字義通りには〈新しいリアリズム〉を意味するイタリア語で,文学史的にはふつう,反ファシズム闘争を題材にした第2次大戦後のイタリア文学を総称していう。ただし,ファシズム政権に不従順な小説を発表したことからモラビアの《無関心な人びと》(1929)に,また,労働者の反権力意識の目ざめを描いたことからベルナーリCarlo Bernari(1909-92)の《三人の工員》(1934)に,ネオレアリズモの起源を求めようとする批評家もいる。また戦後におびただしい数の反ファシズム闘争体験談が出版され,これらを一括してネオレアリズモと呼ぶ向きもある。
しかし,このような題材中心の記録文学が1950年代の後半に入ってもなおとどまるところなく発表されつづけ,戦後社会がいわゆる奇跡の復興によって新資本主義体制を確立していくなかでは,ネオレアリズモへの批判と反省も起こった。その結果,文学的には次のようにいうことができるであろう。第1に,ネオレアリズモが〈責務の文学〉であること。第2に,思想的にも文学手法上も,パベーゼの長編小説《故郷》(1941)とビットリーニの同じく長編小説《シチリアでの会話》(1941)とを出発点にしていること。第3に,これら2作品が19世紀シチリアの小説家ベルガの文学を受け継ぎ,これを詩的散文に展開させたこと(したがって,ネオレアリズモは新しいイタリアのリアリズム(すなわち新しいベリズモ)を意味している)。また,第4に,パベーゼもビットリーニもアメリカ文学の影響を強く受けていること。
約言すれば,ネオレアリズモは,1940年代から50年代にかけて社会的責務を果たし,叙事・抒情の手法を目ざした文学であり,代表的な小説家としてはパベーゼ,ビットリーニのほかに,カルビーノ,フェノリオ,ビレンキRomano Bilenchi(1909-89),プラトリーニ,カッソーラ,ヨービネらの名を挙げることができよう。また,詩人としては,59年度ノーベル賞を受賞したクアジモドやフォルティーニなどの名を逃すわけにはいかない。一方,最初に述べたように,反ファシズム闘争の題材を中心に考えた場合には,モラビアやベルナーリと並んでアルバーロやレーアDomenico Rea(1921-94)が,あるいはモランテやP.レービが,あるいはまたバッサーニ,ランドルフィ,パゾリーニらの名前もネオレアリズモの列に加えられることになろう。
第2次大戦後の日本における現代イタリア文学の翻訳・紹介は,戦前・戦中におけるデレッダやピランデロ(両者とも1926年と1934年にノーベル文学賞を受賞)の場合と様変りして,モラビア,ベルト,C.レービ,シローネ,あるいは反ファシズム闘争の記録類が,ネオレアリズモの漠然とした標語のもとになされた。しかし,パベーゼの作品の大半とビットリーニの作品の大部分が未紹介である現状では,ネオレアリズモの実体はほとんど理解されていないといっても過言ではない。
→反ファシズム →ベリズモ
執筆者:河島 英昭
第2次大戦後のイタリア映画の流れの出発点となると同時に,世界の映画の流れを変えた作品群とその映画現象を総称していう。
戦後のイタリアでは,ナチス・ドイツ軍の過酷な弾圧に対する抵抗運動や貧困と生活苦などをテーマにした数々のイタリア映画の傑作が生まれた。ロベルト・ロッセリーニ監督《無防備都市》(1945),《戦火のかなた》(1946),ビットリオ・デ・シーカ監督《靴みがき》(1947),《自転車泥棒》(1948),ルキノ・ビスコンティ監督《揺れる大地》(1948),等々である。これらの作品に共通する現実告発の厳しい態度ときわめてドキュメンタリー的な撮影方法,主人公は貧しく,主としてしろうとを使い,ロケを主体とする現場主義,即興的演出(同時録音はせずに,せりふもすべてアフレコだった),生きたスラングや方言の採用,さらにクローズアップを少なく,ロング・ショットを多用したこと等々に対して,人々は新しいリアリズムの誕生という意味で〈ネオレアリズモ〉と呼んだ。なおアメリカではこれを〈イタリアン・リアリズム〉ともいった。
〈ネオレアリズモ〉の創始者は前記のロッセリーニ,デ・シーカ,ビスコンティの3人とされ,その周辺に,《陽はまた昇る》(1946)のアルド・ベルガノ,《無法者の掟》(1949)のピエトロ・ジェルミPietro Germi(1914-74),《ポー河の水車小屋》(1949)のアルベルト・ラットゥアーダAlberto Lattuada(1914-2005),《荒野の抱擁》(1947)のジュゼッペ・デ・サンティス,《平和に生きる》(1946)のルイジ・ザンパLuigi Zampa(1905-91)などがいる。ミケランジェロ・アントニオーニ,フェデリコ・フェリーニらはこの後の世代になる。
