski
生没年:1770-1861
ポーランド分割から十一月蜂起後の〈大亡命〉までの激動期を生き抜いたポーランドの政治家。チャルトリスキ家は15世紀中ごろまで系譜をたどれるリトアニア出身の貴族だが,有力なマグナートとして台頭してくるのは祖父アレクサンデル・アウグストAleksander August C.(1697-1782)の代である。祖父は息子のアダム・カジミエシュAdam Kazimierz C.(1734-1823)をポーランド王位に就けることを計画するが,本人にその意志がなく果たさなかった。アダム・カジミエシュが関心をもったのは教育問題であり,彼に代わって国王になったスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキに協力して騎士学校の校長や《モニトル》紙の編集長を務め,また国民教育委員会の活動にも熱心に協力している。息子のアダム・イェジーにも当時,貴族の教養として考えられるあらゆる知識や技能を身につけさせた。16歳のときから5年間,〈四年セイム〉の開会に立ち会わせた以後は西欧に滞在させた。1791年に帰国して〈五月三日憲法〉の成立に立ち会ったアダム・イェジーは,92年,志願してポーランドの改革に反対する保守派(タルゴビッツァ派)に加勢したロシア軍と戦った。
改革派の敗北と第2回ポーランド分割のあとは西欧に脱出するが,ロシア領に編入され没収の危機に瀕した一族の領地を救うため,95年に人質としてエカチェリナ2世のもとに送られた。そこで後のロシア皇帝アレクサンドル1世と親交を結ぶ。アレクサンドルの妻との仲が疑われ,パーベル1世の命でロシア使節としてサルデーニャに送られるが,1801年のアレクサンドル1世の即位でペテルブルグに呼び戻された。皇帝が新たにつくった〈非公式委員会〉でロシアの行政改革に協力するためである。02年には自らの提案によってつくられた内閣制度のもとで外務大臣代理,学校問題委員会(文部省)委員などに就任した。
03年にビルノ地区の視学官とビルノ大学の学長に就任し,旧ポーランド領における教育制度の確立に努力した。そうすることでこの地におけるポーランド文化の維持に少しでも貢献できると考えたからである。04年には外務大臣に就任し,05年には元老院と国務評議会のメンバーに加えられている。外務大臣チャルトリスキがかねてから抱いていた構想は,アレクサンドル1世をポーランド国王にしてプロイセンからワルシャワとポズナンを回復し,ポーランドを独立させるというものであった。しかし皇帝は05年にプロイセンと対仏同盟を締結し,チャルトリスキの構想は実現しなかった。06年に彼は外務大臣の職を辞しているが,その後も自分の構想には忠実であった。ティルジットの和約(1807)によってワルシャワ侯国が成立すると,彼は完全に孤立してしまった。彼に出番がまわってくるのはウィーン会議においてである。この会議で成立したポーランド王国(会議王国)は彼の構想によるところが大きい。しかし憲法草案の作成,臨時政府の成立などに奮闘したチャルトリスキを待っていたのは,予定されていた総督の地位ではなく名目的な行政会議のメンバーの地位でしかなかった。また結婚相手をめぐる決闘事件もあって,16年に彼は自領のプワウィ(ルブリン県)に引きこもってしまった。その後はもっぱらポーランド文化のセンターとして知られていたプワウィの私設博物館や私設図書館の拡充,ビルノ大学の拡充に携わるが,23年にビルノ大学でミツキエビチらの参加した秘密組織が摘発されて,24年視学官と学長を辞職した。十一月蜂起には反対であったが,それが始まってからは行政会議のメンバーとして事態の収拾に活躍した。またニコライ1世の廃位にも反対であったが,廃位をセイムが決議してからは国民政府の首班になっている。
十一月蜂起の敗北後は多数の蜂起参加者(約8000~9000名)とともに西欧に亡命し(〈大亡命〉),パリのオテル・ランベールに居を構えて独立運動を指導した。もっぱらイギリス,フランスによる対ロシア干渉によってポーランドの独立を実現することを運動方針とするが,さらにトルコの支持を求めたり,イタリア,ハンガリーの対オーストリア独立戦争を支持したりもしている。バルカン半島も活動舞台になっていた。もちろんポーランド国内の政治情勢も大きな関心の的となっており,有力な政治家,文学者などを通して国内政治に可能なかぎり影響を与える努力もしている。そのよい例が,農民解放をめぐる彼の積極的な呼びかけであろう。オテル・ランベールは,あたかも亡命政府のような観を呈していた。彼の死後は息子のブワディスワフWładysław C.(1828-94)がその遺志を継いでいる。
執筆者:宮島 直機
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