出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
イタリア北部,トレンティノ・アルト・アディジェ州の同名県の県都。ドイツ語ではボーツェンBozen。人口9万7924(1994),アルプス山系の高山に囲まれ,標高265mの盆地に発展したボルツァーノは,北をアルプスにさえぎられているため,冬も比較的温暖である。ブレンナー峠の南にあり,イタリアとアルプス以北の国々とを結ぶ交通の要衝,交易の中心地として栄えた。水力発電所の電力も豊富で,繊維,家具,鋼鉄,アルミ加工などの産業が発達している。
前14年,ローマ帝国の駐屯地になり,7世紀後半にランゴバルド領になったが,8世紀にはフランク族に征服された。その後,トレントとバイエルンの公爵の間でボルツァーノ支配権が争われ,1027年,皇帝コンラート2世がボルツァーノをトレントの司教統治領に併合した。12,13世紀にはイタリアの商人や銀行家が集まり,町の市場で活発な商業活動を行ったが,近郊の農村はチロルの伯爵が領有し,1531年,町もチロルの伯爵領となった。ハプスブルク家は毎年開かれる市を保護するため,ボルツァーノに特別法や特別行政を承認した。1806年,ナポレオンはボルツァーノをチロル地方とともにバイエルン領としたが,10年にはナポレオンのイタリア王国に編入され,15年のウィーン会議はこの町をオーストリア領と決定した。オーストリアの主権は1918年のイタリア軍による占領まで約1世紀続いた。第2次大戦中,ボルツァーノは甚大な戦禍を受け,43-45年にはナチス・ドイツの占領下にあったが,戦後イタリアの領土に戻った。チロル地方に近いボルツァーノは古くから住民の多くがゲルマン系で,人種,公用語問題をかかえていたが,48年制定のイタリア共和国憲法は,トレンティノ・アルト・アディジェ州に広範囲の自治権を認めている。
執筆者:町田 亘
プラハで活躍したチェコ(当時はオーストリア領)の哲学者,数学者。哲学上の主著は《学問論》全4巻(1837)。ドイツ観念論を批判して,独自の客観主義的な論理学説を展開した。とくに重要視されるのは,命題自体,表象自体,真理自体という考え方で,学問論の基礎をなすこれら3概念は,主観の表象作用や判断作用とは無関係に,それ自体として存在する理念的対象であり,したがって時間・空間的に限定される現実存在ではないとされる。その業績はF.ブレンターノ,フッサールらに大きな影響を与えた。
執筆者:立松 弘孝
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