チリの詩人。本名はRicardo Neftari Reyes Basoalto。ポール・ベルレーヌとチェコの作家ヤン・ネルダからとった筆名を、1946年に本名とする。中部のパラールで鉄道員の父親と教員の母親の間に生まれ、母親の死後、南部のテムコに移住。辺境の荒々しく魅惑的な自然は彼の詩作の源泉となった。1921年、フランス語教師を目ざし、サンティアゴの大学に入学。学生連盟主催のコンクール優勝作『祭りの歌』(1921)や処女詩集『たそがれの歌』(1923)は、近代派の影が色濃い。しかし、当時、純粋詩への反動として現れた新ロマン主義の傾向をもつ『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』(1924)は、女性の肉体を「自然」に例えた大胆な表現により、近代主義を超え、青年たちの間に反響をよぶとともに、今日も多くの読者をもっている。『無限の人間の試み』(1925~1926)や、外交官として東南アジア、アルゼンチン、スペインを巡るなかでおもに書かれた『地上の住処(すみか)Ⅰ・Ⅱ』(1931~1935)では、シュルレアリスムおよび表現主義に近づいている。後者に現れるのは崩壊する世界、廃墟(はいきょ)であり、ペシミズムと苦悩の混沌(こんとん)のなかに深く身を沈める詩人の姿である。スペインで「27年世代」と交遊しつつ、詩誌『詩のための緑の馬』を主宰、そのなかで純粋詩を攻撃し、「不純粋詩」を唱えた。遭遇した内戦を機に、現実直視、人類連帯を志向する姿勢が現れる。『第三の住処』(1947)に含まれる『心の中のスペイン』(1937)は社会派詩人としての変化を示す詩集である。
その後、共産党に入党するとともに、上院議員にもなり、アメリカ大陸や人類に対する愛を歌った叙事詩、『大いなる歌』(1950)を書く。傑作『マチュピチュの頂(いただき)』はそのなかに含まれている。続く単純素朴な世界を扱った『基本的なオード』を経て、オプティミズムに満ちた『百の愛のソネット』(1959)や、祖国チリの自然とその神秘や、自伝、政治などのテーマを多様な形式で書き続けた。アジェンデ政権成立(1970)後はフランス大使をも務めた。1950年スターリン平和賞、1971年にノーベル文学賞を受賞したが、1973年、クーデターの最中に病没した。
[野谷文昭]
『本川誠二訳『ネルーダ回想録――わが生涯の告白』(1976・三笠書房)』▽『羽出庭梟編・訳『ネルーダ詩集』(『世界現代詩集Ⅲ』所収・1964・飯塚書店)』▽『大島博光編・訳『ネルーダ詩集』(『世界の詩集20』所収・1971・角川書店)』▽『荒井正道他訳『パブロ・ネルーダ ハインリッヒ・ベル』(『ノーベル賞文学全集25』所収・1973・主婦の友社)』
チリの詩人。1920年代に象徴派風の憂愁にみちた《たそがれ》(1923)や,官能の喜びと不安をうたった《二十の愛の詩と一つの絶望の歌》(1924)で詩壇に登場。次いで《無限の人間の試み》(1925),《住民と希望について》(1926),《熱狂的な投石兵》(1933)を発表した後,外交官としてインドに赴き,この東洋体験とシュルレアリスムの影響の下に,宇宙的な神秘性と形而上的な苦悶をひそめた傑作《地上のすみか》(1933)を世に送った。それからまもなくスペインに渡ってガルシア・ロルカその他の〈27年の世代〉の詩人と親交を結び,前衛的な詩誌《詩のための青い馬》を創刊。スペイン内戦に際しては共和派にくみし,帰国後は共産党から推されて議会入りをしたが,弾圧によって亡命を余儀なくされた。1950年,新世界の自然と歴史を主題にした叙事詩《大いなる歌》を発表し,続けて《基本的なオード》(1954-59),《気まぐれ詩集》(1958),《百の愛のソネット》(1959),《イスラ・ネグラの手帳》(1964)などの作品を公にした。ノーベル賞を受賞した71年,アジェンデ政権の命を受けて大使としてパリに赴任する一方で,《ニクソン殺しの勧め》(1973)といった多くの政治詩を書いたが,ピノチェト将軍に率いられた軍部のクーデタで,左翼政権が倒れた直後の73年9月23日,首都のサンチアゴで,波乱に富んだ,多産な生涯の幕を閉じた。
執筆者:鼓 直
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…同じ年齢の生徒が小学校4年まで進学する比率は,1980年の男子78%,女子81%から90年には男女とも95%に上昇している。 芸術・文化活動も盛んで,詩人のガブリエラ・ミストラルとパブロ・ネルーダが1945年と71年にそれぞれノーベル文学賞を受賞している。《夜のみだらな鳥》で知られるシュルレアリスムの小説家ドノソJosé Donoso(1924‐96),ピアノ奏者のアラウClaudio Arrau(1903‐91)も,世界にその名を知られている。…
…外国からの参加者には,ハインリッヒ・マン,ブレヒト,ムージル,ゼーガース,ハクスリー,バーベリ,エレンブルグらがいた。〈作家会議〉は,翌年ロンドンで書記局総会,37年7月内戦下のマドリードとパリで第2回大会を開催し,さらにネルーダ,スペンダー,オーデンらの参加をみた。と同時に,1936年のスペイン,フランスにおける人民戦線政府の成立が,こうした知識人の国際的な連帯感を強化し,同年7月に始まるスペイン内乱に際しては,義勇兵として直接戦闘に参加したマルロー,シモーヌ・ベイユ,オーウェル,コンフォードらをはじめ,J.R.ブロック,ヘミングウェー,エレンブルグなど多くの知識人をスペインに赴かせた。…
※「ネルーダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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