アメリカの映画監督。本名はレイモンド・ニコラス・キンズル・ジュニアRaymond Nicholas Kienzle, Jr.。ウィスコンシン州ゲイルズビル生まれ。建築家フランク・ロイド・ライトの下で共同生活を経験した後、左翼系の演劇活動に参加する。ラジオの仕事を経て映画界に入り、『夜の人々』(1949)で監督デビュー。その後も『孤独な場所で』(1950)、『大砂塵(だいさじん)』(1954)、『理由なき反抗』(1955)といった作品で、単純な善悪では割り切ることのできない複雑かつ繊細な人間像を提示する。その清新な作風はヌーベル・バーグの若き映画作家からも熱烈に支持された。やがてハリウッドの主流を離脱し、ヨーロッパで歴史大作の監督を余儀なくされたが、それもかなわなくなった晩年は帰国して教育者となり、映画を志す青年たちとともに『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』(1976)の撮影に没頭した。死の間際も、以前から自らに私淑していたビム・ベンダースとの共同監督による『ニックス・ムービー 水上の稲妻』(1980)の撮影中であった。女優グロリア・グレアムGloria Grahame(1923―1981)は2度目の妻。
[藤井仁子]
夜の人々 They Live by Night(1949)
女の秘密 A Woman's Secret(1949)
暗黒への転落 Knock on Any Door(1949)
生まれながらの悪女 Born to Be Bad(1950)
孤独な場所で In a Lonely Place(1950)
危険な場所で On Dangerous Ground(1951)
太平洋航空作戦 Flying Leathernecks(1951)
大砂塵 Johnny Guitar(1954)
追われる男 Run for Cover(1955)
理由なき反抗 Rebel Without a Cause(1955)
ビガー・ザン・ライフ 黒の報酬 Bigger Than Life(1956)
にがい勝利 Bitter Victory / Amere Victoire(1957)
無法の王者 ジェシイ・ジェイムス The True Story of Jasse James(1957)
暗黒街の女 Party Girl(1958)
バレン The Savage Innocents(1960)
キング・オブ・キングス King of Kings(1961)
北京の55日 55 Days at Peking(1963)
ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン We Can't Go Home Again(1976)
ニックス・ムービー 水上の稲妻 Lightning over Water(1980)[ベンダースとの共同監督]
『ベルナール・エイゼンシッツ著、吉村和明訳『ニコラス・レイ――ある反逆者の肖像』(1998・キネマ旬報社)』▽『スーザン・レイ編、加藤幹郎・藤井仁子訳『わたしは邪魔された――ニコラス・レイ映画講義録』(2001・みすず書房)』▽『Patrick McGilliganNicholas Ray : The Glorious Failure of an American Director(2011, HarperCollins Publishers, New York)』▽『Ephraim KatzThe Film Encyclopedia, 5th edition(2005, Collins, New York)』
フランス語で書くベルギーの幻想・怪奇小説家。本名はRaymundus Johannes Maria de Kremer。ゲントの海員の家に生まれる。15歳でロンドン行きの船に乗り組み、1年後ゲントに戻って大学などに通った。ふたたび海員の生活に返ったが、仕事のかたわら小説も書き始めた。1929年、陸上に帰り、ジャーナリストをしながら文筆生活に入った。処女作は25年発表の『パウケンシュラーガー博士の異常な研究』Les étranges études du Docteur Paukenschlager(のちに短編集『ウィスキーのコント集』Les contes de whiskyに所収)で、幻想奇談的色彩が濃い。以来、代表作の長編小説『マルペルテュイ』(1943)をはじめ『幽霊の書』(1947)、『新カンタベリー物語』Les Derniers contes de Canterbury(1944)などでも、いわゆる異次元テーマ、別世界テーマなど怪奇・SF的要素が強い。60年代以降、再評価の声が高まった。また、ジョン・フランダースの名でドイツ、オランダ、ベルギーの怪奇幻想小説を編集する一方、オカルト性、幻想性の強い探偵小説連作『ハリー・ディクソン・シリーズ』Harry Dicksonがある。
