コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

テニス テニス tennis

翻訳|tennis

8件 の用語解説(テニスの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

テニス
テニス
tennis

コートの中央に張られたネットを挟んで相対する競技者が,ラケットボールを打ち合う球技。もともとの名称はローンテニス。日本では硬式テニスともいい,庭球とも表記される。 12~13世紀頃からフランスイタリアなどの貴族や僧侶の間で行なわれていたジュ・ド・ポームという屋内ゲームが起源とされる。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

テニス(tennis)

長方形のコートの中央にネットを張り、これを挟んで相対し、ラケットでボールを打ち合って得点を争う球技。使用ボールによって硬式と軟式とがある。試合はシングルスダブルス混合ダブルスの3種がある。庭球。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

テニス

庭球。正式にはローンテニスlawn tennis。中央にネットを張ったコートの両側に競技者が相対し,ラケットでボールを打ち合う球技。使用球により硬式テニス(ゴム球にフェルトをかぶせた球を使用)と日本独自のソフトテニス(軟式)があり,国際的には前者をさす。
→関連項目アントワープオリンピック(1920年)グラフペロタ

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル大辞泉プラスの解説

テニス

イタリア、スティピュラ社の万年筆の商品名。「アカデミアシリーズ。テニスをしている人がモチーフ

テニス

任天堂が発売するゲームソフト。スポーツゲーム。1984年1月発売。ファミリーコンピュータ用。

出典|小学館
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

テニス【tennis】

長方形のコートを中央で二分するネットをはさんで相対するプレーヤーが,ラケットでボールを打ち合う球技。テニスを日本的にアレンジしたものにソフトテニス(軟式テニス)があり,東南アジアを中心に国際的に普及しているが,テニスとは一般にローンテニスlawn tennis(硬式テニス)を意味するので,本項でも同様に取り扱う。ソフトテニス
【歴史】

[起源,沿革]
 11世紀にフランスの修道院行われるようになった〈ジュ・ド・ポームjeu de paume〉(以下〈ポーム〉と略記)がテニス型ゲーム形態の原型と考えられている。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

テニス【tennis】

ネットを境にして相対し、ラケットを用いて所定の区画内にボールを打ち合って得点を競う球技。シングルス・ダブルス・混合ダブルスの種目がある。ボールにより軟式と硬式に分かれる。庭球。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

テニス
てにす
tennis

長方形のコートの中央をネットで仕切り、そのネットを挟んで相対した競技者が、ラケットで交互にボールを打ち合う球技の一種。当初、コート面が芝生であったところからローンテニスlawn tennis(日本では庭球または硬式テニス)とよばれていたが、管理上の難点から芝生のコートが極端に減少したこともあって、現在では単にテニスと呼称されるようになった。1978年にはテニスにおける唯一の国際的統括組織も国際テニス連盟ITF=International Tennis Federation)と改称された。なお、テニスを日本的にアレンジしたものにソフトテニス(軟式テニス)がある。[三町正治・清水伸一]

