百科事典マイペディア 「バランチン」の意味・わかりやすい解説
バランチン
→関連項目ロビンズ
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ロシア出身のアメリカの舞踊家、振付者。ペテルブルグに生まれる。1921年ペテルブルグの国立舞踊学校を卒業。革命期の振付者ゴレイゾフスキーKasyan Goleizovsky(1892―1970)に影響され、新しいバレエの創作に取り組み、1924年自身の小さなバレエ団でドイツなどを巡演した。同年、ディアギレフのロシア・バレエ団に入り、同団後期を代表する振付者となり、『アポロ』(1928)、『放蕩(ほうとう)息子』(1929)を上演。1933年、カーステーンLincoln Kirstein(1907―1996)に招かれて渡米、翌年アメリカン・バレエ学校を創設、この流れが1948年発足のニューヨーク・シティ・バレエ団となる。彼は同団の芸術監督として、『セレナード』『コンチェルト・バロッコ』『アゴン』『四つの気分』など、次々に新古典的なアブストラクト・バレエの秀作を発表し、アメリカのバレエを世界的な地位に引き上げた。ミュージカルや映画作品の振付けもした。
[市川 雅]
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
…カーステーンLincoln Kirstein(1907‐96)を総支配人とし,G.バランチンを芸術監督とするアメリカのバレエ団。現在の名称になったのは1948年からだが,クラシック・バレエをアメリカに根付かせるため,常設的なバレエ団の創設をカーステーンが考えて,1933年パリからバランチンを招いたのが始まりだった。…
… アメリカもまた,これといったバレエ団のない国であったが,1933年〈バレエ・リュッス・ド・モンテ・カルロ〉のアメリカ訪問以来,急激にバレエが盛んになった。ことにバランチンを主とするアメリカン・バレエ学校の設立(1934)によって,多くのアメリカ人の舞踊家を輩出するようになり,それは今日の〈ニューヨーク・シティ・バレエ団〉の母体となった。このバレエ団は,バランチンのストーリーのない〈抽象バレエ〉を多く上演しており,これは新しい時代の新しいバレエとして注目され,その影響は全世界に及んでいる。…
… 演劇的内容の濃い作品を作ったマシンの退団,《眠れる森の美女》のロンドン長期公演(1921‐22)の失敗などによって足踏みをしたバレエ・リュッスは1923‐29年には第3黄金期を迎える。ニジンスカ,バランチンの2人の振付家を世に出し,のちにマシンが復帰して数多くの傑作を生み出した。上演作品は多様性を示し,ロシア・フォークロア的な《結婚》(1923),フランス上流社会を描いた《ブルー特急》(1924),社会主義ロシアを題材にした《鋼鉄の歩み》(1927),ギリシア神話からの引用《ミューズを導くアポロ》(1928)などである。…
…また,史上初めてという10代前半,またはそれに準ずる踊り手,T.トゥマーノワ,バロノワ,リャブーシンスカの3人をベビー・バレリーナとして主役に抜擢し,人気を博したことにある。演目はディアギレフの遺産を踏襲したほか,マシンのシンフォニック・バレエ《前兆》《コレアルティウム》(ともに1933),《幻想交響楽》(1936),《赤と黒》(1939),オッフェンバックの音楽による喜劇的な《パリのにぎわい(よろこび)》(1938),前衛的な《子供の遊戯》(1932),《バッカナール》(1939),バランチンのアブストラクト・バレエ《ダンス・コンセルタント》(1944),フォーキンの《愛の試練》(1936),《パガニーニ》(1939),ニジンスカの《百の接吻》(1935),一座の育てたリシンDavid Lichine(1910‐72)の《卒業舞踏会》(1940)などバレエ史に残る作品を多く初演した。しかし運営面では問題が多く,発足後まもなく創立者の一人ブルムが去り,38年からはマシンが主宰者となる。…
※「バランチン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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