[榊原晃三]
『篠田知和基訳『マルペルテュイ』(1979・月刊ペン社)』▽『秋山和夫訳『幽霊の書』(1979・国書刊行会)』
夫ハンスHans Augusto Rey(1898―1977)、妻マーガレットMargret Rey(1906―96) アメリカの絵本作家。ともにドイツのハンブルク生まれでアメリカに帰化。ハンスはハンブルグ大学卒業後、フリーランスの作家、イラストレーターを経て絵本作家。マーガレットは、デュッセルドルフ美術学校とミュンヘン大学卒業。写真家、画家、コピーライターを経て絵本作家。夫妻の合作は、ハンスが絵を描き、マーガレットが文章を書いている。代表作『ひとまねこざるときいろいぼうし』『ひとまねこざる』『じてんしゃにのるひとまねこざる』『ろけっとこざる』『たこをあげるひとまねこざる(マーガレット 文)』『ひとまねこざるのABC』『ひとまねこざるびょういんへいく(マーガレット 文)』(1941―66)の主人公は、世界中の子どもたちのアイドルとなっている。その他『どうながのプレッツェル』(1944)、『いぬ おことわり』(マーガレット・ワイズ・ブラウン文、1942)などの楽しい絵本が多数ある。
[渡辺茂男]
『光吉夏哉訳『ひとまねこざる』シリーズ(1983・大型版・岩波書店)』
イギリスの博物学者。ケンブリッジ大学で古典語および神学を修めたが、自然科学に興味をもっていた。トリニティ・カレッジで教職についたが、まもなくこれを辞してウィルビーFrancis Willughby(1635―1672)とともにイギリスおよびヨーロッパで動植物の採集を行った。レイは初め植物の研究を行い、単子葉、双子葉の区別を分類上の名称として最初に用いた。1682年に『植物新分類法』、1693年に『四足動物の分類』を著した。ウィルビーの死後、その研究を引き継いで動物の分類をも手がけ、分類学における種の概念を明確にした。
[八杉貞雄]
イラン、テヘラン南方約10キロメートルに位置する古都。メディア時代にはラガーとして知られていた。名所アリーの泉に代表されるように、アルボルズ山脈の伏流水に恵まれ、古くからゾロアスター教の聖地であった。また、バグダードと中央アジアとを結ぶホラサーン街道の要地として発展した。10世紀にはブワイフ朝の中央イラン支配の拠点となり繁栄した。その後、ガズナ朝の支配下に入り、セルジューク朝時代には一時その首都となった。セルジューク朝初代スルタンのトゥグリル・ベクもこの近郊で死んでいる。住民の間にはスンニー派、シーア派の対立が目だち、12世紀には両者の抗争によって荒廃した。さらにモンゴルの侵入の際に住民の逃亡や手工業者の強制移住によって人口が減少、中心は東方のバラーミーンに移った。15世紀初頭には、すでにレイは無人の状態であったという。しかし現在ではテヘランを中心とする首都圏の一部となり、ベッドタウンとして、人口も増加している。
[清水宏祐]
ポーランドの詩人、小説家、翻訳家で、ポーランド・ルネサンス文学を代表する1人。父親は貴族であったが無学で、レイ自身も少年・青年期を狩猟や魚とりで過ごしたといわれる。ラテン語はすこし学んだが、ほとんどをポーランド語で書き、「ポーランド文学の父」と称されるに至った。1535年クラクフで処女作『貴族、代官、司祭三者間の短い論争』を出版、社会関係を詩的対話の形でヒューマニスティックに風刺した。『ユダヤ人ユゼフの生活』(1545)、『商人』(1549)も詩的対話ないし劇の形で書かれ、改革的精神に満ちた教訓的な作品である。総じてレイの作品は、当時の風俗の色彩あふれる百科事典とも評されている。
[吉上昭三]
