フランスの画家。7月28日ノルマンディー地方ブランビルに公証人の子として生まれる。長兄は画家ジャック・ビヨン、次兄は彫刻家レーモン・デュシャン・ビヨン。1902年から絵を描き始め、04年にはパリに出て、10年ごろまで印象派や後期印象派、フォービスムなどの影響下で制作する。キュビストのグループ「セクシオン・ドール」の拠点となったパリ近郊ピュトーの兄たちのアトリエでしだいにキュビスムの教えを吸収していくが、連続写真などから刺激を受け、本質的に静的なキュビスムの表現とは異なる運動過程の表現に関心を向けていった。同時に機械のイメージに取りつかれ、人体を機械的な性のオブジェの運動としてとらえるようになる。こうして12年には『階段を降りる裸体、第二番』(フィラデルフィア美術館)をはじめ、『急速な裸体たちに囲まれた王と王女』『処女から花嫁への移行』『花嫁』などが矢つぎばやに描かれた。しかし翌年、網膜的芸術(カンバス上に観念を構築することなく目のためにのみ制作される芸術)には関心を失ってゆき、絵を描く行為をほとんど放棄するようになる。さらには瓶掛けや雪かきシャベル、男性用便器などの量産品に署名するだけでそれらを芸術作品に移行させ、伝統的な芸術の概念や手仕事の特権性に嘲笑(ちょうしょう)を浴びせかけた。こうしたオブジェは「レディーメイド」と総称された。
デュシャンは1915年アメリカに渡り、以後おもにニューヨークに住み、55年にはアメリカ市民権を得ているが、15~23年、ガラス板の大作『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(通称「大ガラス」、死後フィラデルフィア美術館に寄贈)に取り組み、愛と欲望の形而上(けいじじょう)学を機械的イメージとして表現した。そこでは花嫁と独身者とは永遠に交わることはなく、独身者たちはそれぞれ不毛な自慰行為にふけっている。その後デュシャンは「芸術」を放棄してチェスに没頭する日々を送るが、そうした生き方自体、表現行為に対する嘲笑として少なからぬ影響を及ぼした。68年10月2日、ヌイイに没。しかし死後、秘密裏に制作された作品『一、水の落下、二、照明用ガス、が与えられたとせよ』(1946~68)が遺言によって公表されるに及び、制作せざる芸術家という伝説そのものが否定されるに至った。デュシャンは数少ない作品と、「グリーン・ボックス」や「ホワイト・ボックス」などに集められたおびただしい数のメモを残し、その思想と生き方そのものによって既成の芸術概念を否定し、現代美術の動向に計り知れない影響を与えた。
[大森達次]
『瀧口修造訳『マルセル・デュシャン語録』(1968・美術出版社)』▽『東野芳明著『マルセル・デュシャン』(1977・美術出版社)』▽『ジョン・ゴールディング著、東野芳明訳『アート・イン・コンテクスト8 マルセル・デュシャン/彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(1981・みすず書房)』
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フランス(後年アメリカ国籍)の美術家。フランスのノルマンディーのブランビルに生まれる。数少ない作品とおびただしいメモを残したが,その思想と生き方によって,既成の芸術概念を否定し,とくに第2次大戦後の現代美術に大きな影響を与えた。1904年パリに赴き,長兄ジャック・ビヨンJacques Villon(1875-1963),次兄レーモン・デュシャン・ビヨンRaymond Duchamp-Villon(1876-1918)らの〈セクション・ドールSection d'Or〉というキュビスム運動に参加するが,《階段を下りる裸体No.2》(1912)あたりから,肉体をエロス的機械の運動としてとらえる特異な作品を描きはじめ,同年いくつかの名作をやつぎばやに描いた後,絵を描くことを放棄。近代絵画が思想や観念と切り離されて,ただ見るだけの〈網膜的〉楽しみに堕したと考えたからで,女の肉体を奇妙な機械装置として描いた《花嫁》(1912)がほとんど最後の油絵となった。15年から8年間,2m×3mのガラス板に《独身者たちによって花嫁は裸にされて,さえも》(通称《大ガラス》)という大作を作りつづけ,未完のままに残す。上下に仕切られたガラスの上部に肉片のような〈花嫁〉を,下部に機械的な〈独身者〉を描いた《大ガラス》は,子どもを生む女=母=創造の象徴である〈花嫁〉と,自慰=不毛=味けない日常の象徴である〈独身者〉との,永遠に交わらない愛を暗示する神話的世界である。第1次大戦中,ニューヨークでマン・レイらと〈ニューヨーク・ダダ〉運動を起こし,パリではA.ブルトンのシュルレアリスム運動に参加,男性用便器や瓶掛け,自転車の車輪など,量産品に署名をしただけのレディ・メードのオブジェを提示し,手仕事の特権性を嘲笑すると同時に,産業社会での素材や表現の新しい可能性を示唆した。デュシャンはまた,〈グリーン・ボックス〉や〈ホワイト・ボックス〉などに集められた数多くのメモを書きつづけ,独自な言葉遊びや晦渋な観念作用を,発生状態のままの言語として残し,〈網膜的〉な美術を,非網膜的な〈見えない〉世界にまで拡大した感がある。《大ガラス》や〈レディ・メード〉以降は,チェスのゲームに没頭し,とくに第2次大戦後は,デュシャンの生存そのものが,表現行為を嘲笑する〈作らない芸術家〉として脅威を与え,ミニマル・アート,コンセプチュアル・アート(概念芸術)などに影響を及ぼした。ところが彼の死後,遺言によって《遺作》(正式には,《1.水の落下,2.照明用ガス,が与えられたとせよ》1946-66)が公表されるに及び,〈作らない芸術家〉という伝説そのものが否定されてしまった。扉の穴からのぞくと,股を開き,手にランプをかかげた全裸の女が見える《遺作》は,秘教的な《大ガラス》とは対極にあるキッチュなポルノグラフィーであり,まさに〈網膜的〉であって〈否定〉を否定する精神の自由を証明してやまない。
