改訂新版 世界大百科事典 「ベネディクト会」の意味・わかりやすい解説
ベネディクト会 (ベネディクトかい)
Benedictine Order
Ordo Sancti Benedicti[ラテン]
ヌルシアのベネディクトゥスがモンテ・カッシノで創始した共住制修道会,および彼の妹スコラスティカScholasticaを中心として結成された女子修道会。広義には540年ころからベネディクトゥスが執筆した〈会則〉を採用するすべての修道会の総称。5,6世紀のみぎりイタリアはゲルマン諸王国興亡のさなかにあって政治・経済的荒廃がはなはだしかったが,同時に精神的更生を求める気運も盛んで,あらゆる社会階層から修道士志願者が続出していた。ベネディクトゥスはこれらの人々を集めて〈天主に奉仕する学校〉を創立しようと試み,ローマ法や〈レグラ・マギストリRegula magistri〉(6世紀初頭に起草された筆者不明の修道院規則)などを参照しつつ,個人的体験をもとに独自の中庸を得た修道生活の原則を樹立し,修道院長を父とする家庭としての組織をあみだした。この会則はやがて西欧修道制の一つの典型となり,アイルランド系の戒律と競合して8世紀以降圧倒的な影響力を示すことになる。
その特色は修道士の定住を厳しく義務づけ,典礼的祈禱(オプス・デイ)と修徳を天職と定め,これに知的訓練(読書,著述),手仕事(写本製作およびその彩飾)や農作業などの労働時間を加味した日課を励行するところにあった。また修道士が司祭に叙階され教区民の司牧にあたる慣例も作られた。ベネディクトゥスの伝記を書いた教皇グレゴリウス1世がイングランド初布教(596)に派遣したカンタベリーのアウグスティヌスは同会の修道士であり,司教(大司教)に叙階されている。修道院の物的基盤は西欧諸国に共通した封建制大土地所有にあり,不入権特権つき封土授与や寄進などで獲得した所領に荘園風の共同体を経営して経済的に自立していた。アニヤンのベネディクトはピピン,シャルルマーニュ,ルイと3代のフランク王に仕え,カロリング朝支配下の全国にわたり修道会の統一と改革を遂行し,大修道院長の権限下に中央集権的組織網を確立した。イタリアのボッビオ,イングランドのジャロー,ドイツのコルバイ,ザンクト・ガレン,フランスのコルビーなど著名な修道院を筆頭に,12世紀初頭の最盛期には2000余ヵ所の聖域を数えた。特に10世紀初頭フランスのクリュニー修道院の改革運動(世俗権力の介入排除)以後,改革派ベネディクト会の発展はめざましく,〈黒衣の修道士〉の活動は西欧中世の精神史上の一大偉観を呈した。
執筆者:橋口 倫介
美術
〈会則〉は修道士の祈禱と労働を義務と定めているが,労働は神の賛美の準備としてあるため,修道院内には写本所(写字所)や各種の工房が設けられた。7世紀初めに当会則を併用した,アイルランド出身の伝道者コルンバヌスと弟子たちの創建になる諸修道院は,ロンバルディアを経由して入って来た東方のモティーフやグレート・ブリテン諸島の伝統的装飾を継承する写本画を大陸で開花させた(リュクスイユ,エヒテルナハ,コルビー)。続いてカロリング朝の古典主義的で華麗な写本画(カロリング朝美術)は,宮廷の工房から同会修道院を通じて広まる。また,象牙や貴金属細工による典礼用祭具も盛んに作られた。クリュニー修道院の改革運動以降,12世紀に同修道会は最盛期を迎え,ロマネスク様式の彫刻や壁画が競って〈神の家〉を飾った(行過ぎに反対して,シトー会は質素さに徹した)。建築では,聖人崇敬が盛んになったため祭壇の数が増し,その間を巡回する典礼上の必要に応えて,主アプスの左右に小アプスを段々に配する,いわゆる〈ベネディクト会式プラン〉が生まれた(クリュニー第2聖堂)が,その使用はベネディクト会以外にも例をみる。放射状にアプス群を配するプランも多い。同会はゴシック建築構造の使用および発展においても積極的であった。19世紀の再興以後は,〈聖なる美術〉の制作(ボイロンBeuron修道院)や荒廃した修道院の修復などに活躍した。
執筆者:五十嵐 ミドリ
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報