歴史

11世紀ごろからイタリア、ギリシアなどの地中海沿岸諸国やペルシア(現、イラン)で、貴族や僧侶(そうりょ)の間で行われた屋内競技の一種が起源といわれているが、その発祥は、明確でない。競技の方法は、屋内の所定の壁に競技者がボールを打ち、跳ね返ったボールを相手が打ち返して勝敗を争ったと思われる。のちには一度バウンドしたボールを打ち返すルールも行われ、打者と返球者の間に高いネットが張られた。ボールは髪の毛を巻いて毛皮で覆ったものであったが、ボールの製法が進歩するにつれて競技法も変わってきたといわれる。
 13世紀ごろ、フランスではジュー・ド・ポームjeu de paume(手のひらゲーム)とよばれ、王室、僧侶、貴族の間に流行した。初めは素手や手袋をはめてボールを打っていたが、しだいにラケットが使われるようになった。1789年、フランス革命前夜、第三身分(僧侶と貴族に属さない平民の身分)の代表が議場に隣接した球戯場に集まって団結を誇示した「テニスコートの誓い」は、フランス語のSerment du Jeu de Paumeを訳したものである。のちにイギリスに紹介され、1873年、W・ウィングフィールドWalter Clopton Wingfield(1833―1912)少佐がこの競技を改良し、クリケット競技場の芝生でプレーするスファイリスティックSphairistike(ギリシア語でプレーの意)と命名した競技を考案した。これが今日のテニスの元祖ともいうべきものである。コートの形は現在の長方形のものと異なり、ネットのところがくびれていて、砂時計のようになっていたが、屋外の芝生(ローン)の上にコートを使ったことから、ローンテニスとよばれるようになり、急速に普及した。
 1875年、ロンドンのオールイングランド・クロッケークラブでは、この競技をクラブにおける正式種目に取り入れた。1877年春には、第1回全英選手権大会(ウィンブルドンテニス大会)が同クラブによって企画され、そのためオールイングランド・クロッケー・アンド・ローンテニスクラブと改称したほどである。このとき新しいルールが制定されたが、シングルスコートの大きさは、今日に至るまで、ネットおよびポストの高さ、ネットからサービスラインまでの距離を除いて、当時のものとまったく変わっていない。第1回のこの大会は、テニス界最初の男子シングルス選手権となったが、記録によると観衆わずか150人にすぎなかったといわれる。今日のこの大会の観衆はおよそ50万人に達し、開催時はロンドン社交界がウィンブルドンに移行するともいわれる盛況ぶりである。その後、このクラブのスポーツ活動は、ローンテニスに限定されてしまったので、一時クラブ名からクロッケーの文字が消えたが、感傷的理由で復活し、1889年以降現在のオールイングランド・ローンテニス・アンド・クロッケークラブとして活動を続けている。このクラブがテニスゲームの発展に果たしてきた役割は、計り知れないものがある。
 1878年、次のトーナメントとして始まったスコットランド選手権で男子ダブルスが、1879年からスタートしたアイルランド選手権で女子シングルス、ダブルス、混合ダブルスが、公式競技における世界最初の正式種目となった。
 テニスをアメリカに紹介したのはM・E・アウターブリッジMary Ewing Outerbridge(1852―1886)であるとされている。1874年初め、バーミューダに行った彼女は、イギリスの守備隊がテニスを楽しんでいるのに興味をもち、ニューヨークに帰る際、その用具一式を持ち帰った。兄エミリアスの協力を得て、彼のメンバークラブであるスターテン・アイランド・クリケット・アンド・ベースボールクラブのグラウンドの隅にコートをつくることが許され、ここでテニスを披露したのである。一方、1875年には、ボストン郊外のナハントにあるアップルトン邸にコートが建設され、その周辺のニュー・イングランド地方でもこの競技が流行し始めた。1881年アメリカテニス協会(USTA=United States Tennis Association)が設立。同年8月、ロードアイランド州ニューポートのカジノで第1回の全米選手権が開催され、シアーズRichard D. Sears(1861―1943)が最初の優勝をかちとり、続いて1887年まで7連勝を記録した。そして一度も敗戦を経験することなく引退した。一方、最初の女子選手権は、1887年にフィラデルフィア・クリケットクラブで開催され、ハンセルEllen Hansell(1869―1937)が初代チャンピオンに輝いた。
 フランスにおける近代テニスの起源は明確ではないが、1870年代にイギリス人によって逆輸入されたようである。1891年に最初の全仏選手権大会がパリ郊外で開催された。以後、1924年までは参加資格がフランス国民に限定されていたが、1925年に国際的に開放された。その最初のタイトルは、フランスの四銃士と称されたボロトラJean Borotra(1898―1994)、ラコストRen Lacoste(1904―1996)、コシェHenri Cochet(1901―1987)、ブルニヨンJacques Brugnon(1895―1978)の一人、ラコストが獲得した。
