改訂新版 世界大百科事典 「パーンディヤ朝」の意味・わかりやすい解説
パーンディヤ朝 (パーンディヤちょう)
Pāṇḍya
紀元前から14世紀まで南インド南端部を支配し,チョーラ朝とともに南インドの地方王朝興亡史を典型的に示した王朝。その主領域は首都マドゥライを中心に今日のティルネリベリ,マドゥライ,トラバンコールの諸地域に及ぶ。前4~前3世紀にメガステネスは〈ヘラクレスの娘の創始した国パンダイヤ〉と述べ,《エリュトラ海案内記》や大プリニウス,プトレマイオスの書にもこの地の繁栄ぶりが言及されている。紀元後1~3世紀にマドゥライを中心に栄えたシャンガム文学には,チョーラ,チェーラ,パーンディヤ3王国競合の状況などが描かれている。
その後の歴史は史料欠如のため不明であるが,6世紀末にはこの王国は復活し,以後300年間チャールキヤ,パッラバ両朝と抗争を繰り返しつつ南部での勢力を固めた(前期パーンディヤ朝)。しかし,9世紀後半から12世紀末にかけてチョーラなどの支配下にあり,国王はセイロン,ケーララに逃げた。12世紀末,チョーラの衰退に乗じて再び力を盛り返した王国は,1279年ころチョーラを滅ぼし,いわゆる後期パーンディヤ朝の隆盛を迎えるが,短命に終わる。つまり,1311年マリク・カーフールにより,また北部のカーカティーヤ朝によって侵入を受け,23年にはウルグ・ハーンにマドゥライを落されて事実上滅亡する。その領地はのちにビジャヤナガル王国の一部となる。パーンディヤは古来海上交易で栄え,その中心はコルカイ,カーヤルであった。マルコ・ポーロも13世紀末王国を訪れている。
執筆者:重松 伸司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報