ブリアン(Aristide Briand)(読み)ぶりあん(英語表記)Aristide Briand

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ブリアン(Aristide Briand)
ぶりあん
Aristide Briand
(1862―1932)

フランスの政治家。ナントの生まれ。当初社会主義者とくにゼネラル・ストライキ至上主義のサンディカリストとして政治活動に入ったが、しだいに改良主義に移行し、ジョレスらとともにフランス社会党を創設、1902年代議士となる。調停的能力に優れ、1905年の政教分離法を成立させ、また同年ジョレスらとともに社会主義諸政党を統合して統一社会党SFIO創立に尽力した。しかし翌1906年党の「ブルジョア内閣入閣禁止」方針に反対して脱党し、独立社会党に加わって、サリアン内閣に文相として入閣、カトリック対策を担当した。以後歴任した大臣ポストは25、首相就任回数は11を数える。その間第一次内閣下で起こった1910年のゼネストには峻烈(しゅんれつ)な弾圧で臨み、ドイツとの対立を前にしては、対独強硬派のポアンカレの大統領選出に、また兵役年限の延長に大きな役割を果たすなど社会主義色を完全に払拭(ふっしょく)していった。第一次世界大戦中は2次にわたり首相を務めたが、戦勝に導くことができなかった。

 ブリアン真価は、大戦後の平和外交において大いに発揮された。1925年4月~1932年1月の間外相の任にあり(うち1925年11月~1926年7月、1929年7~10月首相)、「ブリアン外交」の一時代を画した。おもな業績としては、ルール地方占領軍撤退(1925年8月)、ロカルノ条約の正式調印(同年10月)、ドイツの国際連盟加盟(1926年9月)、連合国対独軍事管理委員会の廃止(1927年1月)、パリ不戦条約ケロッグ‐ブリアン条約)の成立(1928年8月)、条約上の期限を4年余して行ったライン地方からの占領軍引揚げ(1930年6月)などがあげられるが、これらに主動的役割を担うことにより、ドイツとの関係改善、西欧の安全保障、ひいては世界の平和増進に大きく貢献した。1930年6月の欧州連邦案は、第二次世界大戦後の西欧の統合に示唆を与えたといわれる。1926年12月ノーベル平和賞受賞。

石原 司]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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