翻訳|biology
生物に関する科学。バイオロジーともいう。とくにすべての生物に共通した生命現象の本質の究明に主点を置いた自然科学であるが、生物の多様性に基づく各論も含んだ広範な分野をさすこともある。また、自然科学の領域のうちで、物理学、化学、地学などに対して用いる場合もある。
[江上信雄]
人類は遠い昔から生物と深い関係をもち、とくに食料、衣料、住居や道具の材料としての生物は、人間の生活と切り離せないものであった。したがって生物に関する個々の知識は遠い昔から多く集積された。しかし実用上の目的を離れ、知的興味の対象として生物に関する一般法則が整理されたのは、古代ギリシアのアリストテレスによるところが大きいので、彼を生物学の祖とよぶ人も多い。その後、中世の暗黒時代を経て、生物学は徐々に歩みを進めてはきたが、科学として新しい姿をとるようになったのは、自然科学の他の分野に比べてずっと遅れ、「生物学」という用語自体は、フランスのJ・B・ラマルク、ドイツのG・R・トレビラヌスによって1802年に同時につくりだされた。彼らは動物、植物に共通の「生命過程」の重要性を認識し、研究の方法の点でも思索の点でも新しい科学に目覚め、この用語を使った。初期には生物学を、形態の研究を中心とする「形態学」と、その機能に目を向ける「生理学」とに二大別することがしばしば行われたが、今日ではより微視的な立場からみても、両者は一体として考えられるようになりつつある。
[江上信雄]
生物学をその研究対象から、動物学、植物学、微生物学などに大別し、さらにより細かい脊椎(せきつい)動物学、昆虫学、魚類学などというように細分する場合もあるが、普通はこのような各論はむしろ生物学とはよばない。一方、対象の水準から分けることもある。すなわち、地球上に生息する多数の生物の相互関係や、環境と生物との関係を明らかにし、生物群集の時間的遷移などを知り、生物を集団としてとらえる環境生物学や生態学や集団生物学や進化学と、個々の生物個体またはそのなかの器官や組織の水準の研究と、さらに細胞や細胞下の水準の研究をする細胞生物学、さらには分子の水準から生物をみる分子生物学などの立場である。これらは生物に対する見方や研究方法の点でも相違がみられる。生物学を、主として野外での観察や直観に重きを置いた自然史的分野と、実験室内での分析的分野とに分けることも実質的には行われている。
[江上信雄]
1950年ごろから、生命現象の基本が分子の水準で理解されるようになり、いわゆる分子生物学のセントラルドグマ(中心教義)が確立して、従来の科学的生命観は大幅に変貌(へんぼう)し、生物学にも大きな変化がおこった。生命現象を、物理学や化学と共通の認識と用語で説明し、理解してゆくことが可能であるという基本的確信が物質的な裏づけを得たわけである。すなわち、遺伝の基礎となる遺伝子の本体はデオキシリボ核酸(DNA)であり、これはその化学構造上の必然性から、自己と同じものを複製する。一方、この分子を構成するアデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)という4種の塩基の並び方の順序として生物の遺伝情報が暗号のように含まれている。細胞の中ではこの暗号はリボ核酸(RNA)という分子にそっくり写しとられ、その指令に基づいて特定のタンパク質が合成され、このタンパク質が生物のもろもろの働きを行う。この暗号やその働きは、バクテリアからヒトに至るまでまったく共通である。また、このようにして合成されたタンパク質の働き、たとえば酵素の働きにしても、収縮性のあるタンパク質の運動の仕組みにしても、光合成の仕組みにしても、すべて物理学や化学の法則に従い、生物にだけ特有の法則があるわけではない。このように、従来から考えられていた事柄が、実際に物質の裏づけをもって解明され、生物学が他の自然科学と共通の基盤をもつことが一般に認められる。つまり、すべての生物が物質的共通性をもち、しかもこれが他の自然科学とも共通の法則下にあることがわかったのである。
[江上信雄]
現在の生物学は、基礎科学として重要であるだけでなく、医学、農学などとの境界も便宜的にすぎず、応用範囲は広く、産業の基礎として、また環境問題、人口問題、食糧問題など、生物界構成員としての人類が直面する多くの問題解決の鍵(かぎ)を握るものとして重要である。
なお今日、生物学を生物科学、生命科学、ライフサイエンス、バイオサイエンスなどとよぶ場合には、完全な同意語の場合もあるが、ニュアンスに若干の相違がある場合もある。とくに新しい生物学をさす場合や、生物学のうちでも人間生活との関係の大きい部分をさす場合が多い。
[江上信雄]
生物現象に関する認識、つまり広義の生物学の発展の過程は、大きく分けて三つの段階を経てきている。