 また一方、1900年に、アメリカがイギリスを迎えて始めた試合を皮切りにして、デビスカップ(デ杯とも)が、男子の国別対抗戦として行われるようになった。
 1904年、オーストラリアの各州と、ニュージーランドが合同して、オーストラレーシアテニス協会が設立され、翌1905年、第1回のオーストラレーシアシングルス選手権大会(後の全豪(ぜんごう))がメルボルンで開催された。その後1923年に両国は分離し、それぞれの協会をもった。
 1913年3月、オーストラレーシア、オーストリア、ベルギー、イギリス、デンマーク、フランス、ドイツ、オランダ、ロシア、南アフリカ、スウェーデン、スイス、スペインの13か国が賛同し、国際ローンテニス連盟が設立された。1977年にローンを削除され、国際テニス連盟(ITF)に改称された。ITFには2011年時点で203協会が加盟している。ITFはデビスカップ試合(男子)、フェドカップ試合(女子)、ほかにユース、シニア、車いすテニスの公式競技大会を運営し、世界のテニス普及、発展のために活動している。日本のITFへの加盟は1925年(大正14)である。
 不朽の名選手チルデンに始まり、1938年、4大トーナメント(ウィンブルドン・全仏オープン・全米オープン・全豪オープン選手権大会)優勝というグランドスラムを達成したドン・バッジDon Budge(1915―2000)、第二次世界大戦後の1947年には、クレーマーJack Kramer(1921―2009)、ゴンザレスRichard Gonzales(1928―1995)、ゼグラFrancisco Olegario Segura-Cano(1921― )、セッジマンFrank Sedgman(1927― )、ローズウォールKen Rosewall(1934― )、ホードLew Hoad(1934―1994)、さらには2人目のグランドスラマー(1962)R・レーバーRod Laver(1938― )と一流プレーヤーが相次いでプロに転向した。こうしたなかにあって、二流化した大会の立て直しと時代の要請で、1968年に至り、各トーナメントはプロも参加しうるオープン大会へと移行していった。オープン化後、プロの数が飛躍的に増加、1970年代以後は、コナーズJimmy Connors(1952― )、ボルグBjorn Borg(1956― )、マッケンローJohn McEnroe(1959― )、レンドルIvan Lendl(1960― )、アガシAndre Agassi(1970― )、サンプラスPete Sampras(1971― )、そして2000年代に入りフェデラーRoger Federer(1981― )、ナダルRafael Nadal(1986― )等の名選手が輩出している。一方女子も多くの名選手が輩出し、1953年にコノリーMaureen C. Connolly(1934―1969)が女子では初めてのグランドスラムを達成、さらに2人目は1970年コートMargaret S. Court(1942― )が達成した。以後、キングBillie J. King(1943― )、エバートChris Evert(1954― )、ナブラチロワMartina Navratilova(1956― )の時代に入り、1988年にグラフSteffi Graf(1969― )が3人目の年間グランドスラマーとなる。その後セレシュMonica Seles(1973― )、ビーナスVenus Williams(1980― )とセリーナSerena Williams(1981― )のウィリアムズ姉妹、エナンJustine Henin(1982― )等が輩出している。オープン大会化後男女ともにツアー制度が確立した。
 男子の組織は1972年男子プロテニス協会(ATP=Association of Tennis Professionals)が創設され、女子は1年遅れて1973年に女子選手協会を結成した。オープン大会は両組織に組み入れられて運営され、それらのトーナメントツアーの成績をもとに毎週コンピュータ・ランキングが制定され、その順位により大会参加が決定する仕組みになっている。
 オリンピックでは、1896年第1回アテネ大会(男子シングルス・ダブルス)、女子は1900年第2回パリ大会から正式種目になっていたが、1924年、国際テニス連盟は休業補償条件によっては待遇改善ができないことを理由に国際オリンピック委員会(IOC)から脱退。その後、テニスのオープン化の実情をIOCが理解し1981年にテニスの64年ぶりの競技としての復帰を認め、1984年ロサンゼルス大会はデモンストレーションであったが、プロ選手の参加を承認した。1988年ソウル大会では正式競技として初の完全なオープン参加が実現、プロテニス選手が出場した。[三町正治・清水伸一]