インドの映画監督。カルカッタ生れ。日本ではサタジット・レイという呼び方が定着してきているが,レイというのは英語読みを日本語に移したもので,ベンガル語の発音を模していえばショトジット・ライとなる。〈映画を単なる娯楽としてでなく,芸術と認識したインド最初の世代〉を代表する監督であり,インド映画に初めて国際的な高い評価をもたらした。処女作《大地のうた》(1955)が1955年度カンヌ映画祭の〈ヒューマン・ドキュメント賞〉をはじめとする12の賞を獲得して以来,《大河のうた》(1956)の57年度ベネチア映画祭グラン・プリ,《大都会》(1963)の64年度ベルリン映画祭グラン・プリ等々,次々と国際映画祭の賞をさらい,インド映画最高の巨匠とみなされるに至り,また日本の黒沢明と並んでアジアの生んだもっとも偉大な映画作家ともみなされている。
サタジット・レイの功績は,それまで歌と踊りが必ず入る夢物語のようなものだったインド映画に,現実を見据える日常的なリアリズムとそれをささえる高い精神性を根づかせた点にあり,それは彼が1950年にロンドンに渡ったときに見た,ビットリオ・デシーカ監督の《自転車泥棒》(1948)をはじめとするイタリアの〈ネオレアリズモ〉の映画から学んだものだとみずから証言している。1947年にカルカッタで最初のシネクラブを組織したサタジット・レイは,ロバート・フラハティ,エイゼンシテインらの外国映画を上映し,そこから映画活動を始めた。広告代理店のアート・ディレクターをやっていた時代に挿画を描いたビブティブション・ボンドパッダエの自伝的小説《ポテル・パンチャリPather Panchali(道の物語)》の映画化を思い立ち,《河》(1950)の撮影でインドを訪れていたジャン・ルノアールにも励まされ,私財を投げ打ち,52年から55年までかかって完成させたのが《大地のうた》(ベンガル語の原題は小説と同じ《ポテル・パンチャリ》)である。ベンガル地方の小さな村に住む一家に訪れる運命を淡々としたタッチで描いたこの作品は,主人公の少年オプーの青年時代からおとなへの成長を追った続編《大河のうた》《大樹のうた》(1959)とつづき,〈オプー三部作〉をなす。また,インドの民族楽器シタールを使ったラビ・シャンカルの音楽も世界的に注目を浴びた。
サタジット・レイは〈詩聖〉タゴールと親交のある家庭に育ち,タゴールの創設した大学に学んで薫陶をうけ,《女神》(1960),《三人の娘》(1961),《チャルラータ》(1964)などタゴールの作品を原作とした映画も多く,《詩聖タゴール》(1961)という記録映画も撮っている。レイの映画はベンガル語映画であるが,《チェスをする人》(1977)のように,観客層を広げるためにヒンディー語映画として製作されたものもある。61年以降の作品はみずから音楽も担当している。自伝《われらの映画,かれらの映画》(1976)がある。
→インド映画
執筆者:宇田川 幸洋
アメリカの画家,彫刻家,写真家,映画作家。フィラデルフィア生れ。初め建築を,ついでニューヨークのフェラー・センターなどで素描を学ぶ。1913年にニュージャージー州リッジフィールドに住み,友人たちと芸術家村を作ろうと試みた。同年開かれた〈アーモリー・ショー〉に刺激をうけて,ヨーロッパの前衛的な芸術を吸収してゆく。15年,初の個展を開き,写真にも手をそめ,またデュシャンに会う。ダダ的な雑誌(《ブラインド・マン》《ロングロングRongwrong》等)を発行し,デュシャン,F.ピカビアらと,のちに〈ニューヨーク・ダダ〉と呼ばれる活動を展開する。21年初めてパリに行き,画家や詩人とともに〈パリ・ダダ〉,さらにシュルレアリスムの活動に加わる。パリではオブジェ作品や絵を制作して多くの展覧会に参加したほか,印画紙の上にいろいろな立体を直接置いて感光させる〈レイヨグラフrayographe〉を初めて試み(作品集《甘美なる場》1922),P.エリュアールら詩人との共作の書物(たとえば1937年の《自由な手》)を刊行,また映画(1923年《理性への回帰》,1926年《エマク・バキアEmak Bakia》,1928年《ひとで》)も制作した。第2次世界大戦が起こりナチ占領直前のパリを逃れてアメリカに戻り,ハリウッドに住むが,51年以降ふたたびパリに居を構えた。画家・彫刻家としてのレイは,初期にはフォービスム的,そしてキュビスム的な作風を示したが,1918年に吹付けによる絵画を試みるころから独自性をみせる。10年代後半から30年代にかけては,ダダおよびシュルレアリスムのオブジェ作品(たとえば1921年の《贈物》)によって既成の芸術概念からの逸脱を試み,そのかたわらブラック・ユーモアめいた絵画も描いた。また恋人でもあったモンパルナスのキキをはじめ,画家,彫刻家,詩人,文学者,音楽家など数知れない人々の肖像写真を撮影して,この時代のパリの証人ともなった。芸術から社交の世界まで,その交友の広がりは驚くべきものがある。63年,自伝《セルフポートレート》(邦訳1981)を刊行。本名はエマヌエル・ラベニンスキーEmmanuel Raveninskyといわれる。