第一の段階は、現象論的段階であり、個別的な生物現象に関する個別的で即自的な知識の集積が行われた時代である。生物学史全体についていえば、博物学の時代にその典型をみる。厳密にいえば科学以前の時代であるが、その末期(17世紀から19世紀まで)には次の段階への飛躍、つまり生物学における科学革命の要因が数多く現れる。
第二の段階は、実体論的段階であり、複雑多様なあらゆる生物現象を法則の形で一般化して把握し、知識が整理される段階である。そのために(化学的・数学的)分析の方法が発達し、物理学・化学との接触が強まる時代である。科学革命を終えて生物学が初めて現代科学の様相をもって急速に発展する時代であり、19世紀の70年代に始まり、現代に及んでいる段階である。前段階を即自的な研究の時代と規定するならば、この段階は対自的な段階ということができよう。
第三の段階は、本質論的段階である。生命の本質が科学的に、即自・対自的に追究され始める段階であり、現代がこの段階への移行の時代である。
[佐藤七郎]
人類の、生物にかかわる知識の集積は、人類の起源とほとんど同時に開始されたとみなされる。すなわち、他生物の収集と狩猟とにその食生活を全面的に依存するほかなかった原始人類は、原生の植物・動物の種類、発育の過程、行動、分布などについての本能的関心から、しだいにそれらについての知識を蓄え伝承することを始めた。食生活のための条件の充足が、他の衣・住への要求に優先する絶対要件であったことが、原始人の知的な発達が、まず生物にかかわる経験的知識の集積から始まった原因である。
このことは新石器時代に入って農業を開始することを可能にした前提であったが、農業の経験を積むことによって、生物についての知識はますます増大したであろうことは疑いない。
[佐藤七郎]
人類は旧石器時代から比較的小規模の集団生活を営んでいた。生産力の発展に伴い、集団のなかの絆(きずな)はしだいに強化され、それに伴い、寝食をともにする個人間の精神的な結び付きも深まった。ここから霊魂の感覚が生まれ、集団の結束の象徴としてのトーテム、結束を確認する手段としての儀式、呪術(じゅじゅつ)などが生み出された。それらはまた、生産力の発達と対照的に、著しい停滞を続けていた医術の欠如を補うものとして、生命についての観念を育てた。人々は自らの内的体験としての人間の生命についてのより深い理解を願望したが、不幸なことに、それはあらゆる生物のなかのもっとも高度な構造をもった存在であったがゆえに、その理解希求の深刻さに逆比例して、理解の困難さを体験させられることとなり、この理解のための努力は、原始的な宗教の形をとるほかなかった。こうして生産を通じての、生物に関する唯物的な理解と、人間理解の障壁を通じての生命の観念的な理解とが、ときには互いに争い合いながら同時進行することとなった。この状態は、青銅器時代、鉄器時代を通じる古代、中世の間も基本的に変わることがなかった。
[佐藤七郎]
中世に至って支配階級が確立されるに及んで、階層としての医学への期待はますます増大した。その期待にこたえるためには、なによりも人体の構造を知る必要があり、主として宗教的な理由の下に禁じられていた人体解剖は、厳しい制約の下に実行されるようになった。
古代から試みられていた薬用植物の栽培と採集および薬効処理の経験は、植物に関する知識を蓄積したが、中世には貴族の趣味としての植物観察が盛んになり、実用から離れた生物知識の収集も行われるようになり、博物学を形成した。ヨーロッパ諸国のアフリカ、アジア地域支配は、珍しい植物・動物の発見、収集に拍車をかけ、博物学は動物・植物に関する知識の急速な蓄積をもたらした。これは近代的な生物学の土台の一つを築くことになった。
[佐藤七郎]
17世紀に、物理学を中心として近代的様相を伴った科学が成立すると、これは生物学にも強いインパクトを与えた。生物の現象を経験的な方法と厳密な論理によって実証的に理解しようという試みが繰り返された。そのなかで代表的なのは、イギリスのハーベーによる血液循環の実験的証明(1628)と、R・フックによる細胞の発見(1665)である。
ハーベーは人体内の血液の流れに関して、厳密な推論と明快な実験を行った。すなわち彼は、心臓から一定時間内に動脈に流れ出す血液の量が想像以上に多いことから、血液は閉じられた空間内を循環しているに違いないと考えた。ここに定量的な論理が用いられ、これがガリレイの影響を受けた新しいスタイルの推論であることが注目される。ついで彼は、人間の腕を紐(ひも)で縛って、動脈の血流は停止しないが静脈のそれは停止するようにし、静脈内の血液量の変化をみた。結果は、心臓から、縛ったところまでの間の静脈内に血液がたまり、反対側の静脈内には血液がほとんどなくなった。この結果から、彼は、血液は心臓から出て動脈に入り、ついで動脈から静脈に入ってふたたび心臓に戻るのだという結論を得た。こうして人間の血液の循環説がみごとに証明され、確立したのであった。これは今日でも通用する業績である。
