ロシアの詩人,文芸理論家。モスクワ大学文学部からベルリンに留学,ローマ史を専攻した。《導きの星》(1903),《透明》(1904)の2詩集で象徴派詩人としての地位を確立,その後はニーチェ,ソロビヨフの影響下に,悲劇の起源としてのディオニュソス崇拝,神話の核をなす〈象徴〉の発見,〈神話創造〉行為としての演劇といった問題提起を軸に,後期象徴派の指導的理論家となった。《星めぐり》(1909),《畝と畦》(1916)などの論文集があり,ドストエフスキー論はとくに有名。彼の住いは〈銀の時代〉の代表的文学サロンでもあった。革命後はバクー大学教授として学術・文化啓蒙活動のかたわら,ゲルシェンゾーンとの共著で独自のロシア文化論《二つの隅からの文通》(1922)などを出す。1924年にローマに亡命,カトリックに改宗して,ダンテやペトラルカのロシア語訳などを進めた。ほかに詩集《エロス》(1907),《冬のソネット》(1920),晩年の詩を集めた《夕べの光》(1960)がある。
執筆者:江川 卓
ソ連邦の小説家。シベリアの田舎教師の家に生まれ,早くから家を出て放浪し,さまざまの職業を経験した。ゴーリキーの影響のもとに作家活動を始め,1921年ペトログラード(現,サンクト・ペテルブルグ)に出て〈セラピオン兄弟〉グループの一員になった。アジアでのパルチザン戦の様相を色鮮やかな装飾的文体で描いた中編小説《パルチザン》(1921),《装甲列車14-69》《色ある風》(ともに1922)などによって,ソビエト散文の最初の代表者として揺るぎない名声を獲得した。《装甲列車14-69》は27年に劇化され,ソビエト演劇の古典的名作のひとつになった。1920年代の末にラップ(ロシア・プロレタリア作家協会)の批判をあび,それ以後も五ヵ年計画,経済復興,第2次大戦などを題材にした小説を発表したが,自伝的長編小説《ある托鉢僧の冒険談》(1935)のほかは生気ある作品は生まれなかった。
執筆者:安藤 厚
ロシアの画家。ペテルブルグに生まれ,1827年美術学校を金賞で卒業。だが一部から卒業制作には政治批判が暗示されていると非難された。30-57年イタリアに遊学して古代美術とルネサンス絵画の形態,色彩を研究。歴史および聖書を題材として,いかに時代の要求を反映させるかに苦悩し,外光による人物描写の習作を20年余も重ねて《人びとの前に現れたキリスト》(1857)を完成した。描かれた群衆は当時の社会の縮図であり,救済者の出現を待ち望む姿であった。ロシアにおける外光描写の始祖とされる。ロシア正教の思想と西欧の絵画技法を結びつけ,新しいロシア絵画を目ざした。
執筆者:濱田 靖子
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ロシアの舞踊家、振付師。サンクト・ペテルブルグ生まれ。同地の帝室舞踊学校を1852年に卒業。帝室バレエの本拠地マリンスキー劇場で活躍、19世紀後半のロシア・バレエの興隆に貢献した。終生プチパの影に隠れた存在であったが、最近の研究では、『白鳥の湖』の第2幕のバレエ・プランと第4幕は彼の振付けになるとされている。ほかに『ラ・フィユ・マル・ガルディ』『くるみ割り人形』などの振付けがある。
[市川 雅]
ロシアの詩人、劇作家、文芸批評家。モスクワ大学、ベルリン大学で古典学を学び、ニーチェの影響のもとに古代の宗教・演劇の研究と詩作に没入し長く西欧にとどまった。詩集『導きの星』(1903)、『透明』(1904)やディオニソス宗教の研究『ギリシアの苦悩する神の宗教』(1904~05)で名声を得て帰国、悲劇『タンタロス』(1905)、詩集『熱き心』(1911~12)や数多くの文芸批評を発表し、ロシア象徴派の第二世代の中心的存在となった。「イワーノフの水曜会」とよばれた彼のサロンは首都の文壇の中心としてにぎわった。革命後も文化部門で活躍、バクー大学で古典学の教授から学長にまでなったが、1924年イタリアへ移住。その後も詩作と著作を続け、ロシアの精神の西欧における代表者として知られた。彼のドストエフスキー研究の成果は後代に大きな影響を与え、今日でも高い価値をもつ。
[安藤 厚]
ロシアの画家。サンクト・ペテルブルグに生まれ、同地で没した。同地の美術アカデミーで教えていた父親に学び、卒業後、1831年からイタリアに留学し、1858年までローマに滞在した。その間、『マグダラのマリアに現れたキリスト』(1834~1835年。ロシア美術館)と『民衆の前に現れたキリスト』(1837~1857年。トレチャコフ美術館)を描いた。とくに後者は、完成に20年を費やした文字どおりのライフワークで、ロシア絵画史上に一時代を画した。そのテーマはキリスト教信仰の絵画的表現であり、宗教画として理解できるものの、発表当時から「崇高な失敗作」との批判的意見もあった。しかし、そのエスキスのなかには意外と新しい絵画的実験が試みられており、この画家の才能を感じさせる。
[木村 浩]
ソ連の小説家、劇作家。シベリアの小学校教師の家に生まれる。小学校卒業後、印刷工、荷揚げ人夫、船員、サーカス団員など種々の職業につきながら国内各地を放浪、1917年には赤軍に入って戦闘に参加する。15年から作品を発表し、ゴーリキーに激励された。文学グループ「セラピオン兄弟」の有力メンバーになり、国内戦時代の複雑な体験を投影させた中編『パルチザン』(1921)、『装甲列車14‐69号』(1922)で大きな反響をよぶ。後者は27年作者の脚色によりモスクワ芸術座で初演され、ソ連演劇の古典になっている。ほかに回想『ゴーリキーとの出会い』(1947)など。
[中本信幸]
『黒田辰男訳『装甲列車14‐69号』(青木文庫)』
亡命ロシア詩人。1912年ごろから名を知られるようになり、主としてアクメイズムの雑誌に拠(よ)った。22年にフランスに亡命。かつてのものうい優雅な詩風は苦々しい痛みを混じえて、より簡潔に鋭く刻みあげられる。ロシアの大地からもぎ離された詩人にとって、詩はときおり天から落ちてくるバラであり一瞬の光であった。死の直前数か月間の作品を含む『詩選集』(1980)がもっともよくその全貌(ぜんぼう)を伝えている。
[小平 武]
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…ナポレオン戦争の勝利は愛国心を目ざめさせ,歴史画,風俗画,風景画などすべてのジャンルの絵画が誕生した。さらに19世紀中期には,A.A.イワーノフのような国民の意識改革を促す者も現れた。1850年代末から60年代は,専制政治下の社会批判を含む傾向が強まり,V.G.ペローフのように絵筆により社会の最下層階級の悲哀を訴える画家たちの登場を見る。…
※「イワーノフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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