ベオグラード(その他表記)Beograd

デジタル大辞泉 「ベオグラード」の意味・読み・例文・類語

ベオグラード(Beograd)

《白い城市の意》セルビア共和国の首都。ドナウ川とサーバ川との合流点にあり、交通の要地。人口、行政区132万(2008)。ベルグラード

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精選版 日本国語大辞典 「ベオグラード」の意味・読み・例文・類語

ベオグラード

  1. ( Beograd ) セルビア共和国の首都。セルビア中部、ドナウ川とサーバ川の合流点にあり、中部ヨーロッパからイスタンブールへの交通の要地。

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改訂新版 世界大百科事典 「ベオグラード」の意味・わかりやすい解説

ベオグラード
Beograd

セルビア・モンテネグロの首都であったが,2006年モンテネグロの独立に伴いセルビア共和国の首都となった。人口130万(2003)。英語ではベルグラードBelgradeという。サバ川がドナウ川と合流し,ルドニック山地がドナウ川流域に接する地点にある。大陸性気候で,年平均気温は11.2℃,年降水量は650~700mm,冬にはコシャバという北東風が吹く。

 交通あるいは戦略の要衝として古くから争奪が繰り返された。まずケルト人が前4世紀ごろ,両川に臨む高台,現在のカレメグダン公園の地に,シンギドゥヌムSingidunum城塞を造る。ローマ人が前1世紀も終りごろこれを占領,やがて軍団を置く。5世紀にフンが占領,6世紀ユスティニアヌス1世が町を再興し,スラブ人を伴ったアバール族が7世紀にこれを陥れた。9世紀の記録に初めてビイェルグラードBjelgradの名で言及され,すでに多数のスラブ人が定住していたことがわかる。当時はブルガリア人の手中にあったが,その後ビザンティン帝国ハンガリー王国が繰り返し占拠し,1284年セルビアのドラグティンDragutin王が初めてこれを得て首都とした。1319年から再びハンガリーが占領,1521年オスマン・トルコの手に落ちるまで,15世紀初頭のセルビア専制君主ステファン・ラザレビッチStefan Lazarević時代を除き,その支配下にあった。

 16世紀オスマン・トルコは新たに城を築き,大バーザール(市場)を造り,近郊のアバラ山上に監視所を設けている。16~17世紀はドゥブロブニクベネチアアルメニアなどから外来者が居留地を置き,商業都市として家屋も1万2000を数えるまでに発達した。1683年にオスマン・トルコ軍のウィーン攻略が失敗した後,オーストリア軍が一時的(1688-90)に占拠。オーストリアはさらに18世紀に入りオイゲン公の下にまたもオスマン・トルコ軍を破ると,1717-39年までベオグラードを支配して,いくつかの中欧風な建造物を今に残している。39年ベオグラード条約によってオスマン帝国がベオグラードを取り戻し,ドナウ川とサバ川の両川がオーストリアとトルコの国境と定められたことで,町は軍事的にいっそう重要性を増した。18世紀も終り近く,オーストリア軍が2度にわたりこれを奪還しようと試みたが失敗,あいつぐ戦乱のため人口が減り,商業はむしろ停滞している。

 19世紀に入るとオスマン帝国の支配とセルビア人の確執が公然化して,1804年ついにカラジョルジェに率いられる第1次セルビア蜂起が発生。06年,ベオグラードを陥れると13年まで維持した。15年ミロシュ・オブレノビッチが第2次セルビア蜂起を成功させ,徴税,司法,軍事など大幅な自治権を獲得し,ベオグラードには民族議会がおかれた。しかし,セルビアは依然としてオスマン帝国の主権下にあり,オブレノビッチは,ベオグラードからトルコ人を追放して事を荒だてるのは得策でないと考えた。ただ,いずれは首都になる都市だけにセルビア人の流入が始まり,30年代すでに住民の大部分を構成した。42年アレクサンダル・オブレノビッチはこれを首都とする。当時は市の北部を占める城にはトルコ軍司令官(パシャ)が駐屯軍とともに住み,城外の下町にはキリスト教徒が日常生活を営むという奇妙な状態だった。両者のあいだに衝突が起こることもしばしばで,62年には下町への発砲事件にまで発展している。ついに67年4月,駐屯軍はオスマン帝国スルタンの勅令を読み上げミハイロ公に市の鍵を渡す儀式を行って,撤退した。その後第1次世界大戦中はオーストリア軍,第2次大戦中はドイツ軍が一時的に占領したが,一貫してセルビア王国やユーゴスラビアの首都である。