他方、オックスフォード大学の幾何学教授であったR・フックは、コルクという物質が著しく弾性をもち、軽く、しかも安定であるという特性をもっていることに興味を抱き、その原因を探ろうとした。その際、彼は、旧来繰り返されたようなコルクの存在理由・意義などに関する思弁に深入りすることを避け、その原因をコルク自体の内部に求めた。経験が自然の謎(なぞ)を解き、真実を明らかにする最高の方法であるというのが彼の哲学であったためである。彼はコルクの薄片をつくり、自製の顕微鏡で観察した。顕微鏡という道具を用いた理由は、人間の感覚を道具によって拡張することによって、より広くより深い経験が可能になるという点にあった。そしてそこに細胞を発見した。彼は、コルクが細胞の集団である事実を明らかにすることによって、コルクという物質の特性を理解することが可能になったと確信し、自らの科学方法論の正しさが保証されたと考えた。彼はさらに、木炭および数種類の生きた植物についても、その薄片の顕微鏡観察を行い、いずれの場合にも細胞が発見されることを知った。
以上2人のほか、この時期には、マルピーギによる毛細血管(1661)と赤血球(1668)の発見、スワンメルダムの昆虫の詳しい観察(1658)、レーウェンフックの微小生物(1675、1680)および精子(1677)の観察、R・グラーフの膵臓(すいぞう)機能の研究(1664)、ボイルの呼吸の研究(1660)、ボレリの運動の力学的研究(1680)、シデナムによる経験主義医学の研究、カメラリウスによる植物の生殖器官の研究(1694)など、おびただしい数の先駆的な研究が続出している。これらの研究の共通した特徴は、生物現象を経験的に、実証的に解明しようとする姿勢にあり、当時、物理学を中心に進行しつつあった科学革命の影響をみることができる。
[佐藤七郎]
これらの事実は、あたかも生物学に新時代が到来した、いいかえれば生物学の革命が起こったかのような印象を与える。事実、17世紀において生物学も近代化されたとみる史観もある。しかしそれは表面的な見方であって、これに次ぐ時代がどのような時代であるかをみれば、それが誤りであることが明らかである。
ハーベーのみごとな実験的証明があったにもかかわらず、この発見から生物の他のなんらかの問題を解決する新しい理論はなにひとつ導出されることがなかった。ハーベーの方法論はポンプとのアナロジーで成立しているものであって、生物現象の謎を解く普遍的な有効性はなかった。同時代に、デカルトはハーベーの実験を高く評価し、ハーベーの説を神経系に持ち込んで神経作用を説明しようとしたが、なんらの成功も得られなかった。
フックの細胞の発見も、生体の基本構造としての細胞の位置づけ、それを基盤とした生物研究の新しい芽を展開させたという事実はなかった。生体の顕微鏡的観察はその後盛んになり、18世紀末には医学において、人体の顕微鏡的構造の知識が深まったが、重点は細胞よりも組織に置かれていた。
実験的研究者ではないが、この時代の生物学の先進性とともに前近代性を示すものとして、いま一つの例をあげるならば、イギリスの分類学者J・レイの種についての見解がある。彼はイギリスの植物・動物の優れたモノグラフを書き、そのなかで、種について、交配によって両親によく似た子孫をつくりうる生物は、同一の種に属するものとみられるという、今日の実験分類学の基礎ともみられる種の見解を表明している。そして種の諸特徴が固定した不変のものではないことまでも認めていた。それにもかかわらず、種の数は神による創造以来、一定不変であるとする観点からは抜け出ることはできなかった。
ここに、この時代の進歩的な生物学の限界があった。そしてこの限界は、反動的に、次の世紀、とくにその前半において顕著に現れた。
18世紀が旅行家・採集家・分類家の偉大な世紀であったことはよく知られている。海外探検の成果が新知識として、生物に関する知見を飛躍的に豊富にした。とくに熱帯地方の生物についての知見は、生物の分布、地理、地質との関係についての考察を興味あるものにした。そうしたなかで、リンネは植物の分類の原理を示し、今日にまで及ぶ分類学の基礎を確立した(1751)。しかし彼は、種が神の創生にかかわるものであり、不変であるとの信仰を捨てようとはしなかった。全自然が創造主の英知を現すためにつくられたものであるという自然観に挑戦することはできなかった。そのゆえに、リンネの種は、基本的に「種類」以上のものに出ることはできなかった。
これらの事実は、この時代においても生物学の近代化の革命は起こっていなかったことを証している。
[佐藤七郎]
既述のように、17世紀と18世紀の間、先んじて科学革命を終え、近代化を達成した物理学(および化学)の影響を受けて、生物現象の研究のなかにも、近代科学的な特徴の片鱗(へんりん)をみせたものが散発的に現れていた。しかしそれらは個々のものとしては近代的な生物学を築きあげるまでに成長しきれなかった。その機は19世紀に入ってようやく熟し始めた。結論を先にいうならば、生物学は次の五つの条件の整備によって、19世紀の70年代に近代化を達成することができた。その五つの条件とは、細胞説、種概念、進化論の確立、生物の自然発生説の否定、超自然的な生命力の否定、である。
