パレスティナ暫定自治(読み)パレスティナざんていじち

百科事典マイペディアの解説

パレスティナ暫定自治【パレスティナざんていじち】

1993年9月にイスラエルラビン首相とPLOパレスティナ解放機構)のアラファート議長との間で調印された〈暫定自治に関する原則宣言〉にもとづくパレスティナ自治構想。これを準備したオスロでの秘密交渉にちなんで〈オスロ合意〉とも。1994年5月に暫定自治に関するカイロ協定に調印。1995年4月パレスティナ自治行政府によるガザ地区とイェリコ(ヨルダン川西岸の村)での自治がスタートした。次に,イェリコ以外の西岸での自治拡大合意がなされ,ヘブロンを除く西岸5都市のイスラエル軍撤退が完了した。1996年1月パレスティナ行政府は長官および評議会選挙を実施,アラファートが初代長官に就任,評議会議員(88名)が選出された。この間ラビン(イスラエル労働党)が1995年11月暗殺され,翌年6月ネタニヤフ(右派のリクード党首)が首相となると交渉は停滞し,他方パレスティナ側では和平に反対するハマースなどのテロが続いた。1998年アメリカの仲介で西岸地区からの追加撤退につき合意(ワイ合意)が成立,1999年5月までに,聖地エルサレムの帰属,領土の最終確定などパレスティナの最終的地位交渉が行われることになっていたが,ネタニヤフ政権のもとでは進展しなかった。1999年5月,和平に積極的なバラク(イスラエル労働党の党首)が首相になり,和平の行方への期待が高まったが,2001年3月リクード党首のシャロンが首相に就任後はまた後退し,同年12月のハマースなどによる連続自爆テロのあとイスラエルはアラファート議長との関係断絶を決定するなど,事態は行き詰まった。2003年のアメリカ・イギリスによるイラク戦争と関連して,アメリカのブッシュ政権が提起した中東和平〈ロードマップ〉にもとづく打開策が模索されたが,暴力の応酬が再燃した。2004年アラファートの死後,穏健派のM.アッバスが後任となり,一時和平交渉の気運が高まったが,2006年総選挙で強行派のハマースが穏健派のファタハに勝利し,2007年にはガザ地区の占拠を巡って両派の武力衝突が起こった。イスラエル・オルメルト首相はハマースのガザ地区占拠に対して空爆で報復,さらに2008年3月ガザ地区に地上軍を侵攻させガザ地区を封鎖,イスラエルとハマースはエジプトの仲介で6ヵ月停戦に合意したものの,合意は実行されず期限切れで失効,イスラエルは攻撃を強め,さらに2009年1月には地上侵攻した。2009年2月のイスラエル総選挙で,強硬派のネタニヤフ率いるリクードが躍進し労働党などとの右派連立を実現,ネタニヤフは,入植事業の継続政策を加速,入植凍結を和平交渉再開の条件とするパレスティナ政府との溝は拡がった。パレスティナを国家として正式承認する国も増えている。しかしイスラエルとの和平プロセスはますます遠のく状況が続いている。→パレスティナ問題パレスティナ自治政府
→関連項目イスラエル

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