ポーランド建国の父として両大戦間期に英雄視された人物。第2次世界大戦後は社会主義政権のもとで公式には無視されているが,民衆の間での人気はいまなお高い。
一月蜂起後弾圧がとくに厳しかったリトアニアで,中流シュラフタの家庭に生まれ,母親から入念な愛国心教育を受けた。7歳のときに農場が火事で焼け,一家はリトアニアの首都ビルニュスに移った。ギムナジウム卒業後,一時ハリコフ大学の医学部に籍を置くが,1887年のロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺未遂事件に兄ブロニスワフとともに巻き込まれ,5年間のシベリア流刑に処せられた。92年にビルニュスに帰り,その年に創設されたばかりのポーランド社会党に翌93年加入した。当時の社会党の活動は非合法機関紙《ロボトニク(労働者)》を発行し,これを配布することであった。94年の創刊から1900年にウッチの印刷所で逮捕されるまで,ピウスーツキは同紙の発行に従事している。非合法活動のなかで示された果敢な行動ゆえに,党内における彼の評は高かった。なかでもワルシャワ要塞に収容された後に演じられたはでな脱獄劇(1901)は,ピウスーツキを一躍有名にした。
1904年の日露戦争の勃発でロシア帝国内に状況変化の兆しが見えてきたとき,彼は蜂起を考えるようになった。日本政府に援助を求めて来日するが,援助は実現せず,社会党が同年,自衛のためにつくった武装集団がその準備の場となった。一月蜂起が失敗したのは訓練された指揮官がいなかったからだと考えたピウスーツキは,指揮官の養成に努力した。しかし革命によって過激化した大衆が多数入党してきたため,社会革命を考えないピウスーツキらはしだいに党内で孤立していった。
06年に党を追われ,彼らは独自に〈革命派〉を結成した(主流派は〈左派〉を名のる)。以後,党資金を奪われた〈革命派〉は銀行や郵便列車を襲撃することに精を出すが,ピウスーツキ自身も08年にビルニュス近郊のベズダヌイ駅で郵便列車襲撃作戦に参加している。この作戦を最後に指揮官養成の場はガリツィア(オーストリア領ポーランド)に移されることになっており,すでに同年に〈革命派〉のメンバーによって武装闘争同盟(秘密組織)がつくられていた。また10年には公然と軍事訓練を行うため,〈射撃同盟〉や〈射撃兵〉がつくられた。14年に第1次世界大戦が始まったとき,ピウスーツキは彼らを率いてロシア領ポーランドに出撃することになる。ピウスーツキによれば,彼らの出撃に呼応して一斉蜂起がロシア領ポーランドで起こるはずであった。しかし一斉蜂起は起こらず,ピウスーツキらは〈第1旅団〉としてオーストリア軍の指揮下につくられたポーランド軍団に参加することになった。
15年になってロシア領ポーランドはドイツ軍の占領するところとなり,16年にピウスーツキらは軍団を辞任した。ドイツ軍のもとでポーランド軍を組織するためである。しかしドイツ軍はポーランド軍に独自の指揮権を認めようとせず,17年にピウスーツキらは忠誠宣誓を拒否して逮捕された。ドイツ軍の敗北によって,18年ワルシャワにポーランド政府がつくられることになったとき,ピウスーツキが国家首席(ポーランド軍司令官を兼ねる)としてこれを担当できたのはこの逮捕のおかげであり,対ドイツ協力の事実がこれで帳消しになった。
19年2月に憲法議会が召集され,ピウスーツキはあらためて憲法議会により国家首席に任命された。21年3月に成立した〈三月憲法〉のもとで大統領が選ばれる22年12月まで,ピウスーツキはこの地位を保持することになる。また彼はロシア革命の混乱に乗じてウクライナ人を独立させ,これをポーランドの保護下に置くことを考えて,20年5月にキエフに遠征した。しかし,7月にソビエト・ロシアの赤軍がワルシャワ近郊まで迫り,ポーランドの独立は一時,危機に直面した。〈三月憲法〉が成立した21年3月にリガ条約が成立してポーランド・ソビエト戦争は終結するが,この時期をもって独立直後の例外的状況は終わったと考えてよい。
しかし〈三月憲法〉のもとで機能し始めた議会制は評判が悪かった。小党分立による政党間の対立抗争が原因で,戦後の激しいインフレーションと,それに伴って発生してきた社会問題や政治問題に有効に対処しえなかったからである。26年5月にピウスーツキはクーデタを起こし,再び政治の実権を握った。このとき彼を支持したのは,〈第1旅団〉以来の彼の部下たちであった。事実上の独裁権はピウスーツキの握るところとなったが,〈三月憲法〉の体制は基本的に変わらず,彼が占めた公式の地位も軍務大臣(1926年5月~35年5月)と総理大臣(1926年10月~28年6月,30年8月~12月)にすぎなかった。その独裁権は軍隊を基盤にしており(クーデタ後は軍人の行政機関への浸透が著しい),大統領や総理大臣の地位に言いなりになる人物を据えておけばそれで十分であった。27年10月には政府翼賛無政党ブロックをつくって議会のコントロールを試み,それが成功しないとみると,公然と選挙干渉をして無政党ブロックに過半数を確保させている(1930年11月)。35年4月に成立した〈四月憲法〉は,こうしたピウスーツキの事実上の独裁政を制度化したものである。しかし翌5月ピウスーツキが死亡し,サナツィア(〈清浄化〉の意)と呼ばれたピウスーツキの支持勢力は分解を始めた。
執筆者:宮島 直機