細胞説はシュライデンが着想し、『植物の発生について』(1838)にまとめられた。その主眼は、植物体を構成している細胞には共通のつくりがあり、植物体が発育形成される際には、その構成細胞の数が増し、形態が変化していくという観察事実に基づき、植物体の構成単位は、従来考えられていたように組織なのではなく細胞である、というものであった。この考えは、動物体の構造を顕微鏡観察しつつあったシュワンの共鳴を得た。シュワンはシュライデンの説を動物に適用して、より綿密な観察事実とより緻密(ちみつ)な論述をもって、細胞説が植物・動物において適用される一般法則である旨を説いた(1839)。
この細胞説はただちに受け入れられたが、ただ一つ大きな欠陥があった。それは細胞の増殖の様式について独断的な誤解であった。シュライデンは細胞内にかならず核があることを重視したが、さらに、核の中に核小体があり、核小体の中に、ときに点状の箇所がみられることがあるのを根拠に、逆にこの点状の箇所が核小体となり、核小体が核となり、さらに新しい核になるのだ、という細胞内細胞形成説を唱えた。この誤りは他の研究者によってただちに気づかれ、まもなく核分裂・細胞分裂の発見によって、細胞の分裂増殖が一般に認められ、細胞説は確立した。しかしシュワンはこの分裂をあくまで認めず、頑迷に自説を主張し、学界から遠ざかった。核分裂の意義は遺伝の担荷体を娘細胞に均等分配するにあることは、1800年代の後半に明らかとなり、これをもって細胞説は確立されたとみられる。
種は生物の分類の基準単位である以上、それをどのようなものと規定するかは分類学上のもっとも根本的な問題であり、既述のレイやリンネのほか、トゥルネフォルなども論じたところであるが、いずれも形式上の論議から抜け出すことはできなかった。したがって、種は生物学的な意味での種類の一カテゴリーであるにすぎなかった。種がどのような内部構造をもち、どのような動因によって変化発展するのか、といった論議の対象とはなりえなかった。生物進化の着想は19世紀の初めから現れていた(ラマルク、1809)が、その論議は種の変化の動因にまで及びえなかったがために、生物学のなかで認められるには至らなかった。
C・ダーウィンの『種の起原』(1859)がこの難関を打ち破った。ダーウィンによって、種は初めて単なる種類ではなく、進化とよばれる歴史的発展の単位ととらえられ、そのように見直されることによって、種は内部構造をもった実体であることが明らかとなった。
実体概念としての種概念の確立は進化説の成立とともに行われた。これによって、あらゆる生物種がその存在の歴史的基礎をもっていること、そしてあらゆる種が共通の祖先をもち、したがってその外見上の類縁関係には実質的基礎があることが、進化の機構に関する論議は別にして、公認された。
生物の自然発生の可能性については、17世紀以来、実験的な検討がなされてきたが、いくつかの曲折を経て、1861年、パスツールによって実験的に完全に否定された。この実験はそれ以後の生物学の諸実験の信頼性に保証を与え、生物についての厳密に定量的な観測を可能にさせた。この研究の功績は単なる滅菌の意義とその手法の啓発だけに終わるものではない。
最後に、生物は無機物と質的に異なる数多くの複雑な現象を表し、一見、熱力学の法則やいくつかの化学反応の法則に従わないかのような印象を与えることがあるが、けっして物理学・化学の法則に矛盾するものではない。このことの公認は現代物理学の絶対前提となっているが、これは特定の研究の成果、あるいは理論の展開によって決定的に明らかにされた、といった経過を経て達成されたものではない。19世紀初期以来の熱力学の発達と、化学なかでも有機化学の発達に伴ったペプシンの発見(シュワン、1836)、血液中の酸素・二酸化炭素の存在(ビショフTheodor Ludwig Wilhelm Bischoff、1837)、エネルギー代謝におけるグリコーゲンの役割(ベルナール、1855)、発酵(パスツール、1857、1859)、タンパク質消化(フォイト、1860)、光合成とデンプンの関係(ザックス、1865)などの研究の成果、とくにそれらを基礎としたホッペ・ザイラーによる生化学の体系化の成功が、物理学・化学の諸法則が生体においても貫徹されていることの確信を根づかせたのであった。
生物現象が物理・化学の法則の規制のなかにあるという認識は、生物学に唯物論的基礎を与えたものであるが、同時にそれは生物学に科学の一分野としての資格を与えたものであった。これによって、古来から生物現象に付きまとい、正しい理解を妨げていた生気論の類がふたたび生物学のなかに侵入する余地が完全に排除されることとなった。事実、20世紀に入って以降も、全体論の形をとった生気論が一時、息を吹き返すかにみえたことがあったが、それはすべて幻として消えていった。
