アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のミネソタ・ツインズで外野手としてプレー。2002年のオールスター・ゲームで、サンフランシスコ・ジャイアンツのバリー・ボンズが放った右中間へのホームランボールをフェンス越しに奪い取るなど、屈指の守備を誇る中堅手として知られている。
7月18日、アーカンソー州パイン・ブラフで生まれる。パイン・ブラフ高から1993年、ドラフト1巡目(全体20番目)指名を受けてツインズに入団。高校時代には、野球のほかにバスケットボール、アメリカンフットボール、さらには陸上競技もこなし、当初から高い身体能力は評価されていた。入団後4年間はマイナー・リーグで鍛えられ、5年目の1997年のシーズン終盤に、代走で1回の出場ながら大リーグへのデビューを果たした。レギュラーとなったのは1999年で、2001年には、打率2割6分1厘、ホームラン27本、打点92をマーク、02年は打率2割8分9厘、ホームラン29本、打点94、盗塁23と成績を伸ばし、2年連続してゴールドグラブ賞を受賞した。この活躍が原動力となり、ツインズは11年ぶりの地区優勝を遂げた。同年シーズンオフに日米野球で来日、2本のホームランと好守を披露して最優秀選手(MVP)となった。2003年、04年はともに中心打者として20本以上のホームランを放ち、3年連続地区優勝の原動力になった。また、広い守備範囲と巧みなフェンス際の捕球技術の評価は高く、2005年は足首を骨折するなど、98試合の出場にとどまったにもかかわらず、5年連続でゴールドグラブ賞に選出され、06年も変わらぬ名手ぶりを発揮して連続受賞を6に伸ばした。
[出村義和]
2007年は、前年のホームラン31本を下回ったが28本を放ち、打率2割8分7厘、107打点を記録。守備面では、7年連続となるゴールドグラブ賞を受賞した。2008年からはロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムでプレー。
2007年までの通算成績は、出場試合1234、安打1218、打率2割7分1厘、本塁打192、打点711。獲得したおもなタイトルは、ゴールドグラブ賞7回。
[編集部]
イギリス、スコットランドの外科医、解剖学者。グラスゴー近郊に生まれる。聖(セント)バーソロミュー病院などで外科医の修業をし、海軍を経て、25年間にわたりロンドンの聖ジョージ病院に外科医として勤務した。離断した腱(けん)の縫合術や動脈瘤結紮(りゅうけっさつ)術などで新しい術式を創案して外科手術の発展に貢献し、またハンター導帯(精巣導帯)の発見などの解剖学的業績をあげた。しかし彼の真髄は、それらの土台としての創意に満ちた実験的解剖学と、各種動物標本の収集に基づく比較解剖学とにあった。たとえば、若い実験動物を用いて、骨の2か所に鉛の玉を植え込んで骨の成長を調べたり、定期的にアカネの根を食べさせて、骨に生じる赤い縞(しま)模様から、複雑な形の骨の形成過程を調べたりした。また牛乳、着色したデンプン液などを動物の腸内に注入したあと、生体解剖によって血管とリンパ管への吸収のありようを調べたりした。以上のような創意工夫に富んだ研究によって、次々と新知見を加えていった。生涯を通じて収集し続けた各種動物の標本、先天奇形や実験結果の標本など膨大な数の収集品は、イギリス政府によってそのすべてが買い取られ、ハンター博物館が創設された。
[澤野啓一]
イギリスの外科医。スコットランドのロング・カルダーウッドで10人兄弟の末子に生まれ,13歳で父を亡くしたため正規の教育は受けなかったが,1748年ロンドンで外科医として名をあげつつあった兄ウィリアムWilliam H.(1718-83)の助手となり解剖学と外科を学んで,53年マスター・オブ・アナトミーの資格を得た。船医,軍医を経て63年ロンドンで開業,同時に解剖学と外科の教室を開講した。67年セント・ジョージ病院外科医長。解剖学,生理学の研究を続けて外科学に科学的基礎を与えることに貢献した。梅毒研究,歯牙の分類,動脈瘤結紮(けつさつ)手術などで名を残した。生涯にわたり標本を集めて解剖博物館(ハンター博物館)を建設した。門下生に牛痘種痘のE.ジェンナーがいる。
執筆者:本田 一二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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(村上陽一郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1840~1900
インド高等文官職官僚。学者として名をなし,王立アジア協会の副会長などを歴任。『インド帝国地誌』全14巻(1885~87年)などで当時のインドに関する知識を集大成した。また『インドのムスリム』(71年)では,ムスリムを「狂信的大衆」と「地主・書記階層」に二分し,後者を積極的に植民地支配体制に組み込むことを提唱した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…“できもの”をみれば,この四つの主徴は容易に理解されよう。1793年J.ハンター(スコットランドの外科医)は,炎症とは病気ではなく,個体に有益な効果を起こすための反応〈生体防御反応〉であるという考えを導入した。コーンハイムJulius Cohnheim(1839‐84)は,炎症の起こる経過をカエルの腸間膜を用いて顕微鏡で観察し,炎症の初めに血管が拡張し,次いで血液の流れが変化し,そして白血球や血清が血管からしみ出る(滲出という)ことを記載し,炎症の実験的研究の口火を切った。…
…5歳のとき両親を失ったため長兄の保護を受け,初等中学を終えた後,1761年からブリストルに近いソドベリーの外科医ラドローDaniel Ludlowについて10年間医学を学んだ。70年ロンドンに出てJ.ハンターの内塾生になり,解剖学と外科学を専攻した。またハンターの推薦でJ.バンクスの助手になり,バンクスがJ.クック船長の第1回探検航海に同行して世界各地で集めた博物標本の整理に従事した。…
…たとえばJ.B.vanヘルモントはパラケルススの主張した〈アルケウスarcheus(原初力)〉の概念を受け継ぎ,アルケウスは身体と魂を結合する霊的な気体で病因と闘うものであると考えた。またビシャーは厳密に有機体論的な生気論を唱えて〈生気的唯物論〉を主張し,ハンターは異質な物の間を飛ぶ〈生気物質materia vitae〉を考え,ブルーメンバハは重力と同様それ自体は見えないが結果によって観測できる〈形成力nisus formativus〉の概念を導入した。 19世紀に入ると,ウェーラーが尿素を無機物から合成し(1828),有機体の働きも生気の概念なしに物理的化学的に説明できることが判明して生気論は打撃を受けた。…
※「ハンター」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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