改訂新版 世界大百科事典 「パンアメリカ主義」の意味・わかりやすい解説
パン・アメリカ主義 (パンアメリカしゅぎ)
Pan-Americanism
アメリカ大陸において,19世紀の末以来,アメリカ合衆国とラテン・アメリカ諸国とが相互の結びつきを強化するために進めてきた運動。第2次世界大戦後には米州機構(OAS)を中心とした地域的な協力体制を形成している。アメリカ大陸の諸国が一体であるという思想や具体的な統合をめざした動きはすでに19世紀初めのモンロー主義や,S.ボリーバルの提唱で開かれたパナマ会議を通じて現れていたが,パン・アメリカ主義の運動が具体的な形をとりはじめたのは,合衆国の提唱で1889年末から翌年初めにかけてワシントンで開かれた第1回米州諸国会議International Conference of American Stateであった。ドミニカ共和国を除く当時のすべてのラテン・アメリカ諸国と合衆国が参加したこの会議で,会議の常設機構としてアメリカ大陸諸共和国通商事務局(1910年にパン・アメリカ連合と改称)が設置され,以後ほぼ定期的に米州諸国会議が開催されることになった。
しかし,20世紀初頭以来合衆国が中央アメリカやカリブ海の小国に対して武力干渉を行い,それに対してラテン・アメリカ諸国の側が強く反発したためパン・アメリカ主義の運動は1920年代の末までは大きな発展をみなかった。30年代に入って合衆国のF.ローズベルト大統領が〈善隣政策〉のもとで武力干渉政策を放棄し,33年にモンテビデオで開かれた第7回米州諸国会議で〈いかなる国も他国の内政および外交に干渉しない〉という不干渉主義の原則に同意したことから,合衆国とラテン・アメリカ諸国との関係は改善され,それを基礎にして30年代後半から第2次世界大戦の期間にかけてパン・アメリカ主義の運動は著しく進展した。この時期に合衆国の主導のもとで進められたパン・アメリカ主義の運動はヨーロッパやアジアのファシズム諸国による軍事的脅威や,経済的・イデオロギー的浸透から西半球諸国を防衛することに重点がおかれ,その目的はこの期間に数回にわたって開かれた米州諸国による会議を通じて達成された。
この期間には,ファシズム諸国による脅威や影響力が排除される一方で,合衆国とラテン・アメリカ諸国との関係が政治,経済,軍事の面で緊密なものとなり,第2次世界大戦後にこれらの緊密な諸関係は,1947年の米州相互援助条約の締結や,48年の米州機構憲章の調印などにより具体的に制度化されるにいたった。米州機構を中心とした体制は西半球諸国の集団安全保障や,経済的・社会的発展,および文化交流促進のための機関として機能している。しかし合衆国主導のパン・アメリカ主義の思想や運動はラテン・アメリカの側からつねに受け入れられてきたわけではない。ラテン・アメリカの一部の国の政治家や知識人は合衆国のパン・アメリカ主義政策をラテン・アメリカを支配するための道具だとみなして警戒してきたし,ラテン・アメリカ諸国の政治的・経済的問題の解決は,国際連合の諸機関や,合衆国を除いたラテン・アメリカの国々からのみ成る機関によってはかられるべきだという主張も存在してきた。
→米州機構
執筆者:加茂 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報