[佐藤七郎]
以上のような五つの前提がほとんど相前後して成立すると、それに伴って新たな課題が現れることとなった。これが現代の生物学を成立させ、発展させる動機となった。そのいくつかの例をあげよう。
第一に、生物の現象がすべて物理・化学の法則の規制を受けるという原則が容認されるとすれば、発生・分化・遺伝・運動、さらに感覚から思考に至るまでの複雑な、合目的的にみえる生物の活動はすべて物理・化学の法則によって説明し尽くされうるはずである、という興味ある期待がもたらされる。この興味は20世紀生物学の一つの特徴である生化学の急速な発展の動機となった。そして生物現象のいくつかの局面の基礎となっている化学現象を発見し、その物質的因果関係を明らかにすることに成功した。これは17世紀にいったん芽生えてことごとくついえ去ったメカニシズム的な還元主義を復活させた。
第二に、細胞説と進化説との間の矛盾がある。細胞説はシュライデン、シュワンによって提唱された段階では完全に成立しえず、細胞分裂(核分裂を前提としている)の公認を経てようやく確立した、という事実は、細胞こそが生命を超世代的に維持伝承する実体であるという認識が細胞説のなかに含まれていることを示している。この認識が成り立つ過程で、有性生殖はいずれも単細胞の卵と精子との合体であることが明らかにされたことは、細胞説の前記のような含意を強めたはずである。この認識は、細胞の不変性をとらえたものであり、種の一構成員である個体が、次世代の個体を同一種の構成員として産生し、そうすることによって種を歴史的に維持させることが可能であることを保証するものである。
他方、進化説は種の可変性を証言する。種の変化は、当然、種の実体的構成員である個体の変化を前提としなければならず、同じ論理によって細胞の可変性を前提としなければならない。
これが細胞説と進化説との矛盾である。この矛盾は遺伝の研究によって処理された。遺伝学は、まず細胞学と結合した。そして染色体と個体の形質(それは種の形質でもある)との間の法則的な対応を発見し、細胞遺伝学を形成した。そのなかで、染色体の変異を知った。そして不変性を保つ細胞のなかでの種の可変性の根拠をつかんだ。
染色体の研究はその後分子レベルまで進み、種の安定性と不安定性、すなわち進化の物質的根拠を明らかにしようとしている。
このような展開での進化の研究は、しかしながら、より根本的な課題に直面していた。それは核分裂のメカニズム、とくに減数分裂のメカニズムの問題であった。前者については若干の仮説が提唱され、実験的な研究が行われたが、後者についてはほとんどなんの研究もなされなかったに等しい状態で、問題は放置されて現在に至っている。この問題が放置された理由としては、その困難さにあったといえなくもないが、より根本的な理由は、20世紀後半に入って、遺伝学が、有性生殖を行わない(したがって減数分裂を必要としない)細菌をおもな材料として進歩し、生化学と結び付いて、遺伝生化学として新しい局面を切り開いたからである。遺伝生化学は生物における情報伝達手段としての核酸を発見し、生物学の新しい発展の契機となった。この発展の華々しさから、この遺伝の生化学の始まりを、生物学の革命的な転換であり、近代化であると形容する向きがあるが、これは正しくない。情報物質としての核酸の機能が予想外のものであったことが事実であるとはいえ、それは生物学・化学の公認の規範のいずれとも矛盾するものではなかった以上、革命的ということはできない。19世紀70年代に起こった生物学近代化の結果であるにすぎない。
第三に、ダーウィンの進化論は、生物の歴史をさかのぼれば、限りなく原始的な形に近づくことを教え、最後は無生物からの生物の誕生を示唆するが、一方、パスツールの実験は生物の自然発生を否定している。この矛盾をどのように解決するかが問題になったが、これはオパーリンによって、ダーウィンの立場もパスツールの立場もともに肯定する形で止揚された(1936)。そしてこの問題は、細胞、個体、種の形成の問題にかかわり、細胞、個体、種を改めて見直す契機を与えている。
第四に、ダーウィンの進化論は生存競争説を切り札として世に現れたが、この生存競争説自体については当初から疑問が提起され、ダーウィン自身によっても十分には擁護されえなかった。これは今後の大きな課題として残されている。残されなければならない原因の一つに、近代化された生物学が実体論の段階で、生物現象のメカニズムの実在をアプリオリに前提とした還元主義に浸りきってしまっていたことと、種の構造要素としての個体のレベルの法則の追究が遅れたことがあげられる。この後者は、いわゆる個体群生態学が、今日、問題としているところである。
