アメリカの社会学者。シカゴ学派の中心的人物で、人間生態学や都市社会学の生みの親。ミシガン大学を卒業し、高校教師、新聞記者、大学院生、大学助手、黒人教化事業など多彩な経歴を経て、50歳を過ぎてからシカゴ大学教授になった。その研究領域は広く、集合的行動、人種関係、人間生態学の3領域にわたるが、このうちとくに、動植物生態学に負うところの大きい人間生態学を社会学の一部門として確立し、これをもって都市社会学の基礎づけを行い、その名を知られた。E・W・バージェスとの共著『社会学の科学への序論』(1921)において、社会過程を競争competition、闘争struggle、応化accommodation、同化assimilationの四つに分けてとらえたが、競争の過程ではコミュニティが、闘争、応化、同化の過程ではソサエティが、それぞれ形成されると考え、このコミュニティを対象に研究する科学が人間生態学であるとし、これが都市の研究にもっともよく適用できるとみたのである。競争は、社会的接触のない、無意識的、無自覚的な相互作用の過程であって、パークはこの相互作用を第二次的接触とよび、都市の基礎をなしているという。都市はそのような社会過程をもっとも有効に研究できる「実験室」であった。パークの人間生態学、都市社会学は多くの門下の実証的な研究によって補強・継承され、ここにシカゴ学派は華々しく開花した。それは同時にアメリカ社会学の新しい伝統の始点となった。
[高橋勇悦]
『R・E・パーク、E・W・バーゼス著、大道安次郎・倉田和四生訳『都市――人間生態学とコミュニティ論』(1972・鹿島研究所出版会)』▽『R・E・パーク著、町村敬志・好井裕明編訳『実験室としての都市 パーク社会学論文選』(1986・御茶の水書房)』
スコットランド生まれの探検家。1795年、当時、ヨーロッパ人にとっては謎(なぞ)とされていた、アフリカの三大河川の一つ西アフリカのニジェール川の水源と河口を探る目的で、イギリスのアフリカ協会から西アフリカに派遣された。この探検で、彼はニジェール川湾曲部の商業都市ジェンネまで到達しただけで、当初の目的を達成できなかった。1805年、イギリス政府の援助のもとに再度この探検に挑み、ヨーロッパ人にとっては幻の都であったトンブクトゥに到達し、さらに1600キロメートルにわたりニジェール川の航行に成功したが、河口800キロメートル手前のブッサで現地住民と衝突し殺害された。
[原口武彦]
『森本哲郎・広瀬裕子訳『世界探検全集5 マンゴ・パーク ニジェール探検行』(1978・河出書房新社)』
イギリスの外科医,探検家。スコットランド生れ。エジンバラ大学で医学を修め,東インド会社の外科担当医としてインドに勤務したのち,ロンドンのアフリカ探検協会に探検を出願し,ニジェール川探検を委嘱された。1795年6月,海路でガンビア川の河口に達し,そこから内陸に向かった。ムーア人の捕虜となるなどの苦難ののち,96年7月20日,セグーで東流するニジェール川を発見した。しかし治安不良,健康,資金,同伴者などの問題のため,川くだりを諦めて帰路に着いた。帰国後,結婚し,外科医を開業したが,1803年にイギリス政府のニジェール川再探検の求めを受け,05年5月,ガンビア河口から内陸に向かった。同年8月,バマコでニジェール川に達し,ランチで川くだりをした。幻の都トンブクトゥには上陸せず,ひたすら出口を目ざしたが,06年初頭,下流のブーサで住民の襲撃を受けて死亡した。主著は《アフリカ内陸の旅》。
執筆者:酒井 傳六
アメリカの社会学者。都市研究で知られ,移民の実態に即したマージナル・マン研究も著名。研究領域は人種,文化,新聞にもわたる。ミシガン大学とハーバードの大学院で学び,ヨーロッパに留学。学位論文はハイデルベルク大学に提出した《群集と公衆》。新聞記者としても活動し,シカゴ大学教授を務め,シカゴ学派の都市研究の中心となった。《都市》(共著。1925)などがある。
執筆者:山岸 健
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1771~1806?
イギリスの外科医,探検家。24歳のとき,アフリカ探検協会の委嘱を受け,ニジェール川探検に向かう。ガンビア川河口から西アフリカ内陸部を探検,詳細な記録を残す。1805年,再度ニジェール川探検に向かい,06年行方不明になる。
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…後者は,行政主体が風景地の保護または利用のために一定の地域を指定し,その地域内で風致および景観を維持ないしは利用するに際して障害となる行為を禁止したり制限したりもするもので,大部分の自然公園がこれに含まれる。また近年では,農村公園や環境保全のためにビオトープなどの維持活用のための公園,さらにはテーマパークなどのように目的的に特化した公園もある。
[公園の歴史]
古代ギリシア,ローマの都市には広場があったが,公園,パークparkはなかった。…
… 奴隷制廃止にいたるまでのあいだに,19世紀に入る前後からヨーロッパ人によるアフリカ内陸部探検が盛んに行われていた。1795年から1806年にかけて2度も西アフリカのニジェール川上流付近を探検したスコットランドのマンゴ・パーク,1820年代にサハラ砂漠を横断し西アフリカにいたった同じスコットランドのヒュー・クラッパートンHugh Clapperton(1788‐1827)や50‐70年代に幾度も東アフリカを探検した宣教師デビッド・リビングストン,行方不明になったリビングストンをタンガニーカ湖畔のウジジで発見して名を知られ,さらにベルギー国王レオポルド2世の依頼を受けてコンゴの植民地化に辣腕をふるったイギリス生れのアメリカ人ジャーナリスト,ヘンリー・M.スタンリーなどは,この時代の探検家を代表する人びとである。探検はもともと科学的興味や人道主義的使命感からはじめられたものであったが,これによってもたらされたアフリカ内陸部に関する情報は,19世紀後半におけるヨーロッパ列強の領土的野心をいっそう刺激する結果を生んだ。…
…4人の探検家がこの企ての中で失敗し,死亡した。協会派遣の5人目の探検家がM.パークであった。96年,彼はガンビア川から入ってニジェール川に達し,上流のジェンネまでを探検した。…
…都市生活の実態をふまえて,都市,都市の地域・地区,都市圏の現状,動態,変貌を解明しようとする特殊社会学の一分野。都市社会学の研究は,1920年代にアメリカで当初は人間生態学の観点から行われ,C.ブースの《ロンドン民衆の生活と労働》(全17巻,1902‐03),トマスWilliam I.Thomas(1863‐1947)とF.W.ズナニエツキーの共著《ヨーロッパおよびアメリカにおけるポーランド農民》(1918‐20),シカゴ学派のR.E.パーク,E.W.バージェス,R.D.マッケンジーによる共著《都市》(1925)が注目される。都市研究の観点と方向とを理論的に明らかにした《都市》は,その後の都市社会学研究の出発点となった。…
※「パーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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