ロシアの作曲家ムソルグスキーのプロローグと4幕からなるオペラ。1868年に完成したが、71年から72年にかけて改訂が行われた。プーシキンの戯曲とカラムジンの『ロシア国史』に基づいた作曲者自身の台本によるこの作品は、その演劇的題材とロシアの伝統的旋律の応用により、真にロシアを代表する国民オペラとして認められているだけでなく、ムソルグスキーが用いた独創的な作曲技法が後世に与えた影響もきわめて大きい。皇帝フョードルの死によって摂政(せっしょう)から帝位についたボリスは、ドミトリー皇子暗殺の罪にひとり悩むが、それを知った修道僧グリゴリーは死んだはずの皇子になりすまし、反乱軍を組織して国境に迫る。驚いたボリスは神に許しを請い、やがて苦悩から狂死する。このオペラには、作曲者の死後リムスキー・コルサコフらによって補筆・改訂された数種の版があり、上演に際しては細部が変更されることも珍しくない。原典版の全曲初演は1874年ペテルブルグで行われた。日本初演は1919年(大正8)ロシア歌劇団。日本人による初演は54年(昭和29)グルリット・オペラ協会。
[三宅幸夫]
プーシキンの劇詩。23場。1825年作。シェークスピアに範を仰ぎ、無韻の弱強五歩格で書かれた悲劇。カラムジンの『ロシア国史』に依拠して、1598~1605年、モスクワ大公国の土台を揺り動かした「動乱(スムータ)」に材をとり、皇子暗殺と帝位簒奪(さんだつ)の嫌疑の渦中に戴冠(たいかん)したボリス・ゴドゥノフの苦悩、大貴族たちの権謀術数、僭称(せんしょう)皇帝ドミトリーの野望、彼を操る外国勢力の陰謀、コサックの動き、歴史の波動を形成する無名の人民の力を躍動的に描いた。本質的に「読むための劇」で、上演は困難だが、ムソルグスキーがオペラ化した。
[栗原成郎]
ロシアの政治家、皇帝(在位1598~1605)。イワン4世に寵愛(ちょうあい)され、政治家として頭角を現す。妹がフョードル帝の妃であった関係から、病弱な帝の摂政(せっしょう)となり、実権を掌握した。帝の死後、ゼムスキー・ソボール(全国会議)によってツァーリに推戴(すいたい)された。イワン4世の政策を踏襲し、士族を登用し、ロマノフ家など名門の貴族を遠ざけた。スウェーデンとの戦争(1590~95)でフィンランド湾沿岸の旧モスクワ領を回復した。また、モスクワの府主教の総主教への昇格に成功(1589)。逃亡農奴の捜索を5年間とする法を施行して農奴制を強化したが、農民の不満がおりからの飢饉(ききん)(1601~03)と相まって強まり、各地に一揆(いっき)が続発。彼は、偽(にせ)ドミトリー(1世)の侵攻で国内が混乱するなかで死去。
[伊藤幸男]
ロシア皇帝。在位1598-1605年。貴族の出で,最初イワン4世(雷帝)に仕えた。イワンの没後,その子フョードル1世が即位したが,フョードルの妃はゴドゥノフの妹で,しかもフョードル自身が病弱ということもあって,ゴドゥノフが実権を握った。彼はイワンの中央集権化政策を受け継ぎ,反対派のシュイスキー公家一門やロマノフ家一門をモスクワ政界から追放した。1591年フョードルの弟で唯一の帝位継承者ドミトリー・イワノビチの暗殺事件が起きたときには,ゴドゥノフが刺客を放ったとか,ドミトリーは難を逃れたとかのうわさが流れた。フョードルが病没し,リューリク朝が断絶した98年にゴドゥノフは全国会議で皇帝に推戴されたが,彼は即位以前から事実上の統治者としてイワンの遺志を受けて,士族の利益を重んじ,農奴制の強化に努めた。1581年以来の〈禁止の年〉(〈ユーリーの日〉の農民移転の中止)の制を恒久化し(1592-93年ごろ,このための法令が公布されたとする説もある),農民緊縛の基礎となる〈土地台帳〉作成の事業を92年にほぼ完了し,97年11月法令によって逃亡農民追求権の期限を5年とした。97年2月のホロープ(奴隷)法令はホロープ制度の再編・強化をもたらした。1601-03年の凶作と飢饉に対処するため〈ユーリーの日〉の条件つき復活を許し,03年の〈フロプコの蜂起〉鎮圧に成功した。外交的には1590-93年,スウェーデンと戦い,かつてチュートン騎士団に奪われたオレショク,イワンゴロドなどの都市を回復し,バルト海に進出した。また,シベリア植民にも力を注いだ。偽ドミトリー1世のモスクワ進攻の知らせのうちに,05年4月その生涯を閉じた。