リトアニア出身の人類学者。J.ピウスーツキの兄。ロシア領ポーランドの名門貴族(シュラフタ)の家庭に生まれ,ペテルブルグ大学法学部在学中にロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺未遂事件に連座してサハリン(樺太)流刑となり,以来19年(1887-1906),沿海州,日本も含めた極東の地で過ごす。この間に北サハリンのニブフ(ギリヤーク),1903年以降はロシア帝室科学アカデミーおよび地理協会の委嘱でアイヌ,ウイルタ(オロッコ)などを調査した。1903年にはヤクート研究で著名なシェロシェフスキとともに北海道を訪れ,アイヌ調査を行う。ピウスーツキの研究は,強いられたサハリン在住が可能にした長期間の実地調査,およびエジソンが発明したばかりの蠟管蓄音機によるフォークロア採録を特色としており,その意味で彼は現代人類学の先覚者の一人といえよう。日露戦争直後に帰国の途上日本に立ち寄り,ニコライ・ラッセルのロシア兵捕虜啓蒙活動に協力するかたわら,人類学者の坪井正五郎,鳥居竜蔵を訪ねてアイヌ問題で意見を交わし,アイヌ研究での処女論文《樺太アイヌの状態》(1906)を日本語で発表している。8ヵ月の滞日中は政治家,ジャーナリスト,文学者,社会主義者たちと広く交際し,在日中国人革命家とも親交を結ぶ。とりわけ作家の二葉亭四迷とは深く交わり,友情は終生変わらなかった。オーストリア領ポーランドへ戻ったのちも不遇で,持ち帰った調査資料のうちアイヌ関係の一部を《アイヌの言語・民話研究資料》(英文。1912)として刊行したほか,50編余りの論文を公表できたにすぎない。
アイヌ,ウイルタ,ニブフ,ウリチ(オルチャ)関係の未刊遺稿と既刊労作《サハリン島アイヌのシャマニズム》《サハリン島アイヌの熊祭》(ともにドイツ語。1909),《サハリン島原住民の出産,妊娠,堕胎》(フランス語。1909)などを集成した《ピウスーツキ著作集》の刊行が〈ピウスーツキ業績評価国際委員会〉によって計画されている。同委員会はすでに,ピウスーツキの残した録音蠟管を日本の先進技術を駆使して再生することに成功しており,樺太原住民の〈最古の肉声〉がかくしてよみがえったのである。
執筆者:井上 紘一
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…ポーランドも日本研究の伝統を有する。ロシア帝国支配の時代にシベリア流刑となった作家で民族学者のW.シェロシェフスキおよび言語学者ないし民族学者のB.ピウスーツキの両者がアイヌ研究に手を染め,とくに後者はサハリンでアイヌの伝承を収録した。ポーランド独立後の1919年にはワルシャワ大学に日本語の講座が設けられ,55年にはこれが日本学科として独立し,日本に関する研究と教育の中心となっている。…
…農民たちはこれを民族連盟の裏切りと考え,1907‐08年につぎつぎと民族連盟から離れていった。かわって彼らが支持したのは,古い伝統に忠実に武装蜂起を準備していたJ.ピウスーツキである。18年にポーランドが独立したとき,ポーランドの政治勢力はドモフスキの支持勢力とピウスーツキの支持勢力に二分された。…
…第1次世界大戦中ポーランド軍団を組織,オーストリア側に立ってロシア軍と戦う。15年ころから指導権をめぐってJ.ピウスーツキと対立する。20年ソビエト・ポーランド戦争で軍功を挙げ,同年参謀総長,22‐23年首相兼軍事相を歴任する。…
…1903年にドモフスキは《近代的ポーランド人の思想》を書き,新しい運動の理論的な基礎づけを行っている。 1904年に日露戦争が始まるとJ.ピウスーツキのグループは,日本の援助によってロシア領ポーランドで蜂起を起こすことを計画した。それを知ったドモフスキはピウスーツキに先んじて来日し,計画の無謀さと有害さを日本政府に訴えた。…
…それまで少数の知識人(その大部分はシュラフタの出身)の集まりにすぎなかった名ばかりの政党であるポーランド社会党が大衆化するのはこのときである。そのために,一方で国民民主党のもとから農民組織が自立していくとともに(のちのポーランド農民党=解放派),他方でポーランド社会党を追われたJ.ピウスーツキのグループが彼らの支持を受けてオーストリア領で軍事訓練を展開することになる。なおロシア領におけるこうした農民運動のあり方に対して,自治を認められていたオーストリア領では議会選挙のために農民党が早くから結成され(1895。…
…右派は当初革命派と名のり,のちに社会党の名を継ぐ。第1次大戦中,同党出身のJ.ピウスーツキの独立運動を支持し,独立後は初代の政府に参加,19年オーストリア領社会民主党,プロイセン領社会党と合同,議会左翼を形成した。26年のピウスーツキのクーデタを支持したが,のちに撤回し,30年代には権威主義的政府に対する主要な野党勢力となる。…
… ロシア革命の拡大の最初の実験は,ポーランド戦争によって試みられた。1920年春,ウクライナに侵入し,5月7日キエフを占領した独立ポーランドのJ.ピウスーツキの軍を追って,赤軍はポーランド領内へ進撃を開始した。7月30日には亡命者によって,ポーランド臨時革命委員会が結成された。…
※「ピウスーツキ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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