パッラバ朝(読み)パッラバちょう(英語表記)Pallava

改訂新版 世界大百科事典 「パッラバ朝」の意味・わかりやすい解説

パッラバ朝 (パッラバちょう)
Pallava

南インドのヒンドゥー王朝。王朝の起源,創始者は不明。カーンチー(現,カーンチープラム)を中心に,今日のタミル・ナードゥ州の北アルコット,南アルコット,ティルチラパリ,タンジャーブール(タンジョール)諸県を支配下に収め,最盛期にはオリッサからペンナール川に至るコロマンデル沿岸部一帯を領有した。北インドの記録に現れる最も初期の内容は,4世紀中ごろにチャンドラグプタに捕らえられたといわれるカーンチーのビシュヌゴーパVishunugopaについてである。王朝の史実がより明らかになるのは6世紀後半に王位に就いたシンハビシュヌSinhavishnuの時代からである。その後2世紀間に諸王が続く。マヘーンドラバルマン1世(在位600-625)はチャールキヤ朝との抗争をはじめ,ナラシンハバルマン1世NarasimhavarmanⅠ(在位625-645ころ)はチャールキヤ朝の首都バーダーミを陥し,またセイロンに遠征した。7~8世紀初期にはチャールキヤ朝と,8~9世紀にはラーシュトラクータ,パーンディヤ両朝と抗争を繰り返しながら,9世紀末にはついにチョーラ朝のアーディティヤ1世ĀdityaⅠに滅ぼされた。

 この王朝は海外交易を盛んに行い,マハーバリプラムナーガパッティナムに造船所をつくり,海軍を設立した。南インド商人とチャンパスリウィジャヤなど東南アジア諸国との貿易を通じてパッラバの建築様式やタミル文字も広まった。文化,宗教の面では,北インドの影響が強まり,ベーダの祭儀をはじめアーリヤ化が浸透した。同時にタミル文化の独自性も現れ,碑文はサンスクリットプラークリット語とともにタミル語でも記された。仏教,ジャイナ教は依然信仰されたが,民衆レベルでは,後にバクティとよばれる帰依信仰が広く普及し,サンバンダル,マーニッカバーサガルなどの聖人が輩出し,南インド各地を説法した。この王朝はまた独自の建築様式を発展させた。
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パッラバ朝美術は,この王朝と抗争を続けたチャールキヤ,パーンディヤ両朝の美術と密接な関係のもとに展開したヒンドゥー教中心の美術で,以後の南インド美術に最も大きな影響を及ぼした。用材はまれに砂岩の場合もあるが花コウ岩が多い。その歴史は,一般に4期に大別される。まずマヘーンドラ期(7世紀初期)はタミル地方で初めて石窟が開かれたことで知られ,マンダガパットゥや一部のマハーバリプラムの石窟がこれにあたる。柱は太く,浮彫による装飾は少なく,簡素で力強い。次のマーマラ期(7世紀中期)に造形活動が最も活発となり,代表的遺構はマハーバリプラムに集中している。石窟や巨大な岩壁彫刻のほかに,岩塊から寺院全体を刻出する岩石寺院が出現した。柱は細くなり,十六角柱や柱基をライオンが支える華麗なものが現れ,浮彫装飾も豊富になった。細くてしなやかな人体リズミカルに配した群像構成を特色とし,他のインド彫刻に比べてあっさりとした印象がある。ナラシンハ・ナンディバルマン期(7世紀末期~8世紀末期)になると石窟造営は下火になり,石積寺院が多くなる。柱を支える動物の動きが激しくなり,動物の背に人物が乗ることもある。代表的遺構はカーンチープラムのカイラーサナータ寺,バイクンタ・ペールマール寺,マハーバリプラムの海岸寺院であり,これらは南型建築の典型とされる。最後のアパラージタ期(9世紀初期)には造形活動は衰退し,彫像はずんぐりとして動きが鈍いものとなった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パッラバ朝」の意味・わかりやすい解説

