ルーマニア南西部,バナト地方の中心都市。ハンガリー語ではテメシュバールTemesvár。ティミシュTimiş県の県都。人口30万3908(2005)。肥沃なティミシュ平野に位置し,西方のセルビアとの国境まで約30kmの地点にある。鉄道,自動車道路の要地で,市中にはベガ運河が流れている。気候は大陸性気候に属するとはいえ,ルーマニアの他の諸地方にくらべ温暖である。月平均の最高気温(7月)は21.6℃,最低気温(1月)は-1.2℃。現在,住民の大多数はルーマニア人であるが,この地方の歴史を反映してハンガリー人,ドイツ人(シュワーベン人とよばれている),セルビア人などもいる。第2次世界大戦後ルーマニア西部の最大の工業中心地として発達し,機械,電気・電子関係機器,化学,繊維,製靴,食料品工業の諸分野で国内生産の重要部分を占めている。またブカレスト,ヤシ,クルジュにつぐ総合大学があって,教育・文化の中心地でもある。
歴史的には,バルカンと中欧とを結ぶ地帯に位置しているため,いくたびか支配者が交替した。ティミショアラの名が初めて史料に現れるのは1212年であるが(ラテン語でCastrum Temesiense),その後もハンガリー領テメシュTemes県の要塞都市として発展した。とくにバルカン半島におけるオスマン帝国の脅威が強まるとこの地の軍事的重要性が高まり,オスマン軍との戦いで勇名をはせたトランシルバニア総督フニャディ・ヤーノシュも市の防備を固めた。他方,オスマン帝国との決戦を前にして,1514年ハンガリーに農民戦争が起こり,ドージャの率いる農民軍が市を攻撃したが敗北し,ドージャはここで処刑された(ドージャの乱)。モハーチの戦(1526)の敗北後,1552年抵抗の末オスマン軍によって占領され,以後ティミショアラ・パシャ領としてオスマン帝国に属した。1716年サボイ公オイゲンの率いるオーストリア軍によってオスマン帝国の支配から解放された。その後51年までは国境軍事地帯に含まれるが,81年には国王の自由市となり,経済的に新たな発展をとげた。オーストリアの植民政策によりおもにシュワーベンから多数のドイツ人が入植したのもこの時期である。1848-49年のハンガリー革命では,名将ベムBem József(1794-1850)の率いる革命軍の最後の激戦地として知られている。市の要塞施設は92年に取り払われた。19世紀後半からはこの地の労働運動がさかんになり,またとくにルーマニア人の民族運動も強まった。第1次世界大戦後ルーマニア領となり,現在にいたっている。
執筆者:萩原 直
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ルーマニア西部、ティミシュ県の県都。運河化されたベガ川沿いに市街が発達し、セルビアとの国境に近い。人口31万7660(2002)。13世紀以来、バナート地方の経済、軍事、交通、文化の中心地であり、大学、天文台、劇場、交響楽団などがある。農業機械、自動車、電気機械、薬品、印刷などの工業が発達している。古い城壁や、18世紀のバロック様式のカトリック大聖堂などがある。1989年、チャウシェスク社会主義政権崩壊への動きが始まった都市で、ハンガリー人も多い。
[佐々田誠之助]
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