レイ(読み)れい(英語表記)John Ray

日本大百科全書(ニッポニカ) 「レイ」の意味・わかりやすい解説

レイ(Nicholas Ray)
れい
Nicholas Ray
(1911―1979)

アメリカの映画監督。本名はレイモンド・ニコラス・キンズル・ジュニアRaymond Nicholas Kienzle, Jr.。ウィスコンシン州ゲイルズビル生まれ。建築家フランク・ロイド・ライトの下で共同生活を経験した後、左翼系の演劇活動に参加する。ラジオの仕事を経て映画界に入り、『夜の人々』(1949)で監督デビュー。その後も『孤独な場所で』(1950)、『大砂塵(だいさじん)』(1954)、『理由なき反抗』(1955)といった作品で、単純な善悪では割り切ることのできない複雑かつ繊細な人間像を提示する。その清新な作風はヌーベル・バーグの若き映画作家からも熱烈に支持された。やがてハリウッドの主流を離脱し、ヨーロッパで歴史大作の監督を余儀なくされたが、それもかなわなくなった晩年は帰国して教育者となり、映画を志す青年たちとともに『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』(1976)の撮影に没頭した。死の間際も、以前から自らに私淑していたビム・ベンダースとの共同監督による『ニックス・ムービー 水上の稲妻』(1980)の撮影中であった。女優グロリア・グレアムGloria Grahame(1923―1981)は2度目の妻。

[藤井仁子]

資料 監督作品一覧(日本公開作)

夜の人々 They Live by Night(1949)
女の秘密 A Woman's Secret(1949)
暗黒への転落 Knock on Any Door(1949)
生まれながらの悪女 Born to Be Bad(1950)
孤独な場所で In a Lonely Place(1950)
危険な場所で On Dangerous Ground(1951)
太平洋航空作戦 Flying Leathernecks(1951)
大砂塵 Johnny Guitar(1954)
追われる男 Run for Cover(1955)
理由なき反抗 Rebel Without a Cause(1955)
ビガー・ザン・ライフ 黒の報酬 Bigger Than Life(1956)
にがい勝利 Bitter Victory / Amere Victoire(1957)
無法の王者 ジェシイ・ジェイムス The True Story of Jasse James(1957)
暗黒街の女 Party Girl(1958)
バレン The Savage Innocents(1960)
キング・オブ・キングス King of Kings(1961)
北京の55日 55 Days at Peking(1963)
ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン We Can't Go Home Again(1976)
ニックス・ムービー 水上の稲妻 Lightning over Water(1980)[ベンダースとの共同監督]

『ベルナール・エイゼンシッツ著、吉村和明訳『ニコラス・レイ――ある反逆者の肖像』(1998・キネマ旬報社)』『スーザン・レイ編、加藤幹郎・藤井仁子訳『わたしは邪魔された――ニコラス・レイ映画講義録』(2001・みすず書房)』『Patrick McGilliganNicholas Ray : The Glorious Failure of an American Director(2011, HarperCollins Publishers, New York)』『Ephraim KatzThe Film Encyclopedia, 5th edition(2005, Collins, New York)』


レイ(Jean Ray)
れい
Jean Ray
(1887―1964)

フランス語で書くベルギーの幻想・怪奇小説家。本名はRaymundus Johannes Maria de Kremer。ゲントの海員の家に生まれる。15歳でロンドン行きの船に乗り組み、1年後ゲントに戻って大学などに通った。ふたたび海員の生活に返ったが、仕事のかたわら小説も書き始めた。1929年、陸上に帰り、ジャーナリストをしながら文筆生活に入った。処女作は25年発表の『パウケンシュラーガー博士の異常な研究』Les étranges études du Docteur Paukenschlager(のちに短編集『ウィスキーのコント集』Les contes de whiskyに所収)で、幻想奇談的色彩が濃い。以来、代表作の長編小説『マルペルテュイ』(1943)をはじめ『幽霊の書』(1947)、『新カンタベリー物語』Les Derniers contes de Canterbury(1944)などでも、いわゆる異次元テーマ、別世界テーマなど怪奇・SF的要素が強い。60年代以降、再評価の声が高まった。また、ジョン・フランダースの名でドイツ、オランダ、ベルギーの怪奇幻想小説を編集する一方、オカルト性、幻想性の強い探偵小説連作『ハリー・ディクソン・シリーズ』Harry Dicksonがある。

[榊原晃三]