生態学は、初め環境に対する個体または個体群の反応の研究として始まった。その限りでは集団の生理学の域を出なかった。しかし、のちに動物の行動学を分岐させ、また個体数の動態の研究を開拓することによって種レベルの法則を探る独立の分野を建設するに及んで、現代生物学を生化学と対照的に特徴づける独特の学域となり、必然的に進化学と密接な関連をもつに至っている。
[佐藤七郎]
『G・R・テイラー著、矢部一郎他訳『生物学の歴史』Ⅲ(1976、1977・みすず書房)』▽『中村禎里著『生物学の歴史』(1973・河出書房新社)』
生物および生命現象を対象とする学問分野。biologyという語は,1802年にJ.B.ラマルクとG.D.トレビラヌスにより独立に提唱され,普及した。ただし最初の使用はブルダッハK.F.Burdachによる(1800)。生命biosの学logosという表現は,個別知識の蓄積から進んで一般原理を求めるようになった状況をよく反映している。あらゆる科学と同じく,生物学の起源も,実用と知的好奇心との両方に求められる。採集,狩猟,農耕,原始医術などにおける実地の知識は,原始時代から積み重ねられてきたはずだが,学問として体系化した最初の代表的人物はアリストテレス(前4世紀)であった。ガレノス(2世紀)はさらに医学の面から,解剖学およびこれと表裏一体のものとしての生理学の方向を確立した。これと,珍奇な生物や薬草の知識を主とする博物学とが,中世末までの生物学の内容であった。医学知識は人体の構造を中心としていて,比較と一般化の視点は乏しかった。博物学記述はしばしば実際の観察とは遊離することがあり,4本足のアリが描かれたりした。荒唐無稽な動物の話が次々に書き伝えられ,むしろ教訓物語(ベスティアリ)の要素が強かった。
ルネサンス期になって自然が見直され,また大航海時代以来,ヨーロッパ以外の世界の生物やその産物である香料,絹などへの知的,実利的な関心がかきたてられ,知識が蓄積されていくことを通じて,新たな動きの発端が与えられた。最初の本格的な動物図譜はC.vonゲスナーの《動物誌》(1581-87)であり,一角獣などの架空の生物もまだ混在したが,キリンやサイの絵がほぼ正しく描かれている。解剖学と生理学での実証の気運も高まって,ベサリウスの《人体の構造》(1543)とか,やや遅れてW.ハーベーの《血液循環の原理》(1628)が刊行された。顕微鏡による観察ではR.フックの《ミクログラフィア》(1665)があり,A.vanレーウェンフックの活動も17世紀後半であった。
18世紀になると,後成説をとなえたC.F.ウォルフ,多能の実験家であったL.スパランツァーニ,前成説論者でアリマキの単為生殖を見いだしたC.ボネなど,発生学の研究が目だつようになる。A.トランブレーがヒドラの再生実験を行って,動植物の区別について議論を引き起こしたのも,またリンネが種の固定不変を信じながら,現実にみる種の可変性に悩まされたのも,18世紀のただ中のことであった。新しい手段と意欲によって,生物の多様性やいろいろの現象を関連して見る必要が認識され,解剖学や生理学では比較の方法が意識されるようになった。これは次の世紀での進化論に基礎を与えるものであった。
生命観についてみると,16世紀から17世紀にかけてはS.サントリオやファン・ヘルモントに発したイアトロケミスト(医療化学派),ボレリに代表されるイアトロフィジシスト(医療物理学派)の考えかた,またデカルトの二元論などが,それぞれの時点での物理学や化学の進歩を反映しつつ,生命現象を統一的にとらえようと試みてきた。こうした各種の生命観は,実験や観察に方向づけを与える一方,生命観のほうも新しい知見によって変化をとげていった。18世紀なかごろにラ・メトリーが,デカルトの動物機械論を急進的に延長してとなえた《人間機械論》は,生命を物質原理に帰着させようとする主張であったし,A.vonハラーの《人体生理学要綱》(1756-66)は,被刺激性という特有の原理によって,生理現象を統一してとらえようとした。こうして知識が重なり,多面化するにつれて,生命の包括概念が求められ,また生命現象を対象とする独自の学の必要が感じられて,19世紀の夜明けとともに〈生命の学〉としての生物学が提唱されたことは必然の流れであり,その後の方向を予告するものでもあった。
19世紀は生物学の近代的な枠組みが確立した時期であった。世紀前半にはそれまでの蓄積を総括して細胞説が唱えられ(M.J.シュライデン,1838;T.シュワン,1839),キュビエによる比較解剖学と化石研究の確立があった。ラマルクの《動物哲学》と,またこれを否定する形でC.ダーウィンの自然淘汰説(《種の起原》1859)が,進化論を生物学での中心テーマに位置づけた。世紀末にかけては,進化論の隆盛と形態学の発展に刺激されて,またそれらへの反発をも動機として,実験生物学の諸分科が相次いで確立し,現代に直接つながる出発点を定めた。実験発生学(W.ルーの《発生機構学雑誌》1894創刊),生理化学(ホッペ・ザイラーの《生理化学雑誌》1877創刊),微生物学と免疫学(L.パスツール),生理学(C.ベルナール《動植物に共通する現象についての講義》(1878-79)や,J.P.ミュラー,H.L.F.vonヘルムホルツなど),植物生理学(E.シュトラスブルガー《高等植物学教科書》1894)などはそうした例である。