パッラバ朝
パッラバちょう
Pallava

古代南インドの王朝。マドラス (チェンナイ) 南方のカーンチーに都をおき,3~9世紀に栄えた。デカンのサータバーハナ朝が衰えたのちに興り,6世紀末から盛んになった。7世紀後半のナラシンハバルマン1世 (在位 630頃~660頃) のときに,チャールキヤ朝の軍を破り,スリランカへも遠征した。その後もチャールキヤ朝,ラーシュトラクータ朝ガンガ朝パーンディヤ朝など近隣諸国と争いを繰返したが,9世紀末チョーラ朝の台頭により滅ぼされた。ヒンドゥー教を信奉し,カーンチーのカイラーサナータ寺,マハーバリプラムの海岸寺院などを残している。石造建築や石造彫刻の技術は,インドはもとよりスリランカや東南アジアの仏教,ヒンドゥー教美術に影響を与えた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パッラバ朝」の意味・わかりやすい解説

パッラバ朝
ぱっらばちょう
Pallava

古代インドの王朝。3世紀後半に興り、チェンナイ(マドラス)南方のカンチー(カンチプラム)に都を置き、インド半島の南東海岸部とその周辺諸地域を支配した。南のパーンディヤ朝や北のチャールキヤ朝、ラーシュトラクータ朝などと争って盛衰を繰り返したのち、領内の一地方政権から台頭したチョーラ朝に滅ぼされた(9世紀末)。この間、7世紀なかばのナラシンハバルマン1世の時代が最盛期で、北はデカンに進出し、南はスリランカに遠征軍を派遣している。この王朝のもとで南インドの文化の全般的な向上がみられたが、とくに美術面での向上は著しい。この時代に発達した石造寺院建築や石彫の技術と様式は、後世の南インドや東南アジアの美術に大きな影響を与えた。

[山崎元一]

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世界大百科事典(旧版)内のパッラバ朝の言及

【インド美術】より

…また肉体の力,とくに性的な力(シャクティ)を神的なものとして尊重するので,多面多臂の複雑な姿をとるものが多く,男女の性的結合の像(ミトゥナ)も造られた。チャールキヤ朝のバーダーミ,アイホーレ,パッタダカル,パッラバ朝のカーンチープラム,マハーバリプラムなどでは,南インドの古代仏教美術の特色であった柔らかな肢体の表現を保持し,とくにパッラバ朝では律動的な群像表現に優れている。7~10世紀のエローラ石窟では,仏教窟の密教系尊像が図像学上重要なほか,ヒンドゥー教窟の第14,15,16,21,29窟にすぐれた彫刻がある。…

【カダンバ朝】より

…4世紀中葉よりバイジャヤンティーVaijayantī(バナバーシBanavāsi)に都して南西デカンのコンカン地方を支配した。北をグプタ朝,バーカータカ朝,南はガンガ朝,パッラバ朝に囲まれ,これら諸王朝との角逐がカダンバ朝の主要な歴史である。5代王カークトゥスタバルマンKākutsthavarmanの時に最も勢力が安定し,グプタ朝とは婚姻関係を結び,大規模な灌漑用貯水池などもつくられた。…

【ヒンドゥー教美術】より

…カルナータカ州北部を中心とするチャールキヤ朝では,バーダーミの石窟(6世紀末期),アイホーレ(6世紀後期~8世紀)とパッタダカル(8世紀前半)との石積寺院が代表的遺構。パッラバ朝では首都カーンチープラムのカイラーサナータ寺をはじめとする石積寺院(7~9世紀),海港マハーバリプラムの岩石寺院,石窟,石積寺院(7世紀前期~8世紀初期)が重要である。パーンディヤ朝ではカルグマライの岩石寺院(8世紀)があげられる。…

【ブラフマデーヤ村落】より

…王によってその全体または一部を1人あるいは多数のバラモンに施与された村落を総称したもの。すでにパッラバ朝,パーンディヤ朝などにもその存在が認められる。村落の運営は主としてサバーによって行われ,バラモンは租税の免除をうけた。…

※「パッラバ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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