『篠田知和基訳『マルペルテュイ』(1979・月刊ペン社)』『秋山和夫訳『幽霊の書』(1979・国書刊行会)』


レイ(夫妻)
れい

夫ハンスHans Augusto Rey(1898―1977)、妻マーガレットMargret Rey(1906―96) アメリカの絵本作家。ともにドイツのハンブルク生まれでアメリカに帰化。ハンスはハンブルグ大学卒業後、フリーランスの作家、イラストレーターを経て絵本作家。マーガレットは、デュッセルドルフ美術学校とミュンヘン大学卒業。写真家、画家、コピーライターを経て絵本作家。夫妻の合作は、ハンスが絵を描き、マーガレットが文章を書いている。代表作『ひとまねこざるときいろいぼうし』『ひとまねこざる』『じてんしゃにのるひとまねこざる』『ろけっとこざる』『たこをあげるひとまねこざる(マーガレット 文)』『ひとまねこざるのABC』『ひとまねこざるびょういんへいく(マーガレット 文)』(1941―66)の主人公は、世界中の子どもたちのアイドルとなっている。その他『どうながのプレッツェル』(1944)、『いぬ おことわり』(マーガレット・ワイズ・ブラウン文、1942)などの楽しい絵本が多数ある。

渡辺茂男

『光吉夏哉訳『ひとまねこざる』シリーズ(1983・大型版・岩波書店)』


レイ(John Ray)
れい
John Ray
(1627/1628―1705)

イギリスの博物学者。ケンブリッジ大学で古典語および神学を修めたが、自然科学に興味をもっていた。トリニティ・カレッジで教職についたが、まもなくこれを辞してウィルビーFrancis Willughby(1635―1672)とともにイギリスおよびヨーロッパで動植物の採集を行った。レイは初め植物の研究を行い、単子葉、双子葉の区別を分類上の名称として最初に用いた。1682年に『植物新分類法』、1693年に『四足動物の分類』を著した。ウィルビーの死後、その研究を引き継いで動物の分類をも手がけ、分類学における種の概念を明確にした。

[八杉貞雄]


レイ(イランの地名)
れい
Rayy

イラン、テヘラン南方約10キロメートルに位置する古都。メディア時代にはラガーとして知られていた。名所アリーの泉に代表されるように、アルボルズ山脈の伏流水に恵まれ、古くからゾロアスター教の聖地であった。また、バグダードと中央アジアとを結ぶホラサーン街道の要地として発展した。10世紀にはブワイフ朝の中央イラン支配の拠点となり繁栄した。その後、ガズナ朝の支配下に入り、セルジューク朝時代には一時その首都となった。セルジューク朝初代スルタンのトゥグリル・ベクもこの近郊で死んでいる。住民の間にはスンニー派シーア派の対立が目だち、12世紀には両者の抗争によって荒廃した。さらにモンゴルの侵入の際に住民の逃亡や手工業者の強制移住によって人口が減少、中心は東方のバラーミーンに移った。15世紀初頭には、すでにレイは無人の状態であったという。しかし現在ではテヘランを中心とする首都圏の一部となり、ベッドタウンとして、人口も増加している。

[清水宏祐]


レイ(Mikołaj Rej)
れい
Mikołaj Rej
(1505―1569)

ポーランドの詩人、小説家、翻訳家で、ポーランド・ルネサンス文学を代表する1人。父親は貴族であったが無学で、レイ自身も少年・青年期を狩猟や魚とりで過ごしたといわれる。ラテン語はすこし学んだが、ほとんどをポーランド語で書き、「ポーランド文学の父」と称されるに至った。1535年クラクフで処女作『貴族、代官、司祭三者間の短い論争』を出版、社会関係を詩的対話の形でヒューマニスティックに風刺した。『ユダヤ人ユゼフの生活』(1545)、『商人』(1549)も詩的対話ないし劇の形で書かれ、改革的精神に満ちた教訓的な作品である。総じてレイの作品は、当時の風俗の色彩あふれる百科事典とも評されている。

[吉上昭三]