執筆者:千葉 成夫
イギリスの植物学者。ロンドンの北東にあたるエセックス州のブラック・ノートリーの鍛冶屋の子に生まれた。薬草にくわしい母の影響で植物を好んだ。ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで勉強し,母校の古典語の講師,後に牧師となったが,政治上の見解から1661年にやめ,弟子の動物学者ウィラビーFrancis Willughby(1635-72)を伴い国内やヨーロッパ大陸各地に自然観察の旅をつづけ,たまたま故郷にいるときに死んだ。レイは植物学者モリソンRobert Morison(1620-83)とともに英国で本草を離れた初めての植物学者といわれる。英国の植物目録をつくり,新しい植物体系で初めて草部を不完全類(隠花植物)と完全類(顕花植物)に分け,後者を単子葉植物と双子葉植物とに分けたことは画期的で,イギリスでは長らくレイの体系が採用された。また〈種〉を定義し,同一植物の種子から生えた植物が増えて,それが種を形成するとした。つまり同一の種のものは同一先祖をもつとした。さらにユングJoachim Jung(1587-1657)の手記を入手し,それにより植物用語を改良し,植物学に大きな発展をもたらした。そのほか,イルカなどの比較解剖学に関する論文や民間伝承に関する著作も残している。
執筆者:木村 陽二郎
ポーランドの詩人,散文家。コハノフスキとともにルネサンス期を代表し,ときに〈ポーランド文学の父〉と称される。富裕な士族階級の出身。若くして大貴族テンチンスキの宮廷に出入りし,人文主義の洗礼を受ける。30代後半(1541ころ)キリスト教カルバン派に改宗,新時代の闘士であることを自覚したレイは,1543年,《貴族,平民,僧侶3者の会したるによる小話》を上梓,教会権力をはじめとするいっさいの旧習に痛罵を浴びせた。みずからプロテスタントであったレイの文学観は,総じて当時の宗教改革派中小士族階級の世界観に通じ,風刺と諧謔を旨とするその文筆活動はもっぱら平易なポーランド語によった。作品にはほかに《義人の自叙伝》(1558),《動物園》(1562),《鏡》(1567-68)などがある。いずれも同時代の比類ない観察者であるレイの面目躍如たる作品として記憶される。
執筆者:諸星 和夫
ハワイで用いられる,頭や首,肩にかける装飾用の輪。日常のものから,ダンス,祭り,宗教儀礼などさまざまな場面で用いられる。現在見られる観光用のレイは花を主とするが,かつては芳香を放つ木の葉や草,シダ,海草,貝殻,羽毛,堅果,鯨歯などその材料は多種多様であった。レイは尊敬すべき人,愛する人,貴族,神々に献じられ,旅する者はその地の伝説や特産物と関連した材料で作られたレイを携えていった。またレイには,けがれを防ぐ,豊饒(ほうじよう)を願う,別れる,母乳が出る,など,材料によって特定のシンボリックな意味が表現されていた。鯨歯のレイは首長の最高の財産であり,羽毛のレイの着用は貴族の女性に限られ,黄色が最も価値あるものとされた。レイを捨てる際は細心の注意を払い,他人の手に渡らないよう処分されたが,これは自分に危害を及ぼす邪術師の手に渡るのを防ぐためであった。
執筆者:矢野 将
イラン中部の都市。古称はラガRagha。古来東西交通の要衝を占め,アケメネス朝下で大都市として栄え,イスラム時代にもジバール州の主要都市であった。アッバース朝カリフ,ハールーン・アッラシードはここに生まれたという。1221年モンゴル軍により大虐殺を被り,14世紀にはティムールによって破壊された。シーア派の第8代イマームであるイマーム・レザーの息子,アブド・アルアジームの墓がありシーア派の聖地の一つである。現在はテヘラン市に含まれる。
執筆者:岡﨑 正孝