遺伝の研究についてやや時代をさかのぼって振り返ると,18世紀にも発生の機構研究と関連して,親子の間での形質授受を説明する思弁的な企てはあった。物理学者P.L.M.deモーペルテュイは,多指症が遺伝することを家系図によって指摘して,遺伝をになう粒子を仮定した。実証的な植物の交雑実験も,18世紀から19世紀にかけて行われた(ケルロイターJ.G.Koelreuter,ナイトT.A.Knight,ゲルトナーC.F.von Gärtnerなど)。形質間に優劣の差異のあることとか形質の分離に,すでに気づいた者もあった(ノーダンC.Naudin)。メンデルはそうした背景のもとにエンドウの交雑実験とその統計処理から,遺伝を担う単位を考えて(《植物雑種の研究》1866),現代遺伝学の基礎を築いた。一つにはメンデルの再発見と,もう一つには生理学や発生学から微生物学まで各方面にわたる実験生物学の高まりが,世紀の変り目を迎えての生物学の基調を定めた。
20世紀初頭の生物学はそれまでの延長線の上にあった。つまり生物学の大部分の分科はすでに確立し,あるいは確立されつつあり,それをさらに展開することが,さしあたりの発展の方向であった。生化学についていえば,酵母の無細胞抽出液による発酵は前世紀末に観察されており(E.ブフナー,1897),20世紀に入っての分析的な発展を先ぶれしていた。解糖系のエムデン=マイヤーホーフ経路(1940ころ)と,呼吸のTCA回路(H.A.クレブス,1932)との解明で,細胞内の代謝経路の骨組みが定まった。筋肉収縮の代謝研究(マイヤーホーフO.Meyerhof)などもこれに合流して,そこから高エネルギーリン酸結合の概念が生まれ(リップマンF.A.Lipmann,1941),ATPを共通の通貨とするエネルギー代謝というイメージは,世紀前半にほぼ明確なものとなった。タンパク質としての酵素の本体も,ウレアーゼ(サムナーJ.B.Sumner,1926)やペプシン,トリプシンなど(ノースロップJ.H.Northrop,1930以後)の結晶化を皮切りとして,急速に研究が進んだ。放射性同位元素(アイソトープ)の適用,電子顕微鏡や超遠心分離機などの新技術も,その基本は世紀前半にすでに出そろって,大戦後の躍進に基礎を準備していた。
生体の構成と動態を〈共時的〉に見るのが生化学や細胞学であるとすれば,発生学と遺伝学の視点は〈通時的〉である。そして生化学的理解も,結局は遺伝学的理解を必要とする。なぜなら,酵素の機能はタンパク質としてのその性状に基づいて説明できたとしても,特定のタンパク質がなぜ誤りなく合成されるかは,遺伝学的な理解にまたねばならないからであり,遺伝子の本体の理解が決め手となる。また各種の細胞の分化は,それぞれの細胞で異なる酵素群が働いているからということで一応説明できるとしても,同じ生物でも細胞ごとになぜ別個の遺伝子セットが機能を発揮するのかについては,遺伝学と発生学からの説明を必要とする。20世紀前半に発生学は形成体(オーガナイザー)と誘導の概念により(H.シュペーマン),また遺伝学はショウジョウバエの染色体地図や突然変異の研究によって(J.H.モーガンとH.J.マラー),大いに進展した。しかし,オーガナイザーや遺伝子の本体が何かは明らかにできなかった。J.D.ワトソンとF.H.C.クリックのDNA二重らせんモデル(1953)は,遺伝子の本体を明らかにすることにより,生物学再編成の突破口を開いた。1961年に始まった遺伝暗号の解読は数年でほぼ完了し(ニーレンバーグM.W.NirenbergとオチョアS.Ochoa),遺伝情報はDNA→RNA→タンパク質の方向にのみ流れるというセントラル・ドグマ(クリック,1958)が確認され,また遺伝子発現の調節はF.ジャコブとJ.モノのオペロン説で十分説明されるように見えた。一部の分子生物学者は,〈細菌でいえることはゾウでもいえる〉から,生命現象の大筋は解明されたという自信も示した。けれども,オペロン・モデルによる可逆的な調節では,多細胞生物の不可逆的な分化を説明するには十分でなく,また形態形成や高次の精神機能などは,セントラル・ドグマの〈線形〉の情報の流れだけではとらえきれないとの理論的な反省も生まれた。事実としても,とくに1970年代末から,塩基配列分析法の能率化とともに,分断されたイントロン・エクソン構造や,反復配列とか〈偽遺伝子〉とかの機能不明な部分が,DNA中には大量にあることがわかってきた。イントロンは最初,免疫抗体の多様性に関連して注目されたが,それだけに限られない共通特徴である。こうした事実に立ちつつ,真核細胞での遺伝情報の制御や,さらにひろく形態形成や再生現象などを理解する新たな枠組みを求めて,世紀初頭の2大問題であった遺伝と個体発生を関連づけることは,1980年代から本格化した新たな課題である。