レイ(Man Ray)
れい

マン・レイ


レイ(Satyajit Ray)
れい

ライ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レイ」の意味・わかりやすい解説

レイ
Ray, John

[生]1627.11.29. エセックス,ブラックノトリー
[没]1705.1.17. エセックス,ブラックノトリー
イギリスの博物学者,神学者。ケンブリッジ大学に学び,神学,古典語を修めた (1648) 。同大学トリニティ・カレッジの特別研究員 (49) 。王政復古の際の信仰統一令に服さなかった理由で大学を追われる (62) 。 F.ウィルビーと共同でイタリア,ドイツなど動植物の研究調査旅行を重ねる。ロイヤル・ソサエティ会員 (67) 。博物学の多くの著書を残しているが,それらを通じて,単子葉,双子葉の明確な区別に基づいた植物分類,解剖学的知見に基づく動物分類など,分類学上に重要な貢献をなした。また,博物学に基づいた彼の自然神学は 18世紀を通じて民衆レベルでの宗教思想に大きな影響力を及ぼした。主著『一般植物誌』 Historia generalis plantarum (3巻,86~1704) 。ほかに神学関係の著作もある。

レイ
Ray, Man

[生]1890.8.27. フィラデルフィア
[没]1976.11.18. パリ
アメリカの画家,写真家,映画制作者。本名 Emmanuel Radinski。ニューヨークで建築を学び,1913年抽象美術に向う。 15年キュビスム的な画家としてデビュー,17年から M.デュシャン,F.ピカビアとともにニューヨークでダダの運動を展開し,21年パリに移住してその運動を推進した。 22年にカメラを用いない写真レイヨグラフの作品を発表し,また前衛映画『理性にかえる』 (1923) ,『エマク・バキア』 (26) を制作,写真と映画の分野での新しい可能性を開拓した。絵画のほか,アイロンの底に押しピンを張付けた『アイロン』 (21) などのオブジェ,コラージュ,版画も多い。 40~51年ハリウッドに住み,その後再びパリで活躍。 63年自叙伝『自画像』 Self portraitを著わした。

レイ
Rej, Mikołaj

[生]1505. ジュラウノ
[没]1569. レヨウェッツ
ポーランドの作家。「ポーランド文学の父」と称され,詩人 J.コハノフスキとともに 16世紀の「黄金時代」を代表する。小貴族の家に生れ,クラクフ,リボフに学んだ。作品はおもにヒューマニズムに貫かれた教訓的なものが多い。第一作の『領主と村長と主任司祭の短い対話』 Krótka rozprawa między trzema osobami-Panem,Wójtem i Plebanem (1543) は 2113行の詩的な会話形式で社会関係を風刺したもの。ほかに『ユダヤ人の家に生れたユゼフの生活』 żywot Józefa z pokolenia żydowskiego (45) などがある。

レイ
Rey

ライ Rayyともいう。イラン中央北部,テヘラン州の遺跡。テヘラン南東に隣接する。古くはラガ (ラテン語でラーガエ) と呼ばれ,ペルシアの大都市の一つであった。定住地としての歴史は前3千年紀にさかのぼる。ゾロアスター教の聖典アベスタに聖地として記述されており,旧約聖書外典の一つ『トビト書』中にも言及されている。 641年にアラブ人に占領されたが,8世紀にはカリフ,マフディー (在位 775~785) の支配下で,西アジアではダマスカス,バグダードに匹敵する重要性を取戻し,煉瓦と青い彩色陶器 (ファイアンス) で飾られた建物の並ぶ美しい町であった。 12世紀に衰え,1220年にモンゴル軍にほぼ完全に破壊された。かつては芸術的な絹織物で知られた。隣接する新市街は現在テヘラン市に含まれている。

レイ
Lay, Horatio Nelson

[生]1840. ロンドン
[没]?
イギリスの清国総税務司,明治初期の対日事業家。 1859年清国政府に雇われ総税務司となった。太平天国の乱が起ると,北京政府の要請でオズボーン大佐と協力してレイ=オズボーン艦隊を編成したが,清朝の指揮下におこうとしなかったため,総税務司を罷免された。明治2 (1869) 年7月清国で成功しなかった鉄道,電信建設の請負を目的に来日,東京-横浜の鉄道建設事業を日本政府から委任され,11月 100万ポンドをロンドンで起債したが,翌3年日本政府より解約された。

レイ
Ley, Hans Christian Clausen

[生]1828.3.30. コペンハーゲン
[没]1875.12.19. コペンハーゲン
デンマークの画家。風俗画や肖像画を数多く制作。 18世紀のコスチュームを着けた人物たちを町並みに登場させた風俗表現によって知られた。主要作品は『自画像』 (1857,フレデリクスボルク美術館) 。

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