翻訳|pornography
一般に,性的行為のリアルな描写を主眼とする文学,映画,写真,絵画などの総称。略してポルノpornoともいい,伝統的な好色文学などと区別して近・現代的なものを指すことが多い。語源はギリシア語のpornographosで〈娼婦pornēについて書かれたものgraphos〉を意味する。それはやがて,英語でいうobscene(猥褻(わいせつ))な文学のことになった。obsceneの原義は,〈scene(舞台)からはずれたもの〉つまり舞台では見せられないもののことであるという。表に出せるものに対して,裏のものをポルノグラフィーというわけである。とすれば,〈裏本〉〈裏ビデオ〉などという現代日本におけるいい方もポルノグラフィーにふさわしいことになる。
しかし両者を分ける絶対的な規準はない。両者は検閲によって分けられるが,この検閲は時代と社会によって相対的に動いてゆくものである。したがってポルノグラフィーは,時代が定める検閲の境界と読者層との関係のうちにとらえられるべきなのである。検閲と読者層という面からポルノグラフィーを眺めると,その歴史は19世紀以前と,19世紀以降の二つに大きく分けることができるだろう。18世紀は過渡期である。この世紀は〈ポルノグラフィーの黄金時代〉ともいわれている。たしかに快楽主義が流行し,サドやカサノーバが性のユートピアを追い求めた。J.クレランドの《ファニー・ヒル》(1749),サドの《ジュスティーヌ》に対抗して書かれたレティフ・ド・ラ・ブルトンヌの《アンティ・ジュスティーヌ》(1798)などのポルノグラフィーの傑作がこの時代に書かれている。それにもかかわらず,ポルノグラフィーが社会的な問題となるのは19世紀になってからである。なぜなら,18世紀までは,ポルノグラフィーはもっぱら一部の貴族や大ブルジョアのものだったからである。
19世紀になって,中産階級の上層部が本を読む能力と経済力をもつようになったとき,ポルノグラフィーの検閲が問題になってくる。たとえば,《ファニー・ヒル》は出版されたときは,なんの規制も受けなかったが,1820年にアメリカでこの本を売っていた書籍商が処罰された。ニューヨーク州でこの本が解禁になったのは1963年であった。皮肉なことに,1964年になって,イギリスでこの本の処分をめぐって裁判があり,没収破棄の判決が出された。これからもわかるように,検閲に関しては,19世紀から20世紀の60年代まで連続した見方がつづいていたのである。
19世紀には複製技術の発達と市場の拡大によって,おびただしいポルノグラフィーがあふれた。また,写真の発明もいち早く利用され,19世紀半ばにはポルノ写真がかなり出回りはじめた。ビクトリア朝のイギリスの中産階級の間で特にポルノグラフィーが栄えたのは,この時代が表と裏を厳しく分けていたせいであった。ビクトリア朝の人々は,表では性的なものがまったく存在しないかのようにふるまっていた。特に女性や子どもは性的なものに触れないように守られていた。一般の女性は性的なことに無知で,子どものように無邪気であるのがいいとされていた。性的な言葉は家庭では使うことが禁じられ,〈脚leg〉という言葉さえ無作法であるとされていた。表と裏を分ける指標の一つは陰毛であった。ビクトリア朝の芸術展にはおびただしいヌードが出品され,ひじょうにエロティックなものもあったが,陰毛を描かないという規則によってポルノグラフィーと区別されていた。現代においても,陰毛が見えるか見えないかが猥褻の規準となっているのも,われわれがビクトリア朝以来の性的道徳のパースペクティブの中にいることを示している。
あるものをないようなふりをして,表面から隠すというビクトリア朝の偽善的な道徳は,逆にすべてを裏側に押しこんだために,裏側の世界が巨大にふくれあがった。表面はまじめなビクトリア朝の紳士は,裏で娼婦とポルノグラフィーを愛好したのであった。I.ブロッホの《イギリスの性生活》(1912)によれば,19世紀では,1820-40年,1860-80年に特にポルノグラフィーが多く出版された。これははじめの時期は,ブルックス,ダンコンブ,次の時代にW.ダグデールという出版者が活躍したせいであったという。また,イギリスでのポルノグラフィーの需要が多かったので,パリやブリュッセルで印刷されて輸入されたものも大量にあった。《蚤の自伝》(1887),《インドのビーナス》(1889),《ローラ・ミドルトン》(1890),《フロッシー》(1897)といった本のほかに,ポルノ雑誌もたくさん出された。《パール》(1879-82),《ブードア》(1883)などが有名である。ビクトリア朝の時代相をよく物語っている自伝的ポルノグラフィーの代表として,《わが秘密の生涯》(1885ころ,匿名),F.ハリス《わが生涯と恋》(1925-29)をあげておこう。なお,19世紀はポルノグラフィックな芸術においても多産な世紀であった。A.ビアズリー,F.ロップス,F.vonバイロスなどの作品がすぐれている。