〈ネオレアリズモ〉は明確な芸術的マニフェストをもつ映画運動ではなく,同時代の映画作家たちに共通したリアルで鋭い状況認識の下に自然発生的に生まれたものであり,そうして生まれた作品群が今度は逆に一つの運動体として映画作家たちにによって認識され,意図的な方向が探求されはじめたものであった。しかし,映画史的にみると,その下準備はすでに戦前からなされていたということができる。
サイレント時代のスペクタクル史劇の全盛期に,早くも,イタリア文学のベリズモ(真実主義)の影響を濃く受けた作品の流れがあった。ニーノ・マルトリオ監督《闇に落ちた人々》(1914)とグスタボ・セレナ監督《アッスンタ・スピーナ》(1915)がその流れの代表作で,イタリアの映画作家でこの2作品の洗礼を受けなかった者はいないといわれる。この2作品はイタリアの国立映画学校である〈映画実験センターCentro Sperimentare di Cinematografia〉(通称〈チェントロCentro〉)のすぐれた教材となり,ここに〈ネオレアリズモ〉の根があるということもできる。ファシスト政権下でイタリア映画そのものが衰退した時代にも,この流れはアレッサンドロ・ブラゼッティ監督《1860年》(1933)やマリオ・カメリーニ監督《殿方は噓つき》(1932)に引き継がれていく。
チェントロは1935年に〈映画の芸術的・科学的発展に貢献する若き学徒の育成のために〉創立されたが,本来はファシズム映画製作の学習場であったのを,ルイジ・キアリーニとウンベルト・バルバロという2人の映画理論家の積極的な指導によって,戦時下を通じて,のちに〈知的青年の自由港〉といわれたほど自由な映画教育の場としたのであった。ロシアの社会主義リアリズムやフランスの〈詩的リアリズム〉の映画など,当時禁制の作品も,ここでは学問の名の下に学ばれたのであった。とくにバルバロは新しいリアリズムの必要性を教え,〈ネオレアリズモ〉の命名者もバルバロであるとの説もある。少なくとも,バルバロが教えたこのチェントロから,のちの〈ネオレアリズモ〉の実践者たちが多く生まれた。戦争末期の42年にその先駆的作品とみなされるアレッサンドロ・ブラゼッティAlessandro Blasetti(1900-87)監督《雲の中の散歩》,デ・シーカ監督《子供たちは見ている》,ビスコンティ監督《郵便配達は二度ベルを鳴らす》の3本が作られた。ここから真の〈ネオレアリズモ〉が生まれたといえよう。
50年代に入ると,イタリア経済の復興とともに,〈ネオレアリズモ〉も分化混迷の時期に入る。それは,《神の道化師・フランチェスコ》(1949)を基軸にしたロッセリーニの〈宗教的救済への旋回〉から始まり,フェリーニの《道》(1954)に受け継がれて〈象徴的ネオレアリズモ〉に至る形をとった。あるいはまた,ミケランジェロ・アントニオーニMichelangelo Antonioni(1912- )は処女作《ある愛の記録》(1950)から《情事》(1960)に至る流れのなかで〈内的レアリズモ〉を完成する。ビスコンティは《夏の嵐》(1954)で〈ネオレアリズモ〉からリアリズムへの道に移行する。デ・シーカもまた,コンビを組んでいたシナリオライターのチェーザレ・ザバッティーニとともに,《ミラノの奇蹟》(1950)で〈空想的ネオレアリズモ〉と呼ばれ,以後,ザバッティーニは〈完全なるネオレアリズモ〉を主張してその理論の完成に努めることになる。こうした50年代の分化混迷を経て,〈ネオレアリズモ〉は発展的に解消したと見るべきであり,60年代以降に輩出した映画作家たちは多かれ少なかれ〈ネオレアリズモ〉の影響を受けながらも,それぞれ独自の方法を模索し,独自の方向を歩んでいく。しかし,《父,パードレ・パドローネ》(1977)のタビアーニ兄弟の例に端的に見られるように,現代イタリア映画の基底に〈ネオレアリズモ〉の影響がぬぐいがたく存在することは否定しえない事実である。
→イタリア映画
執筆者:吉村 信次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1940年代から1950年代末にかけてイタリア文学・映画において支配的であった潮流、傾向を示すことば。字義的には「新しいリアリズム」の意。レジスタンス=解放戦争によってファシズムを倒し、君主制を廃止して共和国として生まれ変わったイタリアの「新しい現実」の芸術的表現がネオレアリズモであった。
[古賀弘人]