日本のテニス

日本に公式にテニスを紹介したのは、1878年(明治11)日本政府の招きで体育伝習所(後の東京高等師範学校)の教師として来日したアメリカ人リーランドGeorge A. Leland(1850―1924)であるというのが定説である。彼はアメリカから持参したラケットやボールで生徒たちにテニスを教えた。この新しい競技は多くの人たちに大きな興味を与えたが、用具の取得は輸入に頼るため、非常に高価なものであった。そこで生徒たちは、通常のテニスボールのかわりに、フランネルで覆われていない玩具(がんぐ)のゴムボールを使い始めた。1890年に至り、東京高等師範学校(現、筑波(つくば)大学)が、三田土ゴム会社(現、昭和ゴム)にゴムボールの試作を依頼した。これが現在ソフトテニスで使用されているボールの元祖である。これを契機に、日本独特の軟式テニス(ソフトテニス)が誕生し、日本各地の学校の教師となって赴任した同校の卒業生によって、その任地に紹介され、軟式テニスが全国的に普及した。
 日本に紹介されたテニスはもちろんローンテニスであったが、軟式テニスが普及するにつれ、ローンテニスは、1913年(大正2)春、慶応義塾大学が軟式からの転向を強行するまでは、東京ローンテニスクラブ(1900年創立)や、横浜、神戸その他の外国人の間で、あるいは避暑地の軽井沢や個人のコートなどで、ごく限られた人たちによって行われていたにすぎず、それは競技というよりも、レクリエーションといったほうが適当なものであった。慶応義塾大学がローンテニスを採用したのは、海外留学から帰った後の同大学テニス部長の小泉信三の国際的視野にたった決断による。
 日本選手の海外遠征は、1912年(明治45)春、東京ローンテニスクラブの会員であった朝吹常吉(あさぶきつねきち)(1878―1955)、山崎健之丞らが、マニラのカーニバルトーナメントに招待されて参加したのが最初である。翌1913年(大正2)暮れ、ローンテニスを採用してまもない慶応義塾大学がマニラに遠征したとき、チームの一員に熊谷一弥(くまがいいちや)の名があった。1915年上海(シャンハイ)における第2回極東選手権競技大会に参加した熊谷は、シングルスとダブルス(パートナー柏尾誠一郎(かしおせいいちろう)(1892―1962))で優勝、翌1916年にはマニラにおける東洋選手権に参加してシングルスに優勝し、しだいに国際的プレーヤーとして名を高めていった。さらに、同年の三神八四郎(みかみはちしろう)(1887―1919)と熊谷の渡米が、日本のテニス界への刺激となった。ニューポートの招待トーナメントで、熊谷は全米第1位のジョンストンWilliam M. Johnston(1894―1946)を破って優勝したのである。熊谷はその後三菱(みつびし)銀行員としてニューヨークに赴任したが、勤務のかたわらテニスを本場で鍛え試す絶好の機会となった。とくに1919年には西ニューヨーク選手権で全米第1位のマレーR. L. Murrayと第2位のチルデンを破り優勝、続くニューヨーク選手権にも優勝し、ジョンストン、チルデンに続き、全米第3位にランクされるに至った。翌1920年8月ベルギーで開催の第7回オリンピック・アントワープ大会で、熊谷はシングルス、熊谷・柏尾組はダブルスに出場し、日本にオリンピック史上初の銀メダルをもたらした。一方、東京高等商業学校(後の東京商科大学)出身の清水善造は1913年以来、インドのカルカッタ(現、コルカタ)の三井物産に勤務のかたわら、1919年までにベンガル選手権にシングルスで5回優勝した。そして翌1920年清水はイギリスに渡り、ウィンブルドンの全英選手権でチルデンと相まみえ、大接戦を演じた。熊谷、清水、柏尾らの海外における活躍は国内に反響し、ローンテニスにすべしの声が自然に高まっていった。そして1920年、早稲田(わせだ)大学、東京商科大学(現、一橋大学)、東京高等師範学校の3校が硬球に転向したのである。さらに、同年11月、大阪朝日新聞社は新しい気運を察して、日本初の第1回全国硬式庭球大会を大阪豊中(とよなか)コートで開催した。しかしこの大会は惜しくも1回限りで終わった。
 1921年、日本はデビスカップに熊谷、清水、柏尾の3選手を派遣し、チャレンジ・ラウンドへ進出、アメリカに敗れた。このようにして、内外ともに新気運に向かっていた日本のテニスが、いよいよその基礎を固めるときがきた。すなわち日本庭球協会を創立し、国際テニス連盟に加入することであった。この悲願が朝吹らの献身的努力によって達成され、1922年3月協会設立の運びとなった。初代会長には朝吹が就任した。同年9月、協会事業の一つとして全日本選手権大会が開催され、福田雅之助(ふくだまさのすけ)(1897―1974)が初代チャンピオンとなった。
 日本は1921年以降、ほとんど毎年デビスカップに参加してきたが、第二次世界大戦のため1939~1950年は中断された。1951年(昭和26)に至り、アメリカテニス協会の力添えでテニス界への復帰がかなった。
 1968年、世界のテニス界はオープン(アマチュア、プロ双方の選手に大会参加を認める)時代に入った。日本のスポーツ界は日本体育協会の傘下にあるためアマチュア規程が足かせとなりプロの登録が認められていなかったが、世界テニス界の流れのなか日本テニス界の強い要望で、1972年日体協はジャパンオープン(アマ、プロ参加)大会の開催を承認した。プロの登録については1978年に導入されるとともに、全日本選手権大会がオープン化され、アマ、プロの交流を図ることになった。
 1975年には沢松和子(1951― )、アン清村(1955― )組が初めてウィンブルドン大会で女子ダブルスを制覇するなどの快挙もあり、テニスが人気スポーツの一つになり、テニス人口の増加に寄与した。日本庭球協会から1980年財団法人日本テニス協会(JTA=The Japan Tennis Association)となり、普及、強化の事業も拡大した。その成果もみられ、女子選手の競技レベルは世界の上位に入り、男子選手も停滞気味であったが、世界ランキングをあげている。
 傑出した選手としては、熊谷一弥、清水善造、福田雅之助、原田武一(はらだたけいち)(1899―1978)、佐藤次郎、布井良助(ぬのいりょうすけ)(1909―1945)、三木龍喜(みきたつよし)(1904―1966)、太田芳郎(1900―1994)、山岸二郎(1912―1997)、第二次世界大戦後では、中野文照(なかのふみてる)(1915―1989)、隈丸次郎(くままるじろう)(1921―2007)、宮城淳(みやぎあつし)(1931― )、加茂公成(かもこうせい)(1932― )、石黒修(1936―2016)、神和住純(かみわずみじゅん)(1947― )、松岡修造(1967― )、錦織圭(にしこりけい)(1989― )。女子では加茂幸子(かもさちこ)(1926―2003)、宮城黎子(みやぎれいこ)(1922―2008)、沢松和子、伊達公子(だてきみこ)、杉山愛らが輩出し、世界的な名声をあげた。[三町正治・清水伸一]

