イタリアの画家。ティントレットと並ぶ16世紀後半のベネチア最大の巨匠。本名パオロ・カリアリPaolo Caliari。ベローナで石工の子として生まれ,このため〈ベロネーゼ〉(〈ベローナの人〉の意)と通称される。地元の無名画家バディーレG.A.Badileのもとで修業し,ジュリオ・ロマーノやパルミジャニーノ等のマニエリスム画家の影響を受けて画風を形成。カステルフランコ近郊のソランツォ荘の装飾(1551)などに携わった後,53年にベネチアに移り,パラッツォ・ドゥカーレの〈十人評議会広間〉の天井装飾に参加。56-57年にはサン・マルコ図書館の天井画を描き,55年以後約15年間にわたって断続的にサン・セバスティアーノ教会の聖具室や身廊天井その他の装飾(《エステルの生涯》《セバスティアヌスの生涯》)にかかわる。ベネチアではとくにティツィアーノから大きな影響を受け,またパラディオやサンソビーノ等の同時代の古典主義建築を研究して自己の絵画空間の中に導入し,堂々たる古典的風格とモニュメンタリティー,演劇的雄弁性をそなえた色彩豊かな大様式を確立する。61年ころマゼールMaserのバルバロ荘(パラディオ設計)の室内装飾において,建築空間とトロンプ・ルイユ(目だまし)的な絵画空間との親密で舞台的効果豊かな融合を実現して画歴の一頂点をしるし,62年にはベネチアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の修道院食堂に大作《カナの饗宴》(ルーブル美術館)を描く。壮麗な開放的建築空間を舞台に,同時代の風俗味豊かな官能的で英雄的な人物が賑々しく集うこの種の〈饗宴図〉は彼の代表的ジャンルの一つになるが,宗教的主題をあまりに世俗化したため,73年の《レビ家の饗宴》では宗教裁判所の喚問を受けた。晩年も制作は衰えを知らず,パラッツォ・ドゥカーレの謁見室の天井画(《ベネチアと諸徳の寓意》,1575-77)や大評議会場の天井画(《ベネチアの勝利》,1583),皇帝ルドルフ2世のための4点の《愛のアレゴリー》(1580ころ)等の傑作を生む。ティントレットと同様,家族工房(弟ベネデットや息子ガブリエーレ,カルロ等と協働)を擁して大量の作品注文に応じたが,後継者には恵まれなかった。しかし,彼の芸術はベネチアのバロック様式の源泉として,フランドルのルーベンスからティエポロまで広範で持続的な影響力を及ぼした。
執筆者:森田 義之
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イタリア、ルネサンス期、ベネチア派の画家。本名Paolo Caliari。ベローナ生まれなので、「ベローナ人」つまりベロネーゼとよばれた。父親は彫刻家であったが、画家アントニオ・バディーレのもとで学ぶ。ベネチアに移住した1553年ごろにはすでに画家として有名で、パラッツォ・ドゥカーレの十人委員会室の天井画を依頼されている。55年からサン・セバスティアーノ聖堂のために多くの大作を描き、明るい光と暖色系の色彩、また巧みな仰視法を駆使して、ティツィアーノやティントレットと並んで典型的なベネチア派絵画を確立した。60年にローマを訪れたのち、建築家パラディオに協力して、マゼールのビラ・バルバロにフレスコ壁画を制作、ベロネーゼの装飾的感覚がよく発揮された作品である。また『シモン家の晩餐(ばんさん)』(1573以前、ルーブル美術館。および1560ころ、トリノ市立美術館)、『聖グレゴリオの饗宴(きょうえん)』(1572、ビチェンツァ、サントゥアーリオ・ディ・モンテ・ベリコ)、『カナの婚礼』(1562~63、ルーブル)など、宗教に題材をとった豪華な饗宴図を描いたことでも名高いが、『レビ家の晩餐』(ベネチア・アカデミア美術館)には道化や酔漢までが描き込まれ、あまりに世俗的であるとして当時の宗教裁判所から糾弾されたこともあった(1573)。しかし、いずれもパラディオの建築を思わせる明快で雄壮な列柱の並ぶ空間に、豪華な衣装をまとった豊満な男女が、野外劇のような華やいだ気分で描かれており、当時のベネチアの貴族社会を映した風俗絵巻であると同時に、バロックの先駆的画風をも示している。このほか神話画や歴史画をも多数描いているが、晩年はベネチアのパラッツォ・ドゥカーレで多くの仕事に従事、とくに大評議員会室の天井画『ベネチアの勝利』(1583ころ)が有名である。88年4月19日(推定)ベネチアで没した。
[篠塚二三男]
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…そうした中でカンピV.Campiなどのロンバルディアの地方画家たちは,果物売りなどの世俗的主題(とはいっても,こうした絵には〈豊饒〉の寓意もある)をのびやかに描いていた。他方,ベロネーゼは《レビ家の饗宴》(1573)で,華やかな饗宴,道化,酔漢,犬など主題に直接関係のない〈風俗的要素〉で画面を賑わしたため,異端審問所の召喚を受け,題名の変更を余儀なくされた。 北方ではH.ボスが《手品師》で騙(だま)されやすい人間,《阿呆船》で快楽にふける聖職者への風刺(つまり中世的な教訓)をこめながらも,宗教的枠組みから主題を解放した。…
…フィレンツェにおいては建築,彫刻,絵画が相互に有機的な関連をもって発展し,むしろ前二者が絵画を主導したのに対し,ルネサンス期ベネチアの美術の最も重要な特徴は,わずかな例外(建築のコドゥッチM.Coducciや彫刻のリッツォA.Rizzo等)を除いて,もっぱら絵画の分野において独自の発展と豊饒な歴史的成果の達成が見られたことであろう。ベネチア派はしたがって絵画的流派であり,またその代表的な芸術家(ジョバンニ・ベリーニからジョルジョーネ,ティツィアーノ,ティントレット,ベロネーゼまで)もフィレンツェ派の知的理論的で多能な天才たち(アルベルティからレオナルド・ダ・ビンチ,ミケランジェロまで)とはまったく異なり,もっぱら感覚本位の専業画家であった。 ベネチア派の〈絵画的〉特性はさらに絵画自体の特質をも規定している。…
…フランドルのP.ブリューゲル(父)は,世界と人間に対するシニカルな見解とその世界像をアレゴリーによって表す複雑な主題性において,この潮流の中に加えられよう。第3の傾向は,主としてベネチアに繁栄した独自の絵画であり,ティツィアーノ,ベロネーゼ,ティントレットがこれを代表する。ティツィアーノとマニエリスムとの関係は論議中であるが,彼の作品は16世紀の半ばをすぎるにつれて宗教的情熱が強烈となり,自由なタッチによる大胆な絵画的表現が強まるとはいえ,最後まで合理性と自然らしさの枠を超えることのなかったことからみて,むしろ〈プレ(先期)・バロック〉的傾向とみるほうがふさわしい。…
※「ベロネーゼ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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