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…そして種の集りを属とし,個々の種について記載するときには,属の部分で共通の特徴を,種では個別の特徴を述べるようにした。その後中世までには,薬になる生物のリストなども作られていたが,17世紀の末になって,イギリスのレイJ.Rayがはじめてヨーロッパ産の動植物について,分類の単位としての種speciesの概念を定着させた。生物の分類はさらに下って18世紀のC.vonリンネによって確立されたが,彼の場合も,一つ一つの種について長いラテン語による記載を与えていた。…
… 被子植物は約370科,1万2500属,22万種を含んでおり,二大群,すなわち双子葉植物綱と単子葉植物綱に分けられる。双子葉植物と単子葉植物の区別は古くレイJ.Rayによって認められたといわれているが,リンネ以後に,正式に分類群として記載したのはジュシューA.L.de Jussieuである(1789)。しかし,彼の双子葉植物には裸子植物が含まれている。…
…その後,13世紀のアルベルトゥス・マグヌスの《植物論De vegetabilibus》を除けばめぼしい業績はなかったが,16世紀に至ってディオスコリデスの追加訂正の形でブルンフェルスO.Brunfels,フックスL.Fuchs,クルシウスC.de Clusiusらの植物の図解が次々と世に出たほか,16世紀末にはA.チェザルピーノの《植物学De plantis libri》がまとめられた。コルドゥスV.CordusやボーアンG.Bauhinらが薬物学としての植物学を大成させていくのと並行して,17世紀末から18世紀初頭にかけて,レイJ.RayやトゥルヌフォールJ.P.de Tournefortが種や属の概念を確立し,18世紀のリンネによる近代植物学への基礎固めが始められることになる。 日本の本草学は中国から輸入された。…
…そして種の集りを属とし,個々の種について記載するときには,属の部分で共通の特徴を,種では個別の特徴を述べるようにした。その後中世までには,薬になる生物のリストなども作られていたが,17世紀の末になって,イギリスのレイJ.Rayがはじめてヨーロッパ産の動植物について,分類の単位としての種speciesの概念を定着させた。生物の分類はさらに下って18世紀のC.vonリンネによって確立されたが,彼の場合も,一つ一つの種について長いラテン語による記載を与えていた。…
… 被子植物は約370科,1万2500属,22万種を含んでおり,二大群,すなわち双子葉植物綱と単子葉植物綱に分けられる。双子葉植物と単子葉植物の区別は古くレイJ.Rayによって認められたといわれているが,リンネ以後に,正式に分類群として記載したのはジュシューA.L.de Jussieuである(1789)。しかし,彼の双子葉植物には裸子植物が含まれている。…
…その後,13世紀のアルベルトゥス・マグヌスの《植物論De vegetabilibus》を除けばめぼしい業績はなかったが,16世紀に至ってディオスコリデスの追加訂正の形でブルンフェルスO.Brunfels,フックスL.Fuchs,クルシウスC.de Clusiusらの植物の図解が次々と世に出たほか,16世紀末にはA.チェザルピーノの《植物学De plantis libri》がまとめられた。コルドゥスV.CordusやボーアンG.Bauhinらが薬物学としての植物学を大成させていくのと並行して,17世紀末から18世紀初頭にかけて,レイJ.RayやトゥルヌフォールJ.P.de Tournefortが種や属の概念を確立し,18世紀のリンネによる近代植物学への基礎固めが始められることになる。 日本の本草学は中国から輸入された。…
…〈ブローアップ映画〉としては,ほかに,例えば,表現上の方法論として〈東映W106方式〉と名付けられたブローアップ方式による内田吐夢監督《飢餓海峡》(1964)の実験もある。これはドラマの内的世界を粗い画調で表現しようとするもので,硬調と軟調の16ミリフィルムを使い分けてソラリゼーション(現像処理によって濃淡の階調をつぶしてネガ出しのような画調を作ることで,銅版画が動いているように見える効果)を使ったり,マン・レイが初めて使ったといわれる〈サバチエ方式〉(現像過程で意識的に光線を入れてネガフィルムに感光させ,光の波が走っているような画像を作り出す方法)を導入するなど,〈小型映画〉のもつ実験的特性を遺憾なく発揮させた作品である。ほかにも,マーティン・スコセッシ《タクシー・ドライバー》(1976)のイルミネーションがにじむニューヨークの夜景や,羽仁進《不良少年》(1960)の回想シーンに隠し撮りによる16ミリのショットを挿入するなどのブローアップ効果で成功した作品がある。…