20世紀に入っても,ビクトリア朝的検閲のある部分はそのままであった。1928年にD.H.ロレンスの《チャタレー夫人の恋人》がイタリアで出版されたとき,イギリスは国内での発売を禁止した。ポルノ産業は20世紀にますます大きくなった。現代の一つの特徴は,文学や芸術が表と裏の境界を意識的に利用してポルノグラフィックな想像力を刺激・消費しようとしていることである。ビクトリア朝からつづいたポルノの検閲は,1960年代に一部が解禁され,80年代にはさらに新しい段階にさしかかっている。
執筆者:海野 弘
W.アレンによると,猥褻性が美学的概念なのに対して,ポルノグラフィーは道徳的概念であるという。ポルノグラフィーは,偽善や上品ぶる感情の内面を暴露したものにほかならない。以下,その現代的意味について,アメリカを中心に記述する。
P.C.クロンハウゼン夫妻は,ポルノグラフィーの特徴をとらえるのに次の12項目を挙げている。全体の構成,誘惑,破瓜(はか),近親相姦,性行動を放任・奨励する両親,瀆聖行為,淫(みだ)らな言葉,精力絶倫型男性,色情狂型女性,性の象徴としての黒人や東洋人,同性愛,鞭打ち。ポルノグラフィーの構成は,不道徳な影響を及ぼすような強烈なエロティック場面の連続で作られており,エロティックでない,気を散らす部分がない。ハード・コア・ポルノグラフィーは性交をあからさまに描いたものであり,ソフト・コア・ポルノグラフィーは性交シーンの偽装,フレンジー・ポルノグラフィーは異常性愛を扱ったもの,と分類されている。ポルノグラフィーの目的は,人間生活の基本的現実を描写するよりも,むしろ読者を性的に興奮させるために,エロティックな心像をひきおこさせることにあり,心理的催淫剤の役割をつとめる点にある。
ポルノグラフィーを取り締まるためには,それが反社会的行動を誘発して有害であることを証明しなければならぬという世論が1960年代に高まった。そこで,アメリカではジョンソン大統領の諮問をうけて,19名の権威者と20名のスタッフが〈猥褻とポルノグラフィーに関する委員会〉をつくり,68年から2年間に200万ドルを費やして実証的研究を行ったが,その報告書の中で委員会は〈性への興味はごくあたりまえの,健康で善良なものであり,ポルノグラフィー問題の大部分は人々が性に対して率直でおおらかな態度をとりえないことが原因をなしている〉と述べ,成人に対するポルノグラフィーの販売,陳列,配付の禁止に関する法律をすべて撤廃するように勧告した。デンマーク,スウェーデン,イスラエル,イギリスなどの研究も同様な結論に達し,日本以外の先進諸国は1960~70年代にポルノグラフィーを解禁した。ポルノグラフィー解禁運動は人間性解放や差別撤廃,精神・言論自由化の運動の一つであるが,国家権力が国民の要求によって解禁に譲歩することによって国家の本質についての問い直しを避け,その要求を無力化した,と考える見方もある。
ポルノグラフィーの心理的影響も科学的に調査されるようになった。ポルノグラフィーを見ても全員が興奮するとは限らず,研究者によって数値は異なるが,近年の調査によれば,男性の23~77%,女性の8~66%が性的興奮を示すにすぎない。その刺激は短時間しか持続せず,抑制によって反応を抑えることもできる。性映画の性的刺激効果は48時間以内に急速に弱まり,性生活に影響を与えない。毎日ポルノグラフィーを見せると興味はしだいに薄れ,1週間後には〈見あきた〉といい出し,3週間後には〈もう見たくない〉という飽和現象が認められる。嫌悪感を抱くかどうかについては,ランニング,割礼,ポルノグラフィー(性交)の各映画を見せて反応を調べると,快適な気分になるのは性交シーンが最高得点であり,不快感は性交シーンが最低得点である。デンマークでは,ポルノグラフィーが広まるとともに性犯罪が激減し,解禁後は3分の1に減った。アメリカの性犯罪者は,10歳代でポルノグラフィーを見る機会がなかった人に多いという。強姦者は,性をタブー視する家庭に育ち,その18%はエロティックな物品を持っていて親に叱られた経験者である。