生物学を大きく二つに分けると,個体の生命現象を解析的に追究する方向(広義の生理学)と,個体から発して個体間,種間,個体と環境など,関係を外へ求めていく方向(広義の生態学)がある。後者は本来の生態学のほかに,動物心理学と生理学の一面,動物行動学,社会生物学,生物社会学,生物地理学,進化の問題などを含む。ただし,形態形成などの問題では細胞を単位としてとらえることが必要で,これは第3の立場(広義の細胞学)といえるかもしれない。さて,先に述べた20世紀の目覚ましい躍進は,もっぱら〈生理学〉の分野のものであった。〈生態学〉については,その源流は自然の照観という一般的な態度までさかのぼるが,学問分野としての確立は19世紀であった。この世紀の初期に,世界旅行の知見をもとにして,植物群系の分類を論じたA.vonフンボルトは重要な先駆者であったが,生態学ecologyの命名者はE.H.ヘッケルであった(1886)。ただし,彼のいう生態学は,ある環境下での生物の適応を論ずる環境生理学というべき視点であった。生物どうしの働きあいを重視した真の〈生態学〉の開祖は,進化を生物の生存競争の観点から見たダーウィンであった。20世紀にはいり,植物については遷移(1916)と極相の理論を提唱したF.E.クレメンツ,また動物ではC.S.エルトンの《動物生態学》(1927)によって学問の輪郭が定まった。ただしこれらは,動植物どちらも個体数の増減を基本としたものであった。
動物の行動に注目する研究は,初期(1920年代)のものとしてはK.vonフリッシュによるミツバチのダンスと太陽コンパスに関する研究があったが,K.ロレンツとN.ティンバーゲンによって動物行動学(エソロジー)が基礎づけられた。1973年にこれらの学者に異例のノーベル賞が与えられたことは,この分野の発展を象徴するものであった。ハミルトンW.D.Hamiltonの血縁淘汰説や,E.O.ウィルソンの大著《社会生物学》(1975)をきっかけとして注目されるようになった社会生物学は,やはり行動に重点を置きながらも遺伝決定論をつよく打ち出し,人間の理解にかかわるその含意から,生物学の範囲を越えた論争を呼んだ。
生物を総合的に理解しようとするとき,進化は欠くことのできない観点である。これについては過去1世紀,ダーウィンを源流とする理論が支配的であった。《種の起原》におけるダーウィン説は,遺伝の理論などが不明であっただけに,かえって幅の広い含みをもっていたが,20世紀に入ってからは,突然変異や集団遺伝学(R.A.フィッシャー《自然淘汰の数学的理論》1930)によって整理,補強されたネオ・ダーウィニズム,すなわち総合学説が主流を占め続けた。分子生物学の時代になって,タンパク質のアミノ酸配列および核酸のヌクレオチド配列を比較するいわゆる分子進化の研究も在来のデータを補って,点突然変異・淘汰の理論をいっそう補強した。しかしダーウィンおよびネオ・ダーウィニズムへの方法論的,また実際的な批判は絶えることなく続いてきた。ことに1980年ころから,総合学説で小進化と大進化のすべてが説明できるのかという根本的な見直しの気運が生じ,これに,科学とは無縁のものではあるが,創造説論者からの進化論攻撃まで加わって,進化論は再度,流動状態にあるとさえいえる。
生物学での技術的成果は,ことに20世紀後半になって著しい。遺伝子組換え技術,体外受精や生命維持に関する生物医学技術などはその好例である。これらの成果は機械論的アプローチから得られたものであり,機械論が最終的に正しい生命観であるか否かの議論とかかわりなく,機械論的技術の生命への干渉能力はこれからも高まると予想される。
技術的な成果のほかに,〈生命の学〉としての生物学がどんな生命像を描いているかも,つねに人間にとって特別な関心の的である。人間自身に特有の価値を感ずるわれわれの主観と,すべての生物が等価な構成員であるとする生態学的理解とは,どのように折り合うのか。人間の能力差は遺伝的,先天的にどの程度規定されているのか。現代の生物学の成果によっても,このような多くの問題に決定的な答えはとても与えられないが,生物学者として意味のある発言はできる。ところが発言は,いつも仮説としての制約をもつはずであるにもかかわらず,社会は科学的結論としてこれを重視し,ときには絶対視する。この意味で生物学者の発言には社会的責任があり,慎重な配慮が要求される。今後,技術と思想の両面での社会的責任にこたえながら,生物学が独自の〈生命の学〉として,これからも発展と変容を続けてゆくことが望まれる。
→植物学 →動物学
執筆者:長野 敬
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