フランスの詩人、劇作家、思想家。オルレアンに生まれる。生後数か月で指物師の父を失い、椅子(いす)直し職人の母と祖母に育てられる。彼はこの幼年時代を懐かしみ、終生民衆の子を自負した。パリに出て高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)に入学、まもなく先輩ジョレスの影響で社会主義活動に専念。ドレフュス事件では、正義と真実を求める再審派として熱烈に戦うが、のちに『われらの青春』(1910)で「すべてはミスティックに始まりポリティックに終わる」と慨嘆するように、同志の政治的妥協に幻滅し、あくまでミスティックを貫く真実で自由な発言の場を確立するために、1900年『半月手帖(はんげつてちょう)』Cahiers de la Quinzaine誌を創刊。同誌は幾多の危機を克服してペギーの戦死まで刊行された。彼はこれを自作の発表機関とすると同時に、ロマン・ロラン、シュアレス、タロー兄弟らに作品公表の場として提供し、20世紀初頭のフランス文学に大きな貢献を果たした。
彼はベルクソンの講義を聴講して反知性主義、生への信仰などの思想的影響を受け、ソルボンヌ大学教授たちの固陋(ころう)な実証主義を厳しく批判した。またドイツの脅威を警告して好戦的な愛国心を鼓吹し、旧友ジョレスらの平和主義と対立、さらに近代社会の唯物論的傾向を告発し、民衆の連帯と共和主義を主唱した。1908年ころカトリックに回心、1910年ころから神秘主義的詩人となる。処女作『ジャンヌ・ダルク』(1897)を深化した自由詩形の『ジャンヌ・ダルクの愛徳の神秘劇』(1910)とそれに続く神秘劇には、精神性(スピリチュエル)(永遠)が肉身性(シャルネル)(現世性(タンポレル))に挿入される託身(アンカルナシオン)の秘義が歌われている。定型詩『聖母の綴織(つづれおり)』(1913)には有名な「シャルトルの聖母にボース地方を捧(ささ)げる詩」が含まれている。彼の白鳥の歌『エバ』Eve(1913)は四行詩、7600余行の壮大な叙事詩で、人間の悲惨と偉大、その救霊を扱う。彼の詩は反復が多く、中世の連祷(れんとう)に通うものがある。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)直後マルヌの戦いで戦死した。
[円子千代 2015年6月17日]
『平野威馬雄訳『半月手帖』(1942・昭森社)』▽『磯見辰典訳『われらの青春――ドレフュス事件を生きたひとびと』(1976・中央出版社)』▽『シャルル・ペギー著、山崎庸一郎訳『歴史との対話――クリオ』(1977・中央出版社)』
フランスの詩人,思想家。今日のカトリック左派の思想の創始者。ドレフュス事件の最初からドレフュス派の戦闘的社会主義者だったが,事件が政治的妥協で終わるや社会主義諸党派を弾劾し,ドレフュス派精神擁護を旗印に,1900年個人雑誌《カイエ・ド・ラ・カンゼーヌ(半月手帖)》を創刊した。以後第1次大戦までこの雑誌に拠り,近代社会に対する危機意識に突き動かされながら,左翼の政治主義と右翼の権威主義に挑戦しつづけた。《われわれの青春》(1910)はその孤立無援の闘いの感動的な総括である。1908年カトリックに改宗し,ドレフュス派精神の根源に潜むものこそ人類救済を願う慈愛だったという自覚に立って,戯曲《ジャンヌ・ダルクの慈愛の神秘》(1910)を書き,さらにその主題を二つの詩劇《第二の美徳の神秘の扉》(1911),《聖なる嬰児の神秘》(1912)によって深化した。こうして13年には中世以来の伝統に根ざし,詩そのものが祈りと化している神秘的作品《イブ》が誕生する。しかし第1次大戦勃発とともに従軍して戦死した。ほかに散文として《クリオ》(1912-14),《ベルグソン氏とベルグソン哲学覚書》(1914),詩集として《ノートル・ダムの綴織》(1913)などがある。
執筆者:渡辺 一民
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