性的な文書をポルノグラフィーだと考える傾向は,性行動に罪悪感を抱いている人ほど強い。欧米のポルノグラフィーには性交シーンを悪魔がのぞき見しているなどの形で罪悪感がつきまとっていることが多いが,日本の浮世絵春画や春本には罪悪感がみられない。これは,宗教や民俗のちがいによると思われる。
→好色文学 →猥褻
執筆者:小林 司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
人間の性または性的興奮の誘発を目的とする小説、絵画、映画、写真などの総称で、略してポルノともいい、伝統的な好色文学とは区別して現代的、西洋的なものについていうことが多い。西洋では18世紀にジョン・クレランドJohn Cleland(1709―89)の『ファニー・ヒル』(1748~49)、マルキ・ド・サドの『ジュスチーヌ』(1791)などが出てサドやカサノーバの快楽主義が流行し、ポルノグラフィーの黄金時代といわれたが、もっぱら一部の貴族や大ブルジョアのものであった。19世紀になり、印刷技術の発達と、中産階級が読書の能力と経済力をもつようになって市場が広がり、また写真が発明されるなどして、『蚤(のみ)の自伝』(1887)、『インドのビーナス』(1889)、『フロッシー』(1897)、『わが秘密の生涯』(1885ころ)などのほか、雑誌も『パール』『ブードア』など数多く発刊されておびただしいポルノグラフィーが氾濫(はんらん)したが、良風秩序を害するというので検閲制度も設けられるに至った。20世紀に入り、検閲は依然として行われたが、1960年代にアメリカでは、大統領ジョンソンの諮問を受けた19名の有識者の報告に基づいて、成人に対するポルノグラフィーの販売・陳列・配布の禁止に関する法律をすべて撤廃し、ついでデンマーク、スウェーデン、イスラエル、イギリスその他の諸国も1970年代にそれぞれ解禁した。
日本では、古くは平安時代の偃息図(おそくず)(春画)や鎌倉・室町時代の愛欲絵巻『小柴垣(こしばがき)草子』『稚児(ちご)草子』『袋法師絵詞(えことば)』があり、江戸時代には枕絵(まくらえ)・あぶな絵などとよばれる秘戯画や浮世絵、性的川柳(せんりゅう)を収集した『誹風末摘花(はいふうすえつむはな)』ほか『好色吾妻鑑(あづまかがみ)』『好色床談義』『阿奈遠可志(あなおかし)』『藐姑射秘言(はこやのひめごと)』など多くのポルノグラフィーにあふれ、1790年(寛政2)には幕府の老中松平定信(さだのぶ)により板行禁止令も施行されるに至った。第二次世界大戦後は、性解放の風潮に伴い、数少ないポルノグラフィー非解禁国である日本でも、検閲規準に微妙に触れぬ表現のポルノ雑誌が隆盛を極め、ポルノ映画(ピンク映画)、ポルノビデオなど具体的なセックス描写を扱った作品が数多くみられる。
[佐藤農人]
ポルノグラフィーは、日本では法律上「わいせつ物」(猥褻(わいせつ)の文書、図画、彫刻、映画、録音テープ、ビデオなど。なお1995年の刑法改正で口語化が図られたのに伴い、漢字表記も改められ従来の「猥褻」は法律上「わいせつ」と表記されるようになった)にあたるとして、その頒布、販売または公然陳列が禁止される(刑法175条)が、ポルノがすべて猥褻物に該当するわけではなく、その判断基準などは時代によって変化する。この問題は表現の自由との関連で議論されることがある。いわゆるビニール本(ビニル袋に密封された扇情的出版物)の販売事件に関する最高裁判所第三小法廷判決(1983年3月8日)で、文書図画が「猥褻」の概念に該当するかどうかが問題とされる場合において、いわゆるハード・コア・ポルノ(性描写が直接的な作品)と、それにはあたらないが「猥褻」的要素の強いもの(準ハード・コア・ポルノ)とを区別して考えるのが適当である、という補足意見が述べられて注目を集めた。この補足意見は、前者に対する事後の処罰や制裁は日本国憲法第21条第1項(表現の自由)の保護の範囲外にあり、後者を刑法の規制の対象とするときは、猥褻の判断にあたり、当該性表現によってもたらされる害悪の程度と作品の有する社会的価値との利益衡量(対立する諸利益を比較衡量していずれかの価値を優先させること)が不可欠となるとした。
[堀部政男]
