フランスの戯画家,画家,彫刻家。マルセイユで生まれる。父はガラス屋を営んだが,詩人としての成功を夢みてパリに移住した。少年時代は生活のために働きながら絵や石版術を学んだ。ルイ・フィリップを洋梨になぞらえたフィリポンCharles Philipon(1804-62)が主宰している風刺雑誌《カリカチュール》,《シャリバリ》を舞台に,シャルレNicolas Toussaint Charlet(1792-1845),トラビエCharles-Joseph Traviès(1804-59),ドベリアAchille Deveria(1805-59)らと共通する様式の石版風刺画家として声価を確立する。その契機となったのは洋梨風の国王を貪欲な巨人に見たてた《ガルガンチュア》(1830)で,このため6ヵ月の入獄と罰金が科された。さらに腐敗議会を《立法府の腹》で視覚化し,官憲の暴力を《トランスノナン街》(ともに1834)の虐殺で図示したが,35年に厳しい検閲制度がつくられ,以後政治風刺は困難になった。それでも二月革命から第二帝政成立前後と60年代後半から普仏戦争期には,軍国主義帝政擁立者の典型としての《ラタポアル》(塑像。1851),《閲兵の日》(1851),《ライフル発明者の夢》(1866)など痛烈な政治的作品が作られる。それ以外には風俗をおもな主題とした。その代表作は舞台ですでに知られていた物欲に憑かれた小市民《ロベール・マケール》(100図。1836-38)で,国外にまで類似作品を流行させた。《水浴の男たち》(31図。1839),《古代史》(50図。1841),《法廷の人々》(1845-48),《皆の願い》(70図,1848-51)など,バルザックにたとえられる広大な視野の下に,小市民生活の瑣末な哀歓を雄弁な身ぶり,表情と,微妙な明暗法や逆光の効果を駆使して描きだした。それはときには辛辣に,ときにはユーモアと親密さをこめて表され,年とともに自由な描線には雄大な趣が加えられていった。作品の大部分は石版画で4000点に近い。さらに1000点ほどの木口木版画と300点に及ぶ油彩画がある。油彩画は二月革命政府の依頼になる《共和国》(1848)以後数が増える。《洗濯女》《版画愛好家》《チェスをする人》《ドン・キホーテ》《三等客車》《クリスパンとスカパン》などのほかに水彩(《スープ》など)や素描においても太めの筆線を生かし,細部を略した大胆な様式を示し,それは後期印象派以後の近代絵画を予告するもので,ときにそれをバロック的な壮大な情念で包みこむのであった。これらは19世紀の代表的な画家としての力を見せる。さらに初期からプレオーAntoine Augustin Préault(1810-79)の影響をうけた戯画的彫像(《ラタポアル》)と《移民》(浮彫。1848)などの彫刻でも注目すべきものがある。彼の芸術は当時の多くの具眼の士から絶賛されたが,苦しい生活に終始した。
執筆者:坂本 満
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フランスの画家、版画家。2月26日マルセイユに生まれる。1815年、ガラス工で詩人の父親がペンで身をたてようとパリに出たのをきっかけに、一家は翌年パリに移住。執達吏の給士や本屋の店員として苦労を重ねたのち、画家への道を歩み出す。やがて石版画の技法を習得、30年に『カリカチュール』誌を創刊したシャルル・フィリポンの注目するところとなり、同誌の風刺漫画家として雇われる。彼は数々の辛辣(しんらつ)きわまりない政治風刺画を寄稿したが、国王ルイ・フィリップをガルガンチュアに見立てた作品が官憲の忌諱(きき)に触れ、6か月の投獄の憂き目をみる。しかし彼の名声は一躍高まり、『トランスノナン街』など数々の名作を世に送り出した。35年、出版の自由を制限する法律により『カリカチュール』誌が廃刊に追い込まれると、彼もまた政治風刺から社会風刺に転じ、同じフィリポンの創刊になる日刊紙『シャリバリ』をおもな舞台に、皮肉なユーモアを込めてブルジョアジーを嘲笑(ちょうしょう)し、あるいは慈悲にも似た優しさでつつましい庶民をひやかしもした。48年の二月革命は共和主義者ドーミエの夢を実現させたかにみえた。しかしルイ・ナポレオンが支配力を伸ばし始めると、ふたたび政治風刺に着手、この新たな敵を攻撃すべく、石版画と彫刻とでボナパルト派を象徴する『ラタポワール』を制作した。しかし51年12月、ルイ・ナポレオンが権力を掌握すると、彼の政治活動は再度中止のやむなきに至った。
彼は生涯に約4000点もの石版画を残したが、油彩画家としても近年高い評価を得ており、記憶と想像力によりながらも、リアリスティックな表現と明暗の巧みな対照によって『洗濯女』『三等列車』『ドン・キホーテ』などを描いた。晩年は盲目同然となり、生計にも苦しんだが、友情に厚いコローの援助でバルモンドアに住居を提供してもらい、79年2月11日、そこで生涯を閉じた。彼は率直鋭利な観察と高い精神性によって写実主義の先駆的地位を占め、ドガやロートレックら近代の画家に大きな影響を与えた。
[大森達次]
『R・レー著、大島清次訳『ドーミエ』(1969・美術出版社)』▽『R・エスコリエ著、幸田礼雅訳『ドーミエとその世界』(1980・美術出版社)』
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…意表を突いたり,グロテスク化して得られる滑稽の効果は,文学ではとりわけ風刺やパロディに,演劇では中世の謝肉祭劇や近世の民衆劇,現代の不条理劇に多くみられる。近代絵画ではドーミエが戯画化による滑稽を巧みに用いて人間典型を描き出した。批評機能としての滑稽の要素は,シュルレアリスム絵画やポップ・アートにも認めることができる。…
…ロマン主義の一つの帰結として〈芸術のための芸術〉をスローガンとする芸術至上主義がT.ゴーティエによって唱えられたが,シャンフルーリはこれに反対し,芸術はあくまでも人間の実生活を描くことにある,と主張した。この考え方は,批評家の間ではカスタニャリ,デュランティ,シルベストルThéophile Silvestreらに支持され,芸術家としてはクールベ,ドーミエ,ボンバンFrançois Bonvin(1817‐87)らに共鳴者を見いだした。ボードレールは後にこれを〈創造力の欠如〉として批判するが,初期には彼らの主張を大いに支持した。…
…さらに死後発表された版画集《戦争の惨禍》で,ゴヤは単にナポレオン軍のスペイン侵略の記録というだけでなく,政治的迫害や腐敗した政府の破局への激昂を風刺版画に吐露した。19世紀のフランスの画家H.ドーミエは週刊誌《カリカチュール》や新聞《シャリバリ》で彼の憎悪する国王,政治家,軍人,法曹界への風刺の手を休めず,読者の喝采を浴びた。当局の検閲が厳しくなると風俗版画(《青鞜運動》など)に主力を置く。…
※「ドーミエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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