ボンにある州立総合大学で,正式名称は創設者にちなみライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン(ドイツ)。起源は1777年にケルン選帝侯によって設立されたアカデミーである。1786年に学位授与権を得て大学に昇格するが,その後のフランス支配体制下ではライン地方の他大学と同様1798年に閉鎖された。ナポレオン戦争後,カトリック神学部,プロテスタント神学部,医学部,法学部,哲学部からなるライン大学として1818年に創設された。ライン地方の統制強化に向けたモデル大学として位置づけられ,キリスト教両宗派が混在する地域性を鑑みて,宗派の平等性を重視した学部編成が採用された。また,プロイセンの大学としてフンボルト理念の影響を強く受けた。
19世紀末にはプロイセン選帝侯の子弟が数多く学んだためプリンスの大学として知られたが,第1次世界大戦後の不況下では州の教育予算が削減され,大学は独自に企業との提携を模索し,学生は今日まで続く学生自治会(ドイツ)(AStA(ドイツ))を組織した。同時期に法律経済学部が独立,また農業大学を農学部として編入した。第2次世界大戦後は大きく躍進し,ヴォルフガング・パウルやラインハルト・ゼルテンなど8人のノーベル賞受賞者を輩出した。ドイツ統一(1990年)後の首都移転に際しては,その補塡事業として三つの付属研究所が新設された。2017年現在,7学部,教授555人,研究員5741人,学生数3万5000人(留学生4000人を含む)を擁する。
著者: 山本隆太
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
ドイツ連邦共和国のボンにある大学。起源は1777年ケルンの大司教によって設立されたアカデミーにさかのぼり、1786年大学として認可された。18世紀末ナポレオン軍の侵入により一時閉鎖されたが、ボンがプロイセンに併合された1818年ウィルヘルム3世により、ベルリン大学を範として再興され、一大発展を遂げた。この新しい大学を舞台に、教授陣として歴史学のアルント、神学のクレーメンCarl Clemen(1865―1940)、古代史のニーブール、物理学のヘルツ、生理学のミューラー、天文学のアルゲランダーらが活躍した。1934年には、農業専門大学を農学部として吸収し、現在では8学部体制(プロテスタント神学、カトリック神学、法律・経済学、医学、哲学、数学・自然科学、農学、教育学)となっている。第二次世界大戦中に主要施設は破壊されたが、戦後復旧し、目覚ましい発展を遂げた。1960年代後半から学生が急増し、1995年現在、教員数約2800人、学生数約3万7000人。
[馬越 徹]
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…ドイツ分割の結果によってつくられた政治都市・管理都市であり,産業・商業都市の機能は小さい。ボン大学(正称ライニッシェ・フリードリヒ・ウィルヘルム大学Rheinische Friedrich‐Wilhelms‐Universität)はドイツの古い大学の一つで,現在の本館は歴代のケルン大司教(選帝侯)の居城である。建物の基礎はすでに16世紀にさかのぼり,後に選帝侯ヨーゼフ・クレメンス(1688‐1723)によって増築されている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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