施設と用具

コートは芝生が発祥であり、世界的にみて、イギリス、アメリカ東部、オーストラリア、ニュージーランド、インドなどに分布しているが、維持・管理に莫大(ばくだい)な費用を要することから、芝生のコートは減少の傾向にある。ヨーロッパではアンツーカー(焼成土)が中心になっているが、日本ではクレー(土)が多い。アメリカ西部で普及したコンクリート、アスファルトは、当初コート面が固すぎるため、バウンドが早く、プレーに際し疲れやすく、テニストウtennis toeとして知られるテニス病になったりして評判はよくなかった。その不満を解消すべく研究が進み、ソフトで快適なコート面をつくれるようになり、ハードコートとしてコンクリート、アスファルトを基礎にコート面を合成樹脂(種類、材質などさまざま)などで塗装してつくられる。現在全米、全豪など主要な大会などで使われている。日本では手入れが簡単で、多少の雨でもプレーできる砂入り人工芝のコートが普及している。[三町正治・清水伸一]
コート
大きさは23.77メートル×10.97メートルであるが、さらに、コート周辺に、ベースラインから後ろに6.40メートル、サイドラインから横に3.66メートル以上の空き地が必要とされる。[三町正治・清水伸一]
ボール
ゴム球にメルトンとよばれる繊維をかぶせてつくる。表面は平滑で縫い目がなく、色は白か黄色に限られている。ボールは直径6.35~6.67センチメートル、重さ56.7~58.5グラムで、バウンドは、254センチメートルの高さからコンクリートの床上に落としたとき、135~147センチメートルの範囲内とする。規則にはそのほか変形量について規定されている。[三町正治・清水伸一]
ラケット
はじめ規定がなかったが、材質などの技術革新が進み、同時にラケットに仕掛けをつくるなど、テニス競技の本質が損なわれる危険性が出てきたので、1978年に規定がつくられるに至った。ラケットの打球面は平らで、ストリングがフレームに直結し、全体的に均一であり、いわゆる碁盤の目状をなしていなければならない。ラケットの大きさは2000年(平成12)にルールを改正、全長73.66センチメートル以下、幅31.75センチメートル以下とし、ストリング面の大きさは全長39.37センチメートル以下、幅29.21センチメートル以下と定められた。フレームやストリングスに、摩耗や振動を防ぐため以外の、またはバランスをとるため以外の目的で付属物や突起物を取り付けてはならない。またラケットの形状を著しく変えられるような装置をつけてはならない。フレームの材質は本来合板であったが、スチールまたはアルミ製が現れ、グラスファイバー製、カーボン、チタン素材を用いたラケットがつくられるようになり、素材の進化、技術の進歩に伴い、新たな形状やサイズが生み出されている。ストリングスでは、1979年ごろからナチュラルガットとして動物性繊維の羊・牛腸製のものが出ている。そしてまた、合成繊維ガットの技術的進歩も見逃せないものとなっている。[三町正治・清水伸一]

