日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベルガ」の意味・わかりやすい解説
ベルガ
べるが
Giovanni Verga
(1840―1922)
イタリアの小説家、劇作家。シチリア島エトナ火山の麓(ふもと)にある古くからの海港、カターニアに生まれる。父方はカターニアから南西へ約50キロメートル内陸に入った町ビッズィーニの貴族の出身であり、母方はカターニア市の富裕な旧家の出であった。父方の祖父は政治秘密結社カルボナリ党の地方有力者でもあり、一家には自由な気風が流れていた。ベルガの青春は、イタリアの近代国家統一の激動期と重なり合う。適当な教育機関がなかったために、遠い親戚(しんせき)筋にあたる在俗司祭アントーニオ・アバーデに中等教育を受けた。熱狂的な愛国者であり詩人でもあったこの師の影響を強く受けて、ベルガは15歳のときに早くも処女作『愛と祖国』を書いた。しかしこの長編小説は、後年、数章が発表されただけで、未刊に終わった。1858年にはカターニア大学に入り法学部に籍を置いたが、おりからガリバルディの遠征隊がシチリア島に上陸したため、その愛国的行動に共鳴して、国家防衛隊に参加し、政治と文学の週刊紙『イタリア人のローマ』を創刊した。1861~1862年には歴史小説『山のカルボナリ党』を書き、翌1863年にはフィレンツェの雑誌『ラ・ヌオーバ・エウローパ』に小説『干潟の上で』を連載した。これらの初期三部作はいずれもイタリア独立運動にまつわる物語を扱っている。しかしながらイタリア近代国家の成立は、その達成と同時に、シチリアを周縁の地域に押し込めてしまった。ベルガは中央の文学界に出て名をあげようと考え、地方生活の不満もあって、1865年に当時イタリアの首都であったフィレンツェに赴き、文学サロンに出入りして、感傷的な作品『罪ある女』(1866)や『山雀(やまがら)物語』(1871)を、また1872年にはミラノに移って『エーバ』(1873)、『王の虎(とら)』『エロス』(ともに1875)などのロマン主義的な作品を次々と発表して、流行作家になった。前衛芸術家集団スカピリアトゥーラの運動にも参加した。
[河島英昭]
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けれども転機は1874年に訪れた。「シチリアのスケッチ」という副題をつけた小冊子『ネッダ』(1874)は、斬新(ざんしん)な目で故郷シチリアをとらえ返し、新しい文学の地平を切り開いた。近代国家のひずみを受けて、極貧の生活にあえぐ零細農民、羊飼い、漁民、鉱山労働者など、社会の最下層の人々が描き出された。短編集『田園生活』(1880)、『田園小説集』(1883)、長編『マラボリア家の人びと』(1881)、『マストロ・ドン・ジェズアルド』(1889)などは、従来のイタリア文学の修辞的伝統を打ち破り、没我の視点から、原始的本能のままに行動する貧しく無知なシチリア人と、古代ギリシア世界を思わせる特異な風土とを描いて、新しいリアリズムの文学をイタリアに確立した。これは真実主義(ベリズモ)と名づけられ、民衆を歴史と社会のうちに真に位置づける態度から、パベーゼやビットリーニのネオレアリズモ文学に引き継がれ、現代イタリア文学の源流をなすに至った。なお、ベルガの作品をキリスト以前の、反近代文明という視点から評価し、深い共感を込めて小説の英訳と論評とを行った文学者にD・H・ローレンスがいる。
[河島英昭]
『河島英昭訳『ネッダ』(『カヴァレリーア・ルスティカーナ他』所収・岩波文庫)』