…自発性から生まれるあらゆる神々への絶対で,議論の余地なき信頼,ダダ〉(《ダダ宣言1918》)とあるように,ツァラたちは嫌悪と自発性だけを原理に,あらゆる物質と行為から芸術を再生させようとした。 一方,同じころニューヨークでは,1913年の〈アーモリー・ショー〉に,《階段をおりる裸体》を出品して反響を呼び,17年レディ・メイドの便器(《泉》と題される)を出品して物議をかもしたM.デュシャン,〈無用な機械〉シリーズで知られるマン・レイ,13年写真家スティーグリッツの画廊〈291〉で個展を開き,18年秋チューリヒに赴きツァラと意気投合する反芸術の闘士ピカビア,騒音音楽のバレーズらがダダ的サークルを形づくっていた。 17年1月ベルリンに戻ったヒュルゼンベックは,フォトモンタージュの名人ハウスマンとその恋人ハンナ・ヘーヒHannah Höch(1889‐1978),戦争中排外主義を嫌って英語風に改名した,政治的フォトモンタージュ作家ジョン・ハートフィールドと弟の編集者ウィーラント・ヘルツフェルデ,軍人とブルジョアを風刺する画家グロッス,ざれ歌詩人メーリングらとともに,18年4月〈ベルリン・ダダ〉を結成した。…
…歴史的には,ドイツのJ.H.シュルツェ(1727)やイギリスのT.ウェッジウッド(1802)などが感光材料を考案する際に行った実験もフォトグラムの方法によっているといえるが,明確な形では,W.H.F.タルボットのレース模様をフォトグラムにした資料(1839)が,現存する最も古いものだろう。この方法を表現手段として利用した作家で著名なのは,M.レイとL.モホリ・ナギで,M.レイはこの方法に自分の名を冠してレイヨグラムRayogramと呼び,多くの作品を残している。モホリ・ナギがフォトグラムを重要視したのは,抽象的な画像において,絵具を使った場合のような筆跡を排除できるからであり,このことによって匿名性を確保できるという構成主義の立場からであった。…
…スイスで病気療養中に写真に興味を持ち,本格的に写真を始めた。その後パリへ出て,1929‐30年の間M.レイのアシスタントを勤め,そこでE.アッジェ,E.ウェストン,ブラッサイの写真に触れ,また親交のあったシュルレアリストたちの影響を受けた。31年ロンドンに戻り,フリーの写真家としての活動を始める。…
… インド映画製作の中心地としては,西のボンベイのほかに東のカルカッタ,南のマドラスがある。カルカッタ郊外のハリウッドをもじって〈タリウッド〉と呼ばれるタリゴンジュを中心にして作られるベンガル語映画は,感傷的で哀愁を帯びた物語や詩(主としてこの地方出身の〈詩聖〉タゴールの作品)を題材にとることが多く,イギリス帰りのインド人の虚栄を風刺したディレン・ゴンダパッダエ監督の喜劇《イギリス帰り》(1921),プラモテシュチョンドロ・ボルア監督の〈社会的抗議〉を含んだ悲恋映画《デブダシュ》(1935),1947年の分割後に東パキスタンから西ベンガルに移住してきた難民を描いたニマイ・ゴーシュ監督《根こそぎ》(1951)など,娯楽映画の中に早くから社会派的な映画が生まれていたが,サタジット・レイ監督が《大地のうた》(1955)でデビューするといっそう〈芸術映画〉はベンガル語映画を特色づけることになる。《大地のうた》《大河のうた》(1956),《大樹のうた》(1959)の〈オプー(主人公の名まえ)三部作〉でサタジット・レイは国際的にインドを代表する映画作家となったが,《都会の人》(1952)でデビューした《反機械的》(1958)のリッティク・ゴトク,《夜明け》(1956)でデビューしたムリナール・セーンの2人も,レイと並ぶベンガル語映画の代表的映画作家である。…
※「レイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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