デンマークの天文学者。チコ・ブラーエと呼ぶことも多い。望遠鏡時代が始まる直前の最大の天体観測家といわれる。晩年J.ケプラーの師となったことでも知られる。貴族の息子としてスコン(現,スウェーデン領)に生まれる。コペンハーゲンの大学で古典的教養を身につけ,1560年の日食が刺激になって天文観測に関心をもち,ライプチヒなど北ヨーロッパ各地を遍歴しながら,天文観測をつづける一方で,錬金術や占星術に関心をもつ。72年カシオペヤ座内に登場した新星(2年ほどつづいたチコの観測記録からみて超新星と推定される)を観測し,それがすい星ではなく,したがって,月下界のものではない(当時すい星は天上界では存在しないと考えられていた)と結論した。
76年,デンマーク王フレゼリク2世は,彼の才能を認めて,スウェーデンとの海峡内にあるベーン島に天文台を建てるよう要請した。チコはここにウラニボルク(〈天の城〉の意)とステルネボルク(〈星の城〉の意)という二つの天文台を建て,多くの観測器械をすえつけて,共同作業による組織的な天体観測を統御した。その観測結果は従来のものに比べて,正確度においてかなり改善された。77年には巨大なすい星が発見され,距離を推定した結果,先年の新星と合わせてチコは,宇宙を天上界と月下界に二分する旧来のアリストテレス的宇宙像に疑問を表明するに至った。またコペルニクス説が〈エカント〉を使わないですむという理由で,数学的には優れていると考えるようになった。こうした点からチコは,独自の地球中心説(地球を中心に太陽が公転し,太陽の周りを他の惑星やすい星が回転する)を考え始めた。これは91年,弟子のフレムレスPeter J.Flemløsの《占星術》というパンフレットの序文に発表されている。
1588年先王の死によって若いクリスティアン4世が即位し,先王ほどの支援を受けられなくなったチコは,ベーン島を離れてプラハに赴き(1599),神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の皇帝つき数学者に迎えられた。ベルベデーレ宮殿に天文台を設けたチコの下に,ロンゴモンタヌスLongomontanus(本名Christian Severin,1562-1647),D.ファブリチウス,J.ケプラーらが助手として集まった。死後,ルドルフ表や,宇宙モデルの完成は信頼のあつかったケプラーにゆだねられた。
執筆者:村上 陽一郎
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… ところで,地球から見た図2における水星の運動は,図3のごとく周転円の中心Oを太陽に重ね,導円を太陽の年周軌道円に重ねてしまっても,導円と周転円の半径比を元どおり保ち,さらに相互の角速度の比も元どおりに保つかぎり,まったく同じであることは明らかであろう。実はT.ブラーエが考えた宇宙モデルはこの型のもので,地球を中心に太陽が回転し,その太陽を中心に(すべての)惑星が回転するというものであった。 さて,次に太陽を固定し,その運動を地球みずからが回転することに変換すると,われわれはそこにコペルニクスの太陽中心説が現れたことに気づく(図4)。…
…円周の1/4の目盛環に0゜~90゜を目盛り,これに円の中心を通る可動の視準尺を取り付けたものである。観測の精度を高めるためにいきおい目盛環は大型になり,史上有名なT.ブラーエの四分儀は円の半径3mでこれを子午面内に固定し,南中時の天体の高度を測定して天体の赤緯を求めた。この目盛環の角度1′の目盛の間隔は0.9mmとなるが,ブラーエは目盛の読取りに副尺をくふうして10″まで測定したと伝えられる。…
…中国では古くからその字が示すようにすい星は天体であると考えられていたが,西洋ではアリストテレス以来,長い間すい星は虹や稲妻のように,地球大気内の現象だと思われていた。 1577年に出現した大すい星を,デンマークのT.ブラーエは詳しく観測した。同じすい星を約650km離れたプラハで観測したものと比較して,周囲の恒星との関係位置にまったく差がないことから,すい星は月よりも遠いことが知られ,天体であることがわかった。…
… この書にはコペルニクス自身の観測の結果も記されているが,その数は少ない。彼はむしろ理論家であったが,デンマークの天文学者T.ブラーエはすぐれた実験家であった。彼は当時としてもっとも精密な天文観測を続けて行い,その結果を記録した。…
…彼は観測家というよりもむしろ思索的な天文学者であった。これに対しデンマークのT.ブラーエは,16世紀最大の観測天文学者であった。この偉大な天文学者が行った火星の観測を整理することによって,ドイツのケプラーは有名な惑星運動の3法則を樹立した。…
…天才レオナルド・ダ・ビンチがまだ若かった1471年,ドイツで最初のニュルンベルク天文台がレギオモンタヌスによって建設され,実証精神を重視して盛んに観測が行われるようになった。当時の大観測家T.ブラーエが,デンマーク近海の島にウラニエンボリ天文台を築いたのは1576年のことであり,これこそ近世最初の本格的な天文台といえるものである。彼は六分儀や四分儀などの器械を作ってここに置き,精密な天文観測を行ってその記録を残した。…
…彼は黄金でつくった鼻をつけ,血に飢えた復讐(ふくしゆう)政治を行ったので〈鼻切られ皇帝Rhinotmetus〉とあだなされたが,この金製のつけ鼻をみがくのはだれかを殺すことを決めたときだと恐れられた。また,デンマークの天文学者T.ブラーエも決闘で鼻をそがれたので,金製の鼻を接着剤でつけていた。鼻を切り落とす刑は劓(ぎ)といい,中国古代の五刑の一つであるが,似た刑罰はイギリスにもあった。…
※「ブラーエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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