フルスト原遺跡(読み)ふるすとばるいせき

日本歴史地名大系 「フルスト原遺跡」の解説

フルスト原遺跡
ふるすとばるいせき

[現在地名]石垣大浜

石垣空港滑走路の北延長線上、大浜おおはま集落の後背地で宮良みやら湾を一望する標高約二〇メートルの琉球石灰岩台地上に立地する。遺跡の北側から東側は断崖をなし、西側から南側にかけては緩やかな斜面となる。一五―一六世紀頃の古琉球の集落遺跡。国指定史跡。近くにはほぼ同時代のカンドーばる遺跡・崎原御嶽さきいばるおん遺跡・フナスク貝塚がある。八重山の群雄割拠時代の豪族オヤケアカハチの居館跡とも伝えられる遺跡で、「球陽」尚真王二四年(一五〇〇)条には石垣に上陸した首里王府の討伐軍に対し、アカハチ軍は「険阻を背にし、大海に面して」布陣していたと記される。遺跡は太平洋戦争中の海軍飛行場(現石垣空港)建設や、戦後の採石事業などで一部破壊されているが、近年復原・整備が進められている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「フルスト原遺跡」の解説

フルストばるいせき【フルスト原遺跡】


沖縄県石垣市大浜にあるグスク(城)跡。石垣島の南部、宮良湾に面した丘陵台地の上に築かれ、島民の間では、島の豪族、遠弥計赤蜂(おやけあかはち)の居城跡と言い伝えられてきた。沖縄の歴史を理解するうえで貴重な遺跡であることから、1978年(昭和53)に国の史跡に指定された。石垣島の諸豪族は、14世紀末以降、首里王府に朝貢していたが、1500年(明応9)、大浜邑(おおはまむら)の赤蜂は朝貢中止を企てたため、尚真王が派遣した大里按司(あじ)を大将とする征討軍によって滅ぼされたという。遺跡は東面から北面にかけて高さ約20mの断崖に接し、その構造は、四囲石積みをめぐらした郭(くるわ)状の石塁区画で、北東部に城門を配置している。石塁区画は15基確認されており、1区画の石積みの規模はほぼ20m四方、石積みの幅は3~4m、高さ2~2.5m。石塁遺構の周辺では中国製陶磁器や八重山焼の破片が出土しており、北側崖下には石塁から投棄されてできた貝塚が形成され、西南側には御嶽(うたき)も発見されている。石垣空港から車で約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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