第33代アメリカ合衆国大統領。ミズーリ州ラマーに家畜業者の長男として生まれる。高校卒業後、銀行勤務や農業に従事。第一次世界大戦に州兵軍団の砲兵大尉として参加、統率力を発揮した。除隊後、同州インデペンデンスで男子洋品店を開業したが失敗。破産宣告を拒否して負債の返済にあたる一方で、政界に入り、同地帯を支配するトマス・ペンダガストの後押しで、1926年ジャクソン郡裁判所首席判事(行政職)に選出された。1934年には上院議員(民主党)としてワシントンに送られ、一貫してルーズベルト政権を支持。1940年にはペンダガストの支持なしで再選され、第二次世界大戦の軍需契約を監視する上院国防計画特別委員会の委員長として活躍、存在を知られた。1944年、ルーズベルトの4選出馬にあたり、党内対立を押さえる妥協候補として副大統領候補となり当選。就任後わずか83日でルーズベルトの死去により、1945年4月、大統領に昇格した。
外交にはまったく未経験で側近に頼ることが多かったが、決断力を誇示しようとして、ためらわず政策決定を行った。1945年5月にドイツが降伏したあと、ポツダムでの米ソ英首脳会談を経て、広島・長崎への原爆投下を命令、日本に対する勝利をかちとった。ソ連の東欧圏進出に直面すると、ルーズベルトの対ソ協調路線を捨て、共産主義との対決を外交の中心とした。1947年3月、ギリシア、トルコに対し4億ドルの援助を要請する議会演説は「トルーマン・ドクトリン」として、ベトナム戦争終結までアメリカ外交の基本路線となった。「冷戦」とよばれる自由主義対共産主義両陣営の対立は、彼の任期の間に始まり深まった。
1948年の大統領選では党内左右両派が離反し、共和党のデューイ候補が有利と予想されたが「奇跡の逆転」を遂げた。内政面では「フェア・ディール」の名で前任者の路線を継承発展させたが、東欧に次いで中国の共産化によって高まる反共の気運に押され、国家公務員の忠誠登録を実施する一方で、労働者・黒人の権利擁護のために努力した。1950年6月の朝鮮戦争に際し、議会に諮らず米軍による介入を決定、大統領の戦争権限を肥大化させたとのちに批判されるが、現地軍司令官マッカーサーを命令不服従のかどで解任し、文官支配の原理を守ったことは賞賛された。1952年の大統領選には出馬せず、引退。「平凡にして非凡な大統領」として、評価が高まっている。
[袖井林二郎]
『堀江芳孝訳『トルーマン回顧録』上下(1966・恒文社)』
アメリカの政治学者。イリノイ州生まれ。アマースト大学卒業後、シカゴ大学で博士号を得た。1939年のベニングトン大学講師を振り出しに、コーネル大学とハーバード大学で講師、ウィリアムズ・カレッジ準教授、コロンビア大学客員準教授、同教授を務め、1963~1967年コロンビア・カレッジ学生部長、1969~1978年マウント・ホリヨーク・カレッジ学長を歴任した。その間1964~1965年アメリカ政治学会会長も務めた。主著に『政治過程論』The Governmental Process(1951, Alfred A. Kopf)とThe Congressional Party(1959, John Willey & Sons Inc.)がある。前者では、政治過程論における集団レベルとガバメントの社会心理学的説明を、後者では、連邦議会内の院内総務、常任委員長その他の役割とリンクの分析を行っている。
[小林丈児・村松泰雄 2019年2月18日]
アメリカの第33代大統領。在職1945-53年。ミズーリ州の農家の出身。第1次世界大戦後カンザス・シティの民主党のボス,ペンダーガストThomas Pendergastに見込まれて政界入りし,郡判事を経て1934年連邦上院議員に当選,40年には独力で再選を実現した。44年民主党内の北部派と南部派,リベラルと保守の妥協の結果として副大統領候補に指名されて当選。45年4月F.D.ローズベルトの急死により,ほとんど無名のまま大統領に昇格。ポツダム会談,国際連合の創設,広島と長崎への原爆の投下,日独戦犯の裁判など第2次世界大戦の終結と戦後処理に指導的役割を果たした。戦後はソ連との対決姿勢を強め,47年に〈トルーマン・ドクトリン〉を発表したのをはじめ,48年ソ連のベルリン封鎖に対抗して空輸作戦を指令,49年北大西洋条約機構(NATO)を結成するなど,〈冷戦〉外交を展開し,さらに50年朝鮮戦争にあたって韓国援助のため派兵を決定した。48年の大統領選には彼の政策に対する批判から民主党内が3派に分裂する中で一般の予想をくつがえして勝利をおさめ,内政面ではニューディールを継承・拡大する〈フェアディール〉政策を提唱した。その中西部風の素朴な人柄や凡庸な風采は,ローズベルトとあまりに対照的で国民をとまどわせたが,大統領としてのトルーマンは国防総省,中央情報局(CIA)の設置など政府機構の改革を実現したり,一貫して公民権の擁護を主張し,また,朝鮮戦争に際し方針を異にするマッカーサー司令官を断固解任して文官優位の原則を守ったことなどにみられるように,強力な指導者でもあった。
執筆者:中里 明彦
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1884~1972
アメリカ第33代大統領(在任1945~53)。民主党員。上院議員,副大統領をへて,F.D.ローズヴェルトの急死で大統領に昇格。日本に原爆の投下を命じ,太平洋戦争を終結させた。冷戦の勃発に対しては,一連の封じ込め政策を実施した。ベルリン封鎖では空輸,朝鮮戦争ではアメリカ軍の投入で応え,のちにマッカーサー将軍を解任するなど断固たる決断をみせた。内政はフェアディールを提唱。
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1884.5.8~1972.12.26
アメリカ第33代大統領(民主党,在職1945~53)。1945年4月ローズベルト大統領の急逝により副大統領から大統領に昇格。ポツダム会談・原爆投下承認など第2次大戦の早期終結をめざし,戦後は共産主義勢力への対抗を宣言したトルーマン・ドクトリンを発表。マーシャル・プランなどが具体化され,対日占領政策も転換した。朝鮮戦争への米軍出動を勃発直後に決定したが,51年にマッカーサーを解任。
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…独立戦争,南北戦争,第1次世界大戦の前後に,忠誠宣誓が頻繁に行われたことからわかるように,忠誠問題は国家存亡の危機に当たって,最も先鋭な形をとる。最近では,冷戦初期の1947年,トルーマン大統領の行政命令により,連邦政府部内の共産主義者追放を主たる目的として始められた連邦公務員の忠誠審査制度が有名である。この制度は,各省庁の忠誠委員会Loyalty Boardの上に,上訴機関として国家公務員任用委員会の中に忠誠再審委員会Loyalty Review Boardを設けるなど,公務員の市民的自由にも一定の配慮を加えてはいたが,実際の破壊活動のみならず政党帰属や交友関係までも審査の対象とすることにより,忠誠審査が思想調査に転化する危険性を示したといえる。…
…アメリカのトルーマン大統領の国内政策の総称。この言葉は,彼が絶対に劣勢といわれた選挙に勝利した直後の1949年1月の年頭教書の中で用いられ,のちしだいに一般化したが,彼自身は1945年9月の立法計画案に始まるとしている。…
※「トルーマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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