ビットリーニ(読み)びっとりーに(英語表記)Elio Vittorini

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビットリーニ」の意味・わかりやすい解説

ビットリーニ
びっとりーに
Elio Vittorini
(1908―1966)

イタリアの小説家。シチリア島に鉄道員の子として生まれる。中等教育しか受けられなかったが早くからさまざまの文学作品を読む。16歳のとき家出をして北イタリアに移住、建設会社で会計士として働いたが、その経験は短編集『プチブルジョアジー』(1931)に描かれている。また、フィレンツェではいっしょに働いていた印刷工から英語を学び、膨大な英米文学の文献読破、翻訳紹介も行った。1929年から反ファシズム系文芸誌の『ソラーリア』の編集に携わり、33年から同誌に長編『赤いカーネーション』(完全版1949刊)の連載を始めたが、ファシズム当局の検閲により中断。36年、長編『エリヤとその兄弟』(未完、1956刊)にとりかかり、ミラノを舞台にブルジョアジーに圧迫されたエチオピア侵略戦争下の労働者の悲惨な現実を、寓話(ぐうわ)的手法で書き進めたが、スペイン内戦勃発(ぼっぱつ)に衝撃を受け、長編『シチリアでの会話』(1941)を発表した。これは叙事=叙情の手法を駆使した暗喩(あんゆ)に満ちた作品で、パベーゼの『故郷』(1941)とともにネオレアリズモ文学の出発点となった。また、モンターレチェッキ、パベーゼらとアメリカ文学の翻訳をまとめて画期的なアンソロジーアメリカーナ』(1942)を編んだが、これも当局に忌避され、ビットリーニの解説は削除された。

 1943年9月、すでに獄中にあったビットリーニは、休戦協定を機にミラノ刑務所を脱出、45年4月の解放まで地下抵抗組織に加わり、共産党と連帯して重要な役割を果たし、パルチザン闘争の渦中にありながら、その激しい体験を前衛的手法で、長編『人と人にあらざるもの』(1945)を書き上げた。また、解放直後にフランスにおけるサルトルの『レ・タン・モデルヌ』誌と呼応してエイナウディ社に拠(よ)り『ポリテークニコ』誌(1945~47)を発刊、戦後イタリア社会の文化運動の立役者となった。しかし、政治と文化をめぐるトリアッティとの論争で共産党と対立、文化運動から一歩退くと同時により強固な地歩を文学に置き、「ジェットーニ双書」(1951~59)を編み、戦後の重要な作家のほとんどを世に送った。『メナボ』誌(1959~67)と自選論集『公開日記』(1957)は、彼を知るための基本的文献である。

[河島英昭]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ビットリーニ」の意味・わかりやすい解説

ビットリーニ
Vittorini, Elio

[生]1908.7.23. シラクサ
[没]1966.2.12. ミラノ
イタリアの小説家,批評家。第2次世界大戦後のいわゆるネオレアリズモ文学の立役者。大戦中は反ファシズム活動のため 1943年7月に逮捕されたが,釈放後さらに活発に地下抵抗運動に参加。解放直後の 45年から 47年まで雑誌『ポリテクニコ』 Politecnicoを主宰,新しい文化運動を展開。エイナウディ社に拠って「ジェットーニ双書」I gettoniを編んで新人作家の発見と育成にあたった。また 59年からカルビーノと共編で年刊文芸誌『メナボー』 Il menabòを発刊,9号まで出して病没した。同 10号 (1967) はビットリーニ追悼号にあてられた。主著『シチリアでの会話』 Conversazione in Sicilia (41) ,『人と人にあらざるもの』 Uomini e no (45) ,『赤いカーネーション』 Il garofano rosso (48) ,『メッシナの女たち』 Le donne di Messina (49) ,『公開日記』 Diario in pubblico (57) ,『二つの緊張』 Le due tensioni (67) ,『世界の諸都市』 Le città del mondo (69) 。

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