 人口は1910年は9万,48年は37万,61年に60万と増えつづけ,さらに67年にサバ川対岸のゼムンなど周辺部を加えて百万都市となった。カレメグダン,トプチデルなどの公園,モダンな空港,三つの鉄道駅,波止場,国際見本市会場,13万人を収容するサッカー競技場,博物館,オペラ劇場(1870建設),セルビア科学アカデミー,総合大学(1863建設),議会,ノービ(新)・ベオグラードの総合庁舎,国際会議場〈サバ・センター〉と多くの公共施設があるが,歴史的建造物はさして多くない。戦後は工業の発展がめざましく,あらゆる分野にわたり,150の企業を数える。おもなものにイボ・ロラ・リバル重機械工場,ズマイ農業機械工場,ガレニカ製薬工場,ベオグラード農業コンビナートがある。ベオグラードは何度も破壊されただけに,古い建物も少なく,またまとまりを欠いた町並みで,観光の対象になりにくい。だがユーゴスラビアの政治,経済,文化,商業,工業の中心地として大いに活況を呈しており,現在あるいは将来の町というべきであろう。多くのビジネス・ホテル,商店が軒を並べるテラジエ通りや共和国広場の人ごみがそれを証明している。〈アテリェ212〉で行われる世界前衛演劇祭,世界各国が参加する書籍見本市など文化的な催物も多い。

 以前からコララッツ人民大学では日本語コースが設けられ,ときには生花の講座も開かれる。60年代に入ってからベオグラード大学でも正式に日本語講座が置かれた。映画館ではときおり日本映画特集が組まれ,黒沢明や溝口健二の作品の評価はことのほか高い。オペラ《蝶々夫人》は最も人気のあるレパートリーの一つで,砂原美智子や東敦子が客演したこともある。ともすれば工業先進国としてだけ知られてきた日本ではあるが,文化面でも徐々に紹介されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベオグラード」の意味・わかりやすい解説

ベオグラード
べおぐらーど
Beograd

セルビア共和国の首都。英語名ベルグラードBelgrade。セルビア語で「白い町」の意。サバ川がドナウ川に合流する三角地帯の標高約120メートル付近に位置する。人口157万6124(2002)。旧市街の南に新しい工業地区ジェレズニクŽeleznikがあり、またバニツァBanjicaとその周辺には近代的な住宅地が広がる。北西には、かつてドイツ人が多く住んでいたゼムンZemunがある。第二次世界大戦後サバ川左岸にノビ・ベオグラードNovi Beograd(「新ベオグラード」の意)が建設され、一部の連邦政府省庁と近代的なアパート群ができた。旧市街には連邦政府、共和国の行政庁があり、セルビア正教会の総主教座が置かれている。

 陸と川の交通の要所であり、サバ川、ドナウ川で運ばれる貨物は年間100万トン以上にのぼる。オリエント急行時代の駅やスルチンの国際空港で国内外と結ばれている。市は商工業の中心地で、150を超える企業があり、機械・器具、トラック・トラクター、ベアリング、電気器具、製糸の各工場があり、織物、食品、皮革、化学、薬品などの産業が発達している。古来バルカンの中枢としてつねに争奪の的だっただけに、町は幾度も破壊され古いものはあまり残っていない。現存する歴史的建造物はバイラクリ・モスク(17世紀末)、ドシテイのリセ(18世紀末)を除き、総主教座のあるセルビア正教会本寺であるセルビア大聖堂(1837)、国立博物館(1844)、リュビツァ公女邸(1831)、国立劇場(1863)、大学や科学・芸術アカデミーなどすべて19世紀の建物である。だがシンギドゥヌムSingidunum城塞(じょうさい)跡のカレメグダンKalemegdan公園から眺めるドナウ、サバ両大河の流れとノビ・ベオグラード(おもに住宅地)の高層ビル、パンノニア平原の広がり、聖サバ教会、聖マルコ教会、国内に散在する中世の宗教絵画コピーを展示するフレスコ画廊、郊外のアバラAvala丘上に立つメシュトロビッチMeštrovic作無名戦士の墓など、見るべきものは多い。ほかに、連邦議事堂、ショッピング街のテラジエ、ベオグラード動物園、10万人収容のサッカー競技場マラカナ・スタジアムなどがある。日本大使館はノビ・ベオグラードにある。なお、コソボ問題をめぐって1999年3月から始まったNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)軍の空爆により、中国大使館など、市内にも被害が生じた。

[田村 律]

歴史

交通の要所で軍事的にも重要な地点であるため、古来さまざまな民族が往来し、紀元前4~3世紀にケルト人がシンギドゥヌム城塞を築いたのが町の始まりである。5~6世紀には、フン人、ゴート人、アバール人などが支配したのち、スラブ人がやってきた。878年の記録に、初めてビェルグラードBjelgrad(白い町)という名が散見される。12~13世紀には、ビザンティン帝国、ハンガリー王国、ブルガリア王国がベオグラードの支配権を争った。その後セルビアが支配することになるが、1521年以後、オスマン帝国(トルコ)の領土に組み込まれ、途中三度オーストリア人が支配した短期間を除き、19世紀初頭まで占拠され続けた。1804年から13年まで第一次セルビア蜂起(ほうき)時代、30年から78年までは公国、1878年からは王国、1918年からはユーゴスラビア王国(正式名称は1929年)、1945年からはユーゴスラビア社会主義連邦共和国(正式名称は1963年、旧ユーゴスラビア)の首都。1992年からはモンテネグロとセルビア両共和国からなるユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)の、2003~06年にはセルビア・モンテネグロの首都でもあった。