執筆者:石戸谷 重郎
ムソルグスキーのオペラ。プロローグと4幕より成る。台本はプーシキンの原作とカラムジンの《ロシア国家史》に基づき作曲者自身が書いた。1869年に完成した版は4幕であったが,マリインスキー劇場に上演を拒否されたので,女性の登場する〈ポーランドの場面〉を新たに書き加え,他の部分も少し改訂して,74年に現在原典版と呼ばれているものを完成,上演にこぎつけた。初演は大成功であったが,批評界は賛否両論に分かれた。作曲者の死(1881)後,まもなく上演曲目から外されたが,96年にリムスキー・コルサコフが全面的に改訂した版を出版した。シャリアピンがボリスを当り役として世界的に親しまれるようになった。1928年に原典版の出版もあったが,現在でも一般にはリムスキー・コルサコフの版が基本になっている。16世紀末にリューリク家の血が絶えたとき皇帝に選ばれたボリス・ゴドゥノフが,正嫡の王子ドミトリーを殺したことで自責の念に悩まされ,死んでいくという皇帝個人の悲劇としてまとめられたのがリムスキー・コルサコフの版であったが,現在は原典版から大衆の暴動の場面〈クロームイ近郊の場〉などを補って,民衆劇としての性格を強調した演出が多い。
執筆者:森田 稔
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1552頃~1605(在位1598~1605)
ロシアの皇帝。祖先はタタール貴族。先帝の義兄として権力をふるい,リューリク朝断絶に乗じて即位。内治外政に功を立てたが,農民対策に失敗し,先帝の弟を殺害したとの噂が広まり,動乱時代の最中に死去。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…バイロンに代わってシェークスピアが彼の心をひきつけた。シェークスピア研究はまず史劇《ボリス・ゴドゥノフ》(1825,刊行1831)に結実した。追放処分を受けていたため,25年のデカブリスト蜂起への連座を免れたが,皇帝ニコライ1世の〈温情〉によって自由の身とされた後も,終生秘密警察の厳しい監視と検閲のもとに置かれた。…
…しかし,友人から〈白痴〉と呼ばれるほどに生活感覚に乏しく,飲酒癖もあって,貧困のうちに42歳の若さで死去した。74年初演されたオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》は生前20回以上も上演され,名声を得た。虐げられた農民への深い同情と社会の矛盾を告発する数多くの歌曲(《カリストラート》1864,《子守歌》1865,《かわいいサビシナ》1866,《神学生》1866,《みなしご》1868,《人形芝居》1870など)は音楽における批判的リアリズムの代表作とされる。…
…グリンカの抒情的旋律と色彩的管弦楽法,ダルゴムイシスキーの叙唱を重視するリアリズムの手法は,彼らの表現手段の基礎になった。オペラの分野ではムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》(1869)と《ホバンシチナ》(1880),A.P.ボロジンの《イーゴリ公》(1890初演),リムスキー・コルサコフの《雪娘》(1881)や《サトコ》(1896)などがあるが,大衆の場面に重要な意味を与えた点に独自な劇作法を指摘できる。 管弦楽の分野では絵画性と風俗描写などを特徴としてあげることができるが,ボロジン(二つの交響曲と交響詩《中央アジアの草原にて》(1880)など)とバラーキレフ(《三つのロシアの歌の主題による序曲》(1858),交響詩《タマーラ》(1882)と《ルーシ》(1887)など)はロシア管弦楽の確立者の一翼をになっているし,リムスキー・コルサコフ(《スペイン奇想曲》(1887),《シェエラザード》(1888)など)の色彩豊かな管弦楽法はロシア音楽の古典になった。…
※「ボリスゴドゥノフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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