作品、文学活動を現実の社会との緊張関係においてとらえ、文学の果たすべき役割、作家の負う責務を鋭く問うたことが最大の特徴であった。各地方、とりわけ、貧しい南部イタリアの問題を真正面から取り上げた小説が数多く生まれたこと、方言の多用といった言語面の変革も見逃すことはできない。ファシズム下の窒息した文学状況にあってネオレアリズモの土壌となったのは、イタリア固有のリアリズムであったベルガの「ベリズモ」と、パベーゼやビットリーニらが翻訳、紹介に力を尽くした新興のアメリカ文学の活力であった。
具体的な作品としては、ネオレアリズモの先駆と目されるパベーゼの『故郷』とビットリーニの『シチリアでの対話』(ともに1941年刊)のほか、レービの『キリストはエボリにとどまりぬ』(1945)、カルビーノ『蜘蛛(くも)の巣の小道』(1947)、プラトリーニ『貧しい恋人たち』(1947)、『メテッロ』(1955)、ヨービネ『秘蹟(ひせき)の地』(1950)、フェノッリオ『アルバ市の23日間』(1952)などがあり、後続のカッソーラ、バッサーニ、パゾリーニらの初期作品も含まれる。詩ではクアジーモドの一連の抵抗詩、雑誌では『ポリテクニコ』(1945~1947)、叢書(そうしょ)では「ジェットーニ」叢書(1951~1958)の功績が大であり、最後に、狭義の文学作品ではないが、イタリア・ネオレアリズモの精神のありかを喚起するものとして、抵抗運動の刑死者の残した書簡を集めた『イタリア抵抗運動の遺書』とグラムシの『獄中ノート』の重要性はいかに強調してもしすぎることはない。
[古賀弘人]
一方、第二次世界大戦末期から大戦後にかけてイタリアに新しい傾向の映画が生まれ、世界各国に新鮮な衝撃を与えた。現実を凝視するカメラが特長となっており、素人俳優の採用やロケーション撮影によるドキュメンタリー的要素が強い画期的な手法で、テーマは社会的なものが多く、強いヒューマニズムで訴えた。これら初期のネオレアリズモ映画の代表的作品に、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』(1945)、『戦火のかなた』(1946)、ビットリオ・デ・シーカの『靴みがき』(1946)、『自転車泥棒』(1948)、ルキーノ・ビスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1942)、『揺れる大地』(1948)、ピエトロ・ジェルミの『無法者の掟(おきて)』(1949)などがあり、デ・シーカの『ウンベルトD』(1952)は、深刻化する老人問題の予見的作品。脚本家で理論家のチェーザレ・ザバッティーニCesare Zavattini(1902―1989)も重要な役割を果たし、ミケランジェロ・アントニオーニ、フェデリコ・フェリーニらもここから育っていった。当時、ハリウッドの大スターであったイングリッド・バーグマンはロッセリーニのもとへ走り『ストロンボリ』(1950)に主演。これらネオレアリズモの映画は、同じ敗戦国の日本人批評家や観客へも感銘を与えて、論壇では「リアリズム」をめぐる議論が活発化した。一方、フランスでは映画批評家アンドレ・バザンがネオレアリズモを高く評価して、ヌーベル・バーグら若い世代に大きな影響を与えた。
[岩本憲児]
『今村太平著『イタリア映画――そのネオ・リアリズム』(1953・早川書房)』▽『アンドレ・バザン著、小海永二訳『映画とは何かⅢ 現実の美学・ネオ=リアリズム』(1973・美術出版社)』▽『柳澤一博著『イタリア映画を読む』(2001・フィルムアート社)』
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…ここでは,後者を中心に記述する。戦後のイタリア映画については〈ネオレアリズモ〉の項目を参照。
[史劇ブームと黄金時代]
イタリア映画は世界の映画史でもっとも早く,1909年から16年ころまでに黄金時代を迎えた。…
…そして真にファシズムに対抗する小説は,1941年に発表された,C.パベーゼの《故郷》とE.ビットリーニの《シチリアでの会話》に始まると断じてよい(反ファシズム)。戦後イタリア文学の主流となった〈ネオレアリズモ〉文学はこの2作品を出発点としている。そしてこの2作に共通する特徴は,第1に反ファシズムの思想,第2にベルガの影響,第3に〈叙事・抒情〉の文体を用いたことにある。…