1990年代中葉以降、インターネットが急速に普及し始めたのに伴い、インターネット・ポルノが大きな社会問題になり、現行法を改正しまたは新法を制定することによって対応することになった。1999年(平成11)4月1日施行の風俗営業等取締法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)改正法(2001年にも改正)では、次のような規定が盛り込まれた。
(1)もっぱら、性的好奇心をそそるため性的な行為を表す場面または衣服を脱いだ人の姿態の映像を見せる営業で、電気通信設備を用いてその客に当該映像を伝達すること(放送または有線放送に該当するものを除く)により営むものを「映像送信型性風俗特殊営業」と定義し(同法2条8項)、これを営む者に公安委員会への届出を義務づける(同法31条の7)。
(2)自動公衆送信装置設置者(プロバイダー)が、映像送信型性風俗特殊営業を営む者が猥褻な映像または児童ポルノ映像(後述の児童買春処罰法第2条第3項各号に規定する児童の姿態に該当するものの映像をいう。この「児童ポルノ映像」は2001年改正法で挿入された)を記録したことを知ったときは、その送信を防止するため必要な措置を講ずるよう努めなければならないとする(同法31条の8、5項)。
[堀部政男]
また、1999年11月1日施行の児童買春処罰法(児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律)では、児童ポルノ(子どもポルノ)とは、写真、ビデオテープその他の物であって、
(1)児童を相手方とするまたは児童による性交または性交類似行為に係る児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したもの、
(2)他人が児童の性器等を触る行為または児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって、性欲を興奮させまたは刺激するものを視覚により認識することができる方法により描写したもの、
(3)衣服の全部または一部を着けない児童の姿態であって、性欲を興奮させまたは刺激するものを視覚により認識することができる方法により描写したもの、
のいずれかに該当するものと定義されている(同法2条3項)。児童ポルノ(チャイルド・ポルノ)は、欧米先進国では禁止されている。同法制定以前は、日本が児童ポルノなどにかかわる行為を処罰していないことが国際的に批判されていた。なお、この問題は表現の自由などとかかわる面があり、国民の権利を不当に侵害しないように留意しなければならない、という「適用上の注意」が規定されている(同法3条)。
[堀部政男]
『堀部政男著「性表現の自由」(『講座現代の社会とコミュニケーション3 言論の自由』所収・1974・東京大学出版会)』▽『曽根威彦著『表現の自由と刑事規制』(1985・一粒社)』▽『奥平康弘・環昌一・吉行淳之介著『性表現の自由』(1986・有斐閣)』▽『ジュディス・エニュー著、戒能民江・坂田千鶴子・平林美都子訳『狙われる子どもの性――子ども買春・ポルノ・性的虐待』(1991・啓文社)』▽『キャサリン・A・マッキノン著、柿木和代訳『ポルノグラフィ――「平等権」と「表現の自由」の間で』(1995・明石書店)』▽『赤川学著『性への自由・性からの自由――ポルノグラフィの歴史社会学』(1996・青弓社)』▽『青木日出夫著『図説世界の発禁本――ヨーロッパ古典篇』(1999・河出書房新社)』▽『園田寿著『解説 児童買春・児童ポルノ処罰法』(1999・日本評論社)』▽『白倉敬彦・田中優子他著『浮世絵春画を読む』上下(2000・中央公論新社)』▽『荒俣宏著『性愛人類史観 エロトポリス』(集英社文庫)』
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… このような抑圧の激しい時代だけに,隠された暗い部分も多かった。作者不詳で秘密に出版されるポルノグラフィー文学が急に増したのもビクトリア時代であった。これらの筆者や読者はけっして下層社会の無学な者ばかりではなく,いわゆるジェントルマンが多く交じっていた。…
※「ポルノグラフィー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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