第2次世界大戦中最後のアメリカ,イギリス,ソ連3国巨頭会談。ドイツ降状後の1945年7月17日から8月2日にかけて,ベルリン近郊のポツダムで開催された。トルーマン・アメリカ大統領,スターリン・ソ連首相,チャーチル・イギリス首相(会談中の総選挙の結果,途中からアトリーと交替した)のほか,3国の外相が出席した。
会談ではとりわけポーランド,ドイツ間の国境画定と,ドイツからの賠償取立て方法とを巡って対立がみられた。前者については,ソ連の主張に基づきオーデル・ナイセ線を講和条約の成立まで仮の国境として認めることになった。また賠償については,取立てに積極的なソ連側と経済復興を先行させようとする米英側との折合いがつかず,基本的に各占領地区ごとに独自の方法をとることで合意をみた。これにより,フランスを含めた4国による分割占領を行いながらも連合国ドイツ管理理事会の下で共通の占領方針をとるという前提が崩れ,のちのドイツ分裂への道が開かれたといえる。このとき,おもに枢軸国側衛星諸国との講和条約の検討のため,中国とフランスを加えた5国外相理事会を設置することが決められたが,会談で決着のつかなかった旧イタリア植民地の帰趨や,イランからの撤兵問題,ダーダネルス,ボスポラス両海峡通過,内陸河川国際化問題などは,この外相理事会の案件として持ち越されることとなった。
ポツダム会談の主要な議題は降伏したドイツの処遇であったが,対日方針も議論され,7月26日には日本に対して無条件降伏を呼びかけるポツダム宣言が発せられている(宣言は米英中の3国首脳の名による)。会談のおり,スターリンは対日参戦の約束を再確認し,8月8日の対日宣戦とともにこの宣言に加わった。日本は8月14日にこれを受諾し,8月15日,第2次世界大戦は終わった。
執筆者:高原 孝生
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1945年7月17日~8月2日,ベルリンに隣接するポツダム(現在のブランデンブルク州の州都)で開催された米英ソ首脳会議。アメリカのトルーマン,イギリスのチャーチル(途中からアトリーに交替),ソ連のスターリンはじめ3国政府要人が多数参加。会議の中心議題はすでに無条件降伏していたドイツに対する処理方針の問題で,ポツダム協定によって非ナチ化・非武装化と,フランスを含む米英ソ仏の各占領区に分割した四カ国共同管理方式が定められた。日本についても降伏条件と戦後日本管理方針が定められた。会議では東欧問題をめぐって米英とソ連の間の見解の相違が明確になったが,それは戦後処理全体の相違であった。
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1945年(昭和20)7月17日~8月2日,ドイツのベルリン郊外ポツダムで開催された第2次大戦中最後の米・英・ソ3国の首脳会談。米大統領トルーマン,英首相チャーチル,途中からアトリー,ソ連首相スターリンが出席。ドイツ敗北後のヨーロッパの戦後処理問題のほか,対日戦終結方策がおもな議題となり,会談中の7月26日には,無条件降伏を要求するポツダム宣言が発せられた。
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…しかしチャーチルは45年7月の選挙で敗北して労働党のアトリーに代わり,またローズベルトも4月病死しトルーマンに代わることになる。7月17日から8月2日までポツダムで最も長い3国首脳会談が開かれた(ポツダム会談)。中心となった問題はドイツの処理問題であり,分割占領・非軍事化・民主主義的政治体制については合意したものの,賠償の問題と統一ドイツ政府の問題では決着をみず,妥協の結果ポツダム協定が締結された。…
※「ポツダム会談」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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