…クアジモドは,シチリア島が古代ギリシアの植民市であったころからの詩的伝統を復活させ,同時に古来,アラブ,ノルマン,スペイン,フランスなど,外国勢力の圧政下に苦しんできたシチリア民衆の感情をこめて,ファシズムに激しく抵抗する抒情詩をうたいあげた。一方,ビットリーニは,ファシズム政権下に苦しむ民衆の姿を《シチリアでの会話》(1941)に描いて,パベーゼと並び〈ネオレアリズモ〉文学の立役者となった。そして現代イタリア文学の背骨をなすビットリーニ,パベーゼ,クアジモドらの文学は,いずれもその基盤にベルガの作品を置いている。…
…イタリアの映画監督。第2次世界大戦後,《靴みがき》(1947),《自転車泥棒》(1948)の2作でロベルト・ロッセリーニと並ぶ〈ネオレアリズモ〉の最大の監督となった。《子供たちは見ている》(1942)から《ミラノの奇蹟》(1950),《ウンベルト・D》(1952),《終着駅》(1953),《ふたりの女》(1960)等々に至る代表作のすべてが脚本家のチェーザレ・サバティーニとコンビを組んだもので,サバティーニの主張した〈日常性のネオレアリズモ〉はむしろデ・シーカとの共同作業によって形成されていったものとみなすことができる。…
…1947年製作のイタリア映画。《無防備都市》(1945),《戦火のかなた》(1946)と戦争三部作をなす〈ネオレアリズモ〉の巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督作品。1946年に9歳で死亡した長男ロマーノにささげられ,冒頭に,イデオロギーというものは人間生活の基礎を形成する道徳とキリスト教の愛の永遠の戒律から逸脱すれば狂気となるにちがいない,という意味のエピグラフ・タイトルがあるとおり,廃墟と化した第2次世界大戦直後のベルリンを舞台に,ナチのイデオロギーの〈背徳的〉影響を受けた15歳の少年が,病弱な父を毒殺したあげく自殺するいきさつを描く。…
…イタリアの映画監督。〈ネオレアリズモ〉から出て〈ネオレアリズモ〉を変革した重要な監督として知られる。彼の名は《無防備都市》(1945)をはじめとするロベルト・ロッセリーニ監督作品からピエトロ・ジェルミ監督《無法者の掟》(1949),《越境者》(1950)などに至る〈ネオレアリズモ〉の創造的な時代のシナリオライターとして早くから注目されており,〈ネオレアリズモ〉を生み出し,支えてきた重要な担い手の一人として認められていたが,その名声を世界的にした監督第5作《道》(1954。…
…1945年製作のイタリア映画。イタリア映画のルネサンスを告げるとともに,〈ネオレアリズモ〉の記念碑的な第1作として知られるロベルト・ロッセリーニ監督のレジスタンス映画の名作。そもそもはナチス占領下のローマでレジスタンス運動に挺身し,ドイツ軍に捕えられて銃殺されたドン・モロシーニ神父の記録映画が出発点であったが,レジスタンスの闘士をまじえた討論からシナリオをふくらませ(なお,セルジオ・アミディとともにシナリオの執筆に参加した当時24歳のフェデリコ・フェリーニは,この作品から映画にかかわりはじめた),〈事実の再現〉に徹した劇映画をつくることになった。…
…イタリア人名としては正しくはデ・ラウレンティス。〈ネオレアリズモ〉を支えたプロデューサーの一人で,女優のシルバーナ・マンガーノSilvana Mangano(1930‐89)を育て,〈イタリア映画のキング〉として国際的に知られ,のちにはアメリカ映画界に進出して数々の大作を生み出している。ローマの〈チェントロ・スペリメンターレ・ディ・チネマトグラフィア(映画実験センター)〉を出て,第2次世界大戦で兵役に服したのち,〈ネオレアリズモ〉にエロティシズムを加味したジュゼッペ・デ・サンティスGiuseppe De Santis監督の《苦い米》(1948)を製作して国際的にヒットさせ,ヒロインを演じた〈肉体女優〉シルバーナ・マンガーノを売り出した(そして彼女とは1949年に結婚した)。…
…イタリアの映画監督。第2次世界大戦直後に《無防備都市》(1945)を発表して,イタリア映画の復興とともに〈ネオレアリズモ〉の誕生を世界に高らかに告げ,次いで翌年発表した《戦火のかなた》(1946)によって,レジスタンスを母胎とする〈ネオレアリズモ〉の創始者の一人としての確かな名声を得た。この2作品と廃墟のベルリンを舞台にした《ドイツ零年》(1947)は,ロッセリーニの〈戦争三部作〉としてよく知られた作品である。…
※「ネオレアリズモ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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