ノルマン人のイングランド征服をいい,1066年ノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服して王となり,ノルマン朝を創始した事件。イギリス中世史上,一大画期をなす。この年の初め,アングロ・サクソンのウェセックス家の王統を継ぐエドワード懺悔王が嗣子なくして死ぬと,その義弟にあたるウェセックス伯ハロルド(1022?-66)が王を称した。しかしウィリアムは,自分が懺悔王の遠縁にあたること,懺悔王が以前から自分に王位を約束していたこと,またかつてハロルドが自分に臣従を誓ったことなどを理由に,王位を要求してイングランド侵入を準備した。
おりからノルウェー王ハーラル苛烈王がバイキング水軍を率いてイングランド北部の要衝ヨークを占領したため,ハロルドはスタンフォード・ブリッジの戦でこれを撃破したが,その間にウィリアムはイギリス海峡を渡ってペベンジーに上陸,ヘースティングズに橋頭堡を築いた。ハロルドは急きょヨークからとってかえし,両軍はヘースティングズの北郊センラックの丘(今日のバトル)で対陣し,10月13日未明より戦闘が始まった。丘の上に布陣したハロルド軍は,盾と斧で武装した歩兵密集戦法をとって,槍による一騎打戦法を得意とするノルマン騎士軍に痛手を与え,彼らは敗走寸前に陥った。そこでウィリアムは戦法を転換,いつわって敗走とみせかけ,密集を解いて追撃してきたアングロ・サクソン軍を各個に撃破し,ハロルドも混乱のうちに戦死した。丸1日の激戦によりノルマン軍が勝利した。ウィリアムは次いで南東部地方を制圧,ロンドンを開城させ,同年クリスマスにイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。彼はさらに西部・北部に転戦,数年のうちにイングランド全土に支配を確立した。
ここにイングランドは異民族ノルマン人の王の支配下に入り,従来の支配階級アングロ・サクソンの貴族はほとんど一掃された。ウィリアムに従って来島したノルマンの貴族・騎士がこれに代わり,支配層は完全に交替した。イングランドではそれ以前から社会の封建化が進みつつあったが,ウィリアムは当時フランスで行われていた制度,すなわち貴族に土地(封土)を分与する代りに軍役を奉仕させるという封建制度を導入して統治したので,この国は名実ともに封建国家となった。また9世紀以来のイングランドは,バイキングの大規模な侵入を受け,文化・習俗などの面で北欧的要素が濃くなっていたが,これを機に再び西欧との関係が強化されて,西欧ラテン的文化世界に復帰した。これとともにノルマン・フレンチ(ノルマンなまりのフランス語)が支配階級の言葉として持ち込まれ,それは従来のアングロ・サクソン語(古英語)と融合して,現在の英語の母体となった。さらにこの事件以後イングランド王はフランス内に領土を有するようになり,百年戦争までつづく英仏の複雑な関係を生み出す原因となった。
執筆者:青山 吉信
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1066年のノルマンディー公ウィリアムによるイギリス征服。彼はイギリスのエドワード懺悔(ざんげ)王から二度も王位継承の約束を得ていたが、懺悔王の死後、その義弟ウェセックス伯ハロルドが即位(ハロルド2世)したため征服を決意し、教皇の支持も得て同年9月イングランド南東岸のペブンジーに上陸。一方ハロルド2世は、その直前やはりイギリス王位をねらうノルウェー王ハロルド・ハルドラーダをスタンフォードで破ったが、ただちに兵を返し、10月14日ヘースティングズで両者は対決、ハロルドは戦死した。ウィリアムは同年末ロンドンに入ってイギリス王ウィリアム1世として即位、ノルマン朝を開いた。征服に従ったノルマン貴族が支配者層を形成し、大陸の軍事的封建制も導入され、大陸との関係も強化された。なお、1730年にフランスのバイユー聖堂で発見された綴織(つづれおり)「バイユー・タペストリー」には、このときの戦闘の場面が詳しく描かれている。
[富沢霊岸]
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… 英語は本来ゲルマン語の系統に属するもので,11世紀ころまで使われていた古英語(アングロ・サクソン語とも呼ばれる)は,今日のドイツ語や北欧語のように,純粋なゲルマン語の語彙をもっていた。ところが,11世紀のノルマン人征服(ノルマン・コンクエスト)以来フランス語系統の単語が,特に上層階級から侵入して来て,ここでもゲルマンとラテンの二つの流れがぶつかり合うこととなった。例えば,生きている牛を指す語はbull,oxなのに,それが食肉になるとbeefであるが,beefは牛を意味するフランス語が語源となっている(現代フランス語ではbœuf)。…
…1066年フランスのノルマンディー公ウィリアムがイングランドの王位継承権を主張して来攻,英王ハロルドは敗れて,ノルマンディー公がイングランド王を兼ねることになった。いわゆるノルマン・コンクエストである。ノルマン人は本来北欧人で,10世紀にフランス王はこれを懐柔するため彼らに土地を与え,その首領を封建諸侯に列せしめた。…
…初めは柳の枝を編み上げた上に皮革を貼った長方形の大きな楯を用いたが,のちに鉄板を張った円形の,表面にいくつか突起をつけた楯が出現する。 バイユーのタピスリーはノルマン・コンクエスト(1066)の情景を描いた長大な絵巻物で,当時の,少なくとも製作当時(12世紀初め)の甲冑を知る貴重な材料である。すでに,そこには長槍を構えた騎士の突撃戦が描かれているが,騎兵歩兵を問わず甲冑はまだ比較的簡単である。…
…これら金属馬具によって馬匹の機動力が飛躍的に向上した結果,騎馬戦が決戦の方法となり,これに伴って武器も変化して大型の槍と強固な盾が出現する。重装騎兵の衝突戦の優位が決定的に立証されたのは,おそらくノルマン・コンクエスト(1066)である。この征戦を絵巻物風に描出した《バイユーのタピスリー》(別名《マティルダの綴織》。…
※「ノルマンコンクエスト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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