ポーランド統一労働者党(読み)ポーランドとういつろうどうしゃとう(英語表記)Polska Zjednoczona Partia Robotnicza

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポーランド統一労働者党」の意味・わかりやすい解説

ポーランド統一労働者党
ポーランドとういつろうどうしゃとう
Polska Zjednoczona Partia Robotnicza

社会主義政権時代のポーランドの支配政党。 1948年 12月労働者党 (共産党) とポーランド社会党が合体して結成された。スターリン主義派に代わって誕生したゴムウカ政権下では統一労働者党の支配がゆるんだが,1970年の食料品値上げ問題で暴動事件に見舞われ,ゴムウカは失脚。エドワルド・ギエレクが第1書記に就任。以後党はギエレクのもとで民主化要求に柔軟路線をとったが,経済運営には必ずしも成功せず,1980年スタニスワフ・カニアが第1書記となる。さらに 1981年 10月には首相で軍人のウォイチェフ・ヤルゼルスキが第1書記を兼任するにいたった。その後,自由化の波に直面して党は大きく変身した。 1989年6月には限定的ながら東ヨーロッパ諸国で最初の自由選挙制度を採用した議会選挙が実施され,自由化運動を先導した「連帯」が圧勝,統一労働者党は大後退を余儀なくされた。同 1989年9月には「連体」系のマゾウィエツキ政権が誕生,東ヨーロッパ諸国で初の非共産主義勢力が政権を担当することになった。 1989年 12月には憲法改正案が採択され,統一労働者党の指導的役割を規定した条文が削除された。統一労働者党は 1990年1月に党大会を開催し,西ヨーロッパ型の社会民主党を目指して党名を「ポーランド共和国社会民主主義」と改名したが,この改革では物足りないと主張する派が過去との完全な決別を唱えて社会民主党 (民主左翼連合 ) を結成,党は分裂した。

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百科事典マイペディア 「ポーランド統一労働者党」の意味・わかりやすい解説

ポーランド統一労働者党【ポーランドとういつろうどうしゃとう】

第2次大戦後のポーランド社会主義期の支配政党。1918年ポーランド共産党として創立,1938年コミンテルン指令により解散。1942年ポーランド労働者党として再建され,第2次大戦後政権を握り,1948年社会党を合併して統一労働者党と改名。1956年のポズナン暴動以後ゴムルカの指導下で一時自由化路線をとったが,やがて硬直化し,1970年ギェレクに交替。以後,労働者を中心とする民主化などの要求におされて党の指導力は低下し,1981年〈連帯〉運動に対処するためヤルゼルスキが登場したが,1989年には政権党の座をおりた。1990年社会民主党と改称し,1991年総選挙では労働組合の一部と民主左翼同盟を結成,1993年総選挙で第1党となり,政権に復帰した。以後ワレサ大統領との対立が続くが,1995年11月の大統領選でワレサを抑え民主左翼同盟のクワシニェフスキが大統領となる。
→関連項目ポーランド

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世界大百科事典 第2版 「ポーランド統一労働者党」の意味・わかりやすい解説

ポーランドとういつろうどうしゃとう【ポーランド統一労働者党 Polska Zjednoczona Partia Robotnicza】

第2次大戦後のポーランド社会主義期の支配政党。略称PZPR。前身はポーランド共産党である。1918年ポーランド王国・リトアニア社会民主党とポーランド社会党左派が合同してポーランド共産主義労働者党となり,25年ポーランド共産党と改称した。両大戦間期は極端な左翼主義と親ソ傾向のため孤立し,弱体な非合法政党にとどまった。38年コミンテルンの指令により解散し,ソ連に亡命していた重要幹部はほとんど粛清された。

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