執筆者:東野 芳明
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…その先駆は,未来派の彫刻家ボッチョーニが,1911年,多様な素材を合成して〈生の強度〉に迫るべく,毛髪,石膏,ガラス,窓枠を組み合わせた作品をつくり,ピカソがキュビスムの〈パピエ・コレ(貼紙)〉の延長として,12年以後,椅子,コップ,ぼろきれ,針金を使った立体作品を試みたあたりにある。デュシャンは13年以後,量産の日用品を加工も変形もせず作品化する〈レディ・メード〉で,一品制作の手仕事による個性やオリジナリティの表現という,近代芸術の理念にアイロニカルな批判をつきつけ,ピカビアの〈無用な機械〉と名づけた立体や絵画も,機械のメカニズムをとおして人間や芸術を冷笑した。第1次大戦中におこったダダは,これらの実験を総合し,アルプやハウスマンの木片のレリーフ状オブジェや,シュウィッタースのがらくたを寄せ集めた〈メルツMerz〉,エルンストの額縁に入った金庫のようなレリーフ状作品などで知られる。…
… 〈ピュトー派〉は,11年のアンデパンダン展での大規模な集団展示を皮切りに,波状的な示威運動を続けたが,特に12年の〈セクシヨン・ドールSection d’or(黄金分割)〉展には,ピカソとブラックの創始者を除いて,この造形的傾向に共鳴するほとんどの画家や彫刻家が参加した。おもな出品者は,ビヨン兄弟(J.ビヨン,彫刻家のデュシャン・ビヨンRaymond Duchamp‐Villon(1876‐1918),マルセル・デュシャン),グレーズAlbert Gleizes(1881‐1953),メッツァンジェJean Metzinger(1883‐1957),ピカビア,ラ・フレネーRoger de La Fresnay(1885‐1925),レジェ,ローランサン,マルクーシスLouis Marcoussis(1878‐1941。本名Ludwig Markus),〈洗濯船〉グループのグリス,それに彫刻家のロートAndré Lhote(1885‐1962)らである。…
…自発性から生まれるあらゆる神々への絶対で,議論の余地なき信頼,ダダ〉(《ダダ宣言1918》)とあるように,ツァラたちは嫌悪と自発性だけを原理に,あらゆる物質と行為から芸術を再生させようとした。 一方,同じころニューヨークでは,1913年の〈アーモリー・ショー〉に,《階段をおりる裸体》を出品して反響を呼び,17年レディ・メイドの便器(《泉》と題される)を出品して物議をかもしたM.デュシャン,〈無用な機械〉シリーズで知られるマン・レイ,13年写真家スティーグリッツの画廊〈291〉で個展を開き,18年秋チューリヒに赴きツァラと意気投合する反芸術の闘士ピカビア,騒音音楽のバレーズらがダダ的サークルを形づくっていた。 17年1月ベルリンに戻ったヒュルゼンベックは,フォトモンタージュの名人ハウスマンとその恋人ハンナ・ヘーヒHannah Höch(1889‐1978),戦争中排外主義を嫌って英語風に改名した,政治的フォトモンタージュ作家ジョン・ハートフィールドと弟の編集者ウィーラント・ヘルツフェルデ,軍人とブルジョアを風刺する画家グロッス,ざれ歌詩人メーリングらとともに,18年4月〈ベルリン・ダダ〉を結成した。…
…この常識の枠を組みかえ,〈現実〉を過激な形でずらそうとするねらい(先述の〈ある意図〉)をもった〈しかけ〉はすべて,広義のノンセンスといえる。便器に署名して展覧会に出品したデュシャンや,ピアニストに4分33秒間なにも弾かせないことによって聴衆に〈沈黙〉と〈意図されなかったあらゆる音〉をきかせたJ.ケージなどは,最高のノンセンス芸術家であり,チャップリンやキートンのような無声映画のコメディアンも同様である。 しかし〈現実〉を構成するもっとも重要な要素は言語であるから,当然,言語の合意された意味(センス)や用法をかく乱することがノンセンスの最大の領域となる。…
…〈既製品〉の意味だが,ダダ時代のM.デュシャンが,一連の量産品に署名しただけのオブジェを〈レディ・メードのオブジェ〉と呼んだことに由来する。ダダやシュルレアリスムのオブジェは,セザンヌからキュビスムをへて20世紀美術に台頭した物体への意識がはっきりと即物的な面であらわれたもので,とくにシュルレアリストたちは,意識下の領域の象徴としてオブジェをとらえようとした。…
※「デュシャン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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