競技方法

競技は、1人対1人で行うシングルス、2人1組の4人で行うダブルス、男女1組の4人で行う混合ダブルスに区別される。ダブルスは、コートの大きさ、サービス・レシーブの順序以外はシングルスと同じ方法で行われる。試合に関する規定は、国際テニス連盟の定めたテニス規則による。
 試合に先だちトスを行う。その勝者は、試合最初のゲームにおけるコートの選択、サーブ・レシーブの選択をする。サーバーは各ゲームにおいて、第1ポイントを右コートから始め、次のポイントを左から行い、以後1ポイントずつ交互に行う。第1ゲームが終わったらレシーバーがサーバーとなり、ゲームごとに試合終了まで交互に交代する。プレーヤーは各セットの第1、第3というように、そのセットのゲームの合計が奇数のときコートを交代する。
 次のような場合、プレーヤーはポイントを失う。(1)サービスを二つ続けてフォールトしたとき、(2)サービスボールに直接触れたとき、(3)相手の打球を2回バウンドする前に返球できなかったとき、(4)返球が相手のコート内に入らなかったとき、(5)インプレーのボールを故意にラケットで運んだり、止めたりしたとき、(6)インプレー中にプレーヤーがネットに触れたとき、(7)ボールがネットを越す前にボレーしたとき、(8)インプレーのボールがプレーヤーの身体に触れたとき、(9)ラケットを投げてボールを打ったとき、(10)プレー中に故意にラケットの形を変えたとき、(11)インプレーのボールが審判に当たったとき。[三町正治・清水伸一]
ゲーム
プレーヤーが第1ポイントをとったら15(フィフティーン)、第2ポイントを30(サーティ)、第3ポイントを40(フォーティー)といい、第4のポイントをとったときそのプレーヤーのゲームとなる。双方が3ポイントをとればスコアはデュースとよばれ、次のポイントをとったとき、そのプレーヤーのアドバンテージとよばれる。同じプレーヤーが次のポイントをとったとき、そのプレーヤーはゲームをとる。相手のプレーヤーが次のポイントをとったら、スコアはふたたびデュースとなる。このようにしてデュース後連続して2ポイントをとったプレーヤーがゲームをとる。[三町正治・清水伸一]
セット
先に6ゲームをとったプレーヤーが、そのセットをとる。しかし双方が5ゲームをとったときは、以後2ゲームの差が生ずるまで続けなければならない。[三町正治・清水伸一]
タイブレーク
ゲームがデュースの繰り返しで試合が長引くのを防ぐため、タイブレーク制度ができた。タイブレークは6ゲームオールになったときに始まり、一方のプレーヤーが2ポイントの差をつけて7ポイントを先取したときにゲームとセットが終わる。6ポイントオールになったときは、2ポイントの差がつくまでゲームは続けられる。この制度はデビスカップでは最終の5セットだけは用いられない。[三町正治・清水伸一]
勝敗
一つの試合における最大セット数は5、女子が参加した場合は3で、それぞれ3セット、または2セットを先取したプレーヤーが試合の勝者となる。デビスカップでは5セット試合となっているが、一般的には男女とも3セット試合が多い。[三町正治・清水伸一]
『財団法人日本テニス協会編『テニスの基礎技術』新版(1984・ベースボール・マガジン社) ▽日本プロテニス協会編『テニス教本』(1999・スキージャーナル)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内のテニスの言及

【ドロー】より

…こんにちでは,ドローン・ゲームdrawn game,すなわち〈引分け〉〈無勝負〉の試合の意味で用いられており,略称して〈ドロー〉と呼んでいる。このほかには,テニスの組合せを決めるくじ引き,ゴルフの打法(まっすぐに飛んだボールがわずかに左に切れる球すじ)にも用いられている。 ドローということばには,じつは,きわめて興味深い歴史が秘められている。…

【ネット】より

…一つは,スポーツ用具としてのネット,もう一つは,ルール用語としてのネットである。スポーツ用具としては,テニスやバレーボールのようなネット型球技で相手陣営との境界線を明確にするためのもの,野球やゴルフのように打球の行方を制限するためのもの,の2種がある。ルール用語としては,ネット型球技でボールがネットに遮られたり触れたときのコール,ゴルフのハンディキャップ付きゲームで総合スコアからハンディ分を差し引いたスコアの2種がある。…

※「テニス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

テニスの関連キーワード銀杏形タートルネックケーブルネットワークゴールネットテルネットネットオーバーネットショットオーバーザネット円形卓球フットバッグネットゲーム

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone

テニスの関連情報