[田村 律]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベオグラード」の意味・わかりやすい解説

ベオグラード
Beograd

セルビアの首都。英語ではベルグレード Belgrade。セルビア北部,ボイボディナ自治州との境界に近く,ドナウ川サバ川の合流点に位置する。古代からの重要な道路である,ウィーンから黒海に続くドナウ川沿いの道,サバ河谷を経てトリエステ,北イタリアへ通じる道,モラバ川-バルダル川の峡谷を経てエーゲ海にいたる道の三つが交わり,またボイボディナの穀倉地帯を含むパンノニア平原を見渡す軍事上,産業上の要地でもあるため,紀元前から多くの民族と国が領有権を争ってきた。ケルト,ローマ,フン,ゴート,ビザンチン,ギリシア,ブルガリア,ハンガリー,オスマン帝国,ハプスブルク帝国など,めまぐるしく支配者が入れ替わったのち,1867年にセルビア領として安定した発展を始めた。 1918年以後はセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国 (1929ユーゴスラビア王国と改称) ,1945~63年ユーゴスラビア連邦人民共和国,1963~92年ユーゴスラビア社会主義連邦共和国,1992~2003年ユーゴスラビア連邦共和国 (新ユーゴスラビア) ,2003~06年セルビア・モンテグロの首都。市街はドナウ川,サバ川の合流点を基点として南-南東へ扇状に広がり,連邦議会議事堂,ベオグラード大学 (1863創立) をはじめとする各種の行政機関,文教施設がある。カレメグダン要塞,セルビア正教会聖堂など歴史的建造物もあるが,2度の世界大戦などにより,オスマン帝国時代の名残りはほとんど失われている。商工業が盛んで,特に第2次世界大戦後の工業の発達はめざましい。機械,電機,化学,繊維,建築資材などの工業が発達し,商業では貿易面で特に重要な位置を占める。人口 163万9505(2010)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ベオグラード」の解説

ベオグラード
Beograd[セルビア],Belgrade[英]

近代セルビア王国,ユーゴスラヴィア王国,社会主義時代のユーゴスラヴィア連邦の首都,1992年に建国されたユーゴスラヴィア連邦共和国(新ユーゴ)およびこれを構成するセルビア共和国の首都。「白い町」の意味。ドナウ川とサヴァ川の合流点に位置しており,古来,交通の要衝地として発展した。前4世紀にケルト人がこの地にシンギドゥヌム要塞を建設,前1世紀にはローマ人がこれを占領した。6世紀には,ビザンツ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世が町を再興した。スラヴ人がこの町にやってきたのは7世紀。13世紀には一時,中世セルビア王国の首都とされた。16世紀にオスマン帝国の支配下に置かれたが,18世紀前半には20年ほどハプスブルク帝国の支配を受けた。ドナウ川とサヴァ川との合流点にあるカレメグダン公園はオスマン帝国支配期の要塞だが,ローマ時代の井戸やハプスブルク帝国支配期につくられた城壁の一部がみられる。セルビア公国建国直後の1834年に,わずか7000人であった人口は1900年には7万,2000年には148万に増加した。

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百科事典マイペディア 「ベオグラード」の意味・わかりやすい解説

ベオグラード

セルビアの首都。英語ではベルグラードBelgrade。町の名は〈美しい町〉の意。同国北部,ドナウ川とサバ川の合流点に近い。政治・経済の中心地で,工業都市でもある。機械,自動車,航空機,食品加工,製薬,皮革などの工業が行われる。大学(1863年創立)があり,セルビア正教会の中心地でもあるが,歴史上の度重なる破壊により古い建物はあまり残っていない。第2次大戦後,サバ川左岸に住宅地域ノビ・ベオグラードが建設された。前4世紀ケルト人により創建され,ローマ,ビザンティン,ブルガリアなどの支配を経て,16世紀以降オスマン帝国(トルコ)の支配下に入った。1878年セルビアの首都となり,1918年ユーゴスラビアの首都となった。116万6763人(2011)。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ベオグラード」の解説

ベオグラード
Beograd

ユーゴスラヴィアの首都
「白い町」の意味。サバ川とドナウ川の合流点に位置する交通の要衝。ローマ時代にはシンギドゥヌムと呼ばれ,その後多くの異民族支配の時代を経て,セルビア人が支配。オスマン帝国とオーストリアとの争奪の地となり,1878年にはセルビア王国の首都となる。また,第一次世界大戦後は旧ユーゴスラヴィアの,1992年以後は新ユーゴスラヴィアの首都である。

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