古代ギリシアの歴史家。キケロにより「歴史の父」とよばれる。
小アジアのドーリス地方のハリカルナッソスの名家に生まれる。僭主(せんしゅ)リグダミス打倒の試みに参加して敗れ、サモス島に亡命。紀元前455年ごろいったん帰国したようであるが、その後まもなく研究調査の旅行に出、各地でその成果を口演し、前445年ごろアテネを訪れ、前443年に南イタリアにおけるアテネの植民市トゥリオイの建設に加わって、その市民権を得、そこで死んだと思われる。古代の大旅行家で、その足跡は、東はメソポタミアのバビロン、西は南イタリア、北は黒海北岸、南はナイル川を1000キロメートルもさかのぼったエレファンティネ島に及んだ。
[清永昭次]
ヘロドトスは、各地での目撃、伝聞、文献などに基づく探究の成果(ヒストリア)を書きため、アッティカ方言と詩語を交えたイオニア方言を用いて、それを大著『歴史』にまとめあげた。これを9巻に分けたのは、前2世紀のアレクサンドリアの文献学者アリスタルコスだったと考えられる。本書においてヘロドトスは、西方のギリシア人と東方のバルバロイの抗争を伝説時代から説き起こし(1巻1~5章)、小アジアのギリシア人を支配し、本土のギリシア人と友好関係を結んだ最初のバルバロイの王国であるリディアの盛衰(1巻6~94章)と、これを滅ぼしたペルシア帝国の発展(1巻95章~5巻22章)の跡をたどり、この帝国に対して小アジアのギリシア人が蜂起(ほうき)したイオニア反乱(5巻23章~6巻42章)を経て、ペルシアの大遠征軍を迎えてギリシアが勝利したペルシア戦争の経過を、前479年まで詳述した(6巻43章~9巻121章)。最後の章(9巻122章)で完結しているか否かについては意見が分かれている。また地理学、民族学的内容のものを中心に、長短さまざまな「脱線」が随所に挿入されているが、ギリシア人とバルバロイの偉大な事績の数々、とくにペルシア戦争とその原因を後世に伝えるという目標(序章)に沿って、東西の対立抗争のクライマックスとしてのペルシア戦争に叙述が集中していくように、全体が構想されている。
ヘロドトスは天才的な語り手で、その著作は「物語り的歴史」とよばれ、またしばしば、同じ事柄についてのさまざまな資料をそのまま提供しているが、信憑(しんぴょう)性を判断できる場合は資料を選択している。彼には民族的偏見がなく、観念よりも事実への関心が強く、神話を疑うこともあったが、基本的には神々、神託、前兆などを受け入れ、運命と偶然に縛られる世界において、人間はなお行動の自由をもつが、その限界を超えた傲慢(ごうまん)は神々の警告を受け、罰せられると信じた。彼の『歴史』への批判は、トゥキディデス以来続いており、確かに誤った叙述や脱漏などもあるが、今日では信頼性が高いとみる見解が一般的である。
[清永昭次]
『松平千秋訳『歴史』全3冊(岩波文庫)』
前5世紀のギリシアの歴史家。生没年不詳。キケロ以来〈歴史の父〉とよばれている。ハリカルナッソスの名門に属するリュクセスの子。彼は若いころペルシアの後援で同市に独裁政(僭主政)を樹立せんとするリュグダミスとの抗争の渦中にあって敗れ,一家は一時サモス島に移ったらしい。前445年ころペリクレスが活躍するアテナイを訪れ,ペルシア戦争史の一こまを演説して人気を博し,アテナイは多額の金を贈って感謝したと伝えられる。前443年アテナイが南イタリアのトゥリオイ市を建設する際にそれに参加して同市の市民となり,前430年の少し後に没したらしい。彼はミレトスのヘカタイオスのように直接の見聞を求めて東方世界を広く旅行した。その足跡は黒海北岸からフェニキア諸市やバビロンを経てエジプト,さらにナイル川をさかのぼってエレファンティネ,アフリカ北岸のキュレネに及んだ。そして各地の地誌,風土,風俗や歴史物語を,ペルシア戦争において頂点に達した東西抗争という巨大な物語の中に統一的に流しこみ,《歴史》として残したが,それは当時の世界史にほかならなかった。
執筆者:太田 秀通 ヘロドトスの《歴史》には多くの地理的記述が見られる。とくに歴代ペルシア王の遠征地,例えば,キュロス2世のバビロンやマッサゲタイ,カンビュセス2世のエジプト(ナイル川の氾濫とその原因についての記述は有名),ダレイオス1世のスキュティア(スキタイ),リビアについて民俗誌や博物誌的記述を交えその地理を記している。彼は古代ギリシア最大の旅行家で,その記述はヘラクレスの柱(ジブラルタル)の外のタルテソスからインダス川に及んでいる。彼は前代の世界地図でオケアノス(大洋)が大地を円形に囲繞していること,カスピ海がオケアノスから湾入していること,またエジプトがナイル川によりアジアとリビアに二分されるという通説等を批判しているが,なお大地が平板状であると考えている。
