バランチン

百科事典マイペディア 「バランチン」の意味・わかりやすい解説

バランチン

ロシア生れの舞踊家振付家。バランシンともいう。ペテルブルグに生まれたが,両親はジョージア出身。1921年ペトログラード国立(もとの帝室)舞踊学校を卒業,国立オペラ・バレエ劇場(現マリインスキー劇場)で踊る。1924年国外公演のためソ連出国,のちディアギレフに振付の才能を認められ〈バレエ・リュッス〉に参加する。この時期の作品ミューズを導くアポロ》(1928年,ストラビンスキー曲),《放蕩息子》(1929年,プロコフィエフ曲)は今日でもしばしば上演されている。1929年ディアギレフが急逝しバレエ団が解体すると,バランチンはヨーロッパ各地のバレエ団から委嘱され,数々の作品を振り付けた。1933年芸術愛好家L.カーステーン〔1907-1996〕の招きで米国に渡り,翌年アメリカン・バレエ学校を設立。これを母体にアメリカン・バレエ団を結成,のちのニューヨーク・シティ・バレエ団へと発展した。米国に渡ってからのバランチンの作風は,音楽の視覚化ともいえる抽象化の傾向を強め,膨大な数の作品を残した。特に長年の親友ストラビンスキーや故国ロシアのチャイコフスキーの音楽に振り付けた作品が多い。また,映画ミュージカルでもたくさんの振付を残している。おもな作品は《セレナード》(1934年,チャイコフスキー曲),《水晶宮(ハ長調交響曲,シンフォニー・イン・C)》(1947年,ビゼー曲),《アゴン》(1957年,ストラビンスキー曲),《フー・ケアーズ》(1970年,ガーシュウィン曲)など。→ダニロワ火の鳥マルコーワ
→関連項目ロビンズ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バランチン」の意味・わかりやすい解説

バランチン
ばらんちん
George Balanchine
(1904―1983)

ロシア出身のアメリカの舞踊家、振付者。ペテルブルグに生まれる。1921年ペテルブルグの国立舞踊学校を卒業。革命期の振付者ゴレイゾフスキーKasyan Goleizovsky(1892―1970)に影響され、新しいバレエの創作に取り組み、1924年自身の小さなバレエ団でドイツなどを巡演した。同年、ディアギレフのロシア・バレエ団に入り、同団後期を代表する振付者となり、『アポロ』(1928)、『放蕩(ほうとう)息子』(1929)を上演。1933年、カーステーンLincoln Kirstein(1907―1996)に招かれて渡米、翌年アメリカン・バレエ学校を創設、この流れが1948年発足のニューヨーク・シティ・バレエ団となる。彼は同団の芸術監督として、『セレナード』『コンチェルト・バロッコ』『アゴン』『四つの気分』など、次々に新古典的なアブストラクト・バレエ秀作を発表し、アメリカのバレエを世界的な地位に引き上げた。ミュージカルや映画作品の振付けもした。

市川 雅]

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世界大百科事典 第2版 「バランチン」の意味・わかりやすい解説

バランチン【George Balanchine】

1904‐83
ロシア出身の舞踊家,振付家。バランシンとも呼ぶ。ペテルブルグ生れ。1921年ペトログラード国立(もとの帝室)舞踊学校卒業。24年国外公演の小グループに加わって出国,ドイツ,イギリスで踊ったのちバレエ・リュッスに加入。踊り手としてより振付家として活躍,《ミューズを導くアポロ》(1928),《放蕩息子》(1929)などを発表する。33年カーステーンLincoln Kirstein(1907‐96)に招かれアメリカに渡り,翌年アメリカン・バレエ学校を設立した。

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世界大百科事典内のバランチンの言及

【ニューヨーク・シティ・バレエ団】より

…カーステーンLincoln Kirstein(1907‐96)を総支配人とし,G.バランチンを芸術監督とするアメリカのバレエ団。現在の名称になったのは1948年からだが,クラシック・バレエをアメリカに根付かせるため,常設的なバレエ団の創設をカーステーンが考えて,1933年パリからバランチンを招いたのが始まりだった。…

【バレエ】より

… アメリカもまた,これといったバレエ団のない国であったが,1933年〈バレエ・リュッス・ド・モンテ・カルロ〉のアメリカ訪問以来,急激にバレエが盛んになった。ことにバランチンを主とするアメリカン・バレエ学校の設立(1934)によって,多くのアメリカ人の舞踊家を輩出するようになり,それは今日の〈ニューヨーク・シティ・バレエ団〉の母体となった。このバレエ団は,バランチンのストーリーのない〈抽象バレエ〉を多く上演しており,これは新しい時代の新しいバレエとして注目され,その影響は全世界に及んでいる。…

【バレエ・リュッス】より

… 演劇的内容の濃い作品を作ったマシンの退団,《眠れる森の美女》のロンドン長期公演(1921‐22)の失敗などによって足踏みをしたバレエ・リュッスは1923‐29年には第3黄金期を迎える。ニジンスカバランチンの2人の振付家を世に出し,のちにマシンが復帰して数多くの傑作を生み出した。上演作品は多様性を示し,ロシア・フォークロア的な《結婚》(1923),フランス上流社会を描いた《ブルー特急》(1924),社会主義ロシアを題材にした《鋼鉄の歩み》(1927),ギリシア神話からの引用《ミューズを導くアポロ》(1928)などである。…

【バレエ・リュッス・ド・モンテ・カルロ】より

…また,史上初めてという10代前半,またはそれに準ずる踊り手,T.トゥマーノワ,バロノワ,リャブーシンスカの3人をベビー・バレリーナとして主役に抜擢し,人気を博したことにある。演目はディアギレフの遺産を踏襲したほか,マシンのシンフォニック・バレエ《前兆》《コレアルティウム》(ともに1933),《幻想交響楽》(1936),《赤と黒》(1939),オッフェンバックの音楽による喜劇的な《パリのにぎわい(よろこび)》(1938),前衛的な《子供の遊戯》(1932),《バッカナール》(1939),バランチンのアブストラクト・バレエ《ダンス・コンセルタント》(1944),フォーキンの《愛の試練》(1936),《パガニーニ》(1939),ニジンスカの《百の接吻》(1935),一座の育てたリシンDavid Lichine(1910‐72)の《卒業舞踏会》(1940)などバレエ史に残る作品を多く初演した。しかし運営面では問題が多く,発足後まもなく創立者の一人ブルムが去り,38年からはマシンが主宰者となる。…

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