翻訳|Bonn
ドイツ西部,ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。人口31万1938(2004)。ライン川が市を縦貫し,市域の4分の3はその左岸が占める。ドイツ分割後に西ドイツの首都となり,1969年旧ボン市はバート・ゴーデスベルクBad Godesberg市,ボイエルほか8村を合併し,大ボン市となったが,90年10月のドイツ再統一にあたって首都の座をベルリンにゆずった。ドイツ分割の結果によってつくられた政治都市・管理都市であり,産業・商業都市の機能は小さい。ボン大学(正称ライニッシェ・フリードリヒ・ウィルヘルム大学Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universität)はドイツの古い大学の一つで,現在の本館は歴代のケルン大司教(選帝侯)の居城である。建物の基礎はすでに16世紀にさかのぼり,後に選帝侯ヨーゼフ・クレメンス(1688-1723)によって増築されている。ギムナジウムを経て1786年選帝侯マックス・フランツによって総合大学に昇格。1818年にはプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム3世が再建,今日のもとをつくった。その他ベートーベンの生家とその像が立つミュンスター広場,シューマンの家,マルクト広場,ライン川に面した連邦議会,29階建て(高さ114m)の連邦議員会館,大統領官邸ビラ・ハンマーシュミットVilla Hammerschmidt,ゴーデスブルク城など,見物に値するところも少なくない。
古代ローマ軍団宿営地Bonna,Castra Bonnensiaであったが,410年ゲルマン人の一部族であるフランク族に占領され,彼らの軍事拠点となる。近世には歴代のケルン大司教の居城地として発展。1601年選帝侯フェルディナントはボンをその主都とした。1794年フランス革命軍が占領。1815年ウィーン会議の結果,ラインラントはプロイセン領になり,ボンは18年以降は大学都市としての性格を強める。第2次大戦により旧市街は全壊,その後復興した。1948年,ドイツ連邦共和国誕生の前年,憲法制定集会(議会協議会)はボンを暫定首都に選定,翌49年の連邦議会で承認された。ドイツ統一と首都ベルリンの再興が不可能になっていくなかで,ボンの暫定首都としての性格は薄れ,69年以降本格的な首都建設が始められるに至った。
執筆者:仲井 斌
市内には四つの中世の教会堂と二つのバロック期の教会堂があるが,そのうち歴史的に最も注目すべきは大聖堂(ミュンスター。正称ザンクト・マルティン)である。1150-1224年に造営された現在の大聖堂の基礎部には,ローマ時代末期にまでさかのぼる部分が残る。東側内陣と塔は12世紀のライン地方ロマネスク様式を示し,身廊はゴシック様式を告げている。形式的には袖廊(トランセプト)をもつバシリカであるが,東西それぞれに祭室と地下墓室,双塔とをおいた東西相称の配置をとる。内部装飾はおおむねバロック期のもので,中世の聖職者席とライヒレH.Reichleによる《聖女ヘレナ》(ブロンズ像,1600-10)が注目される。世俗建築では,ケルン大司教の居城(現,ボン大学本館),市庁舎,ポッペルスドルフ宮殿などが挙げられる。いずれもバロック・ロココ時代のもの。ライン地方博物館には先史時代からの遺品が並び,ことにローマ時代の発掘品がボンの歴史を語る。市立美術館は表現主義など19,20世紀の絵画,彫刻が中心。
執筆者:勝 國興
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ライン川左岸のドイツの都市。ローマ帝国時代は軍隊宿営地カストラ・ボネンシア。12世紀以降ケルン大司教領に属し,1815年以後プロイセン領。1949年ここで西ドイツの憲法制定会議が開かれてボン基本法が成立,ドイツ連邦共和国の発足とともに,ここが暫定的に首都となった。ベートーヴェンの生誕地としても知られる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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