執筆者:高橋 正
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前484頃~前425頃
ギリシアの歴史家で「歴史の父」と呼ばれる。アナトリアのハリカルナッソスに生まれ,アテネその他を訪ね,またエジプト,メソポタミアを旅行し,南イタリアに移った。その著『ヒストリアイ』(正しくは「研究」の意,「歴史」と呼ばれることもある)はペルシア戦争の歴史であるが,多くの説話を伝承のままに織り込み,またみずからの見聞をまじえて,すこぶる興味ある読みものをなしており,「物語風の歴史」の典型である。
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…東の限界が,ペルシアまでかインドまでかは不明である。 ヘロドトス(前5世紀)にいたると,彼の旅行範囲が南北に広がったため,現在の北アフリカにあたる地域がアジアから区別されてリビアと呼ばれるようになった。彼の《歴史》がギリシアとペルシアの戦争を一つの主題としているため,彼がペルシア帝国の首都スーサ(カルフ川の貫通する盆地)を訪れなかったにもかかわらず,アジアは少なくともペルシアまでを含む。…
…しかし,彼らは商船の運航ルートを秘密にしていたので,海図や文書が現存せず,ごく一部がギリシアに口伝えされたにすぎない。前5世紀のヘロドトスの著作には,早くも大西洋の名が姿を現し,ヨーロッパ,アジアの大陸もみられる。こういった交易によって,各地の産物,文明の交流が盛んになったが,海はその物資のルートに一役を買ったばかりでなく,精神文化,各人種間の交流ルートとしても,重要な役割を担うことになったのであった。…
…散文体は前400年代前半にイオニアで発達しはじめたが,これは詩文体と異なり,事物を対象化し,これを分析・整理して記述するのに適している。イオニアでは散文体による地誌,旅行記,書簡文の類が生まれたが,歴史家ヘロドトスの出現とともに散文体文学は名実ともに一つの完成へと駆け上る。人間世界のできごとを収録し,その因果を究明するという壮大な知的展望のもとに繰り広げられる彼の《歴史》の文章は,その明快優美な流れのゆえに,ギリシア散文体文学の最高傑作の一つに数えられる。…
…前1300‐前500年の中欧・東欧に見られる鉄器時代前期の〈ラウジッツ文化〉の担い手をスラブ人と考える説はすでに18世紀に提唱され,19世紀末から20世紀初頭にかけて再燃し,今日なおスラブ人考古学者のあいだでは有力であるが,推測の域を脱してはいない。 ギリシアの歴史家ヘロドトスは前5世紀の半ばに,ドニエプル川とブーグ川の上流域に住み,年に1度数日間オオカミに変身するというネウロイ人Neuroiのことを伝聞した。ネウロイ人は,その居住地(スラブ人の原郷に近い)や民俗(オオカミ祭祀)から,古代スラブ人の一種族と推定することも可能である。…
…エジプトに統一国家が生まれたのは前3100年ころで,アスワンから地中海に至る1200kmの流域が文明の舞台として3000年間にわたって栄えた。前5世紀のギリシアの史家ヘロドトスは〈エジプトはナイル賜物(たまもの)〉と記した。後期のエジプト文明はアスワンより上流のヌビアにもひろがり,前7世紀成立のメロエ王国はエジプト的要素とアフリカ的要素を複合した独自の文化を築いた。…
…
【ヨーロッパ】
[歴史叙述の発生]
探究の対象として歴史を把握したギリシア人は,ヨーロッパ世界にあって初めて歴史書を残した。ヘロドトスは前5世紀のペルシア戦争を事件の経過に従って忠実に再現しようとしたが,その際にも,諸民族が置かれた地理的条件を考察するなど,探究の意志が働いている。トゥキュディデスは,ペロポネソス戦争を描いたが,歴史を動かす人間の資質に関心を寄せ,また歴史への探究によって,未来の行動への準則が学び取られると考えた。…
※「ヘロドトス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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