第1条 まず第一に、イングランド教会が自由であり、その諸権利はこれを完全に保持し、その自由は侵されることがない旨を、朕は、朕および朕の相続人のために、永久に神に許容し、かつこの朕の特許状をもって確認する。朕はこのことが遵守されることを欲する。朕のこのような希望は、イングランド教会にとってきわめて必須不可欠のものと考えられている選挙の自由を、朕と朕のバロンたちとのあいだに紛争が発生する以前に、朕が純粋かつ自発的な意志にもとづいて付与し、朕の特許状をもって確認し、朕の主である教皇イノケンティウス3世の確認を得たことを考えても、明らかなものがある。朕はこのことを遵守し、かつ朕の相続人が永久に誠意をもって遵守することを欲する。さらに朕は、朕および朕の相続人のために、以下列挙の自由のすべてを、朕の王国の全自由人およびその相続人が朕および朕の相続人から保有保持すべきものとして、かれらに付与した。
第2条 もし軍事的奉仕を保有条件として朕から直接に受封している朕の伯もしくはバロンまたはその他の者が死亡し、その死亡のときにその相続人が成年に達しかつ相続料〔の支払義務〕を負う場合には、その相続人は旧来の相続料を支払えば相続財産を取得するものとする。
第3条 しかしながら、前述の者の相続人が成年に達せず後見に服する場合には、このような相続人は、成年に達したときに、相続料なしにかつ嘆願金なしに相続財産を取得するものとする。
第12条 いっさいの楯金(たてきん)もしくは援助金は、朕の王国の一般評議会によるのでなければ、朕の王国においてはこれを課しない。ただし、朕の身代金を支払うため、朕の長男を騎士とするため、または朕の長女をはじめて嫁がせるために課せられる援助金で、合理的な〔範囲の〕ものは、このかぎりでない。ロンドン市からの援助金についても、同様である。
第13条 またロンドン市は、そのすべての古来の自由と、陸路によると海路によるとを問わず自由な関税とを保有する。このほかなお、他のすべての都市、市邑、町、および港が、そのすべての自由と自由な関税とを保有すべきことを、朕は欲し許容する。
第16条 何人も、騎士の封についても他の自由な封の保有についても、その封に伴うもの以上の奉仕をなすことを、強制されることはない。
第20条 自由人は、軽微な違法行為については、その違法行為の程度にしたがってでなければ、憐憫(れんびん)罰を科せられない。また重大な違法行為については、違法行為の重要性にしたがってでなければ憐憫罰を科せられない。ただし、生計を維持するために必要な財産は、〔憐憫罰の対象から〕除外される。また商人も、同様の方法で〔憐憫罰を科せられるが〕、その商品は除かれる。農奴も、同様の方法で憐憫罰を科せられるが、その農耕用具は除外される。以上はすべて、かれらが〔進んで〕朕の憐憫のもとに〔その身体および財産を〕置いた場合にのみ適用される。かつ、前述の憐憫罰は、近隣の廉直な人々の宣誓にもとづいてでなければ科せられない。
第21条 伯およびバロンは、彼の同輩により、かつ違法行為の程度にしたがってでなければ、憐憫罰を科せられない。
第22条 僧侶(そうりょ)の世俗的保有に憐憫罰を科する場合には、前述の者と同程度にでなければならず、かつ教会的利益の額を考慮してはならない。
第34条 「プラエチペ」(praecipe)とよばれる令状は、今後ある封の保有について、自由人にその〔荘園〕裁判所〔で審理をうける権利〕を失わせるために、発給されることはない。
第38条 代官は今後、その事件に関して提出された信憑すべき証人なしに、単に代官の主張のみにもとづいて、人を裁判にかけて(ponere ad legem)はならない。
第39条 自由人は、その同輩の合法的裁判によるか、または国法によるのでなければ、逮捕、監禁、差押え、法外放置、もしくは追放をうけまたはその他の方法によって侵害されることはない。朕も彼の上に赴かず、また彼の上に派遣しない。(訳者註――この最後の文言はおそらく、罪のない者に対して暴力を用いて迫ることをしないという程度のことを意味するものと思われる。)
第40条 朕は何人に対しても正義と司法を売らず、何人に対しても正義と司法を拒否または遅延せしめない。
第41条 すべての商人は、悪輸出税(mala tolta, maltote)なく旧来の正当な関税によって、売買のために、安全にイングランドを出、イングランドに帰り、かつイングランド内に滞留し、陸路によると水路にするとを問わず国内を移動することができる。ただし戦時において、われわれに対して戦争状態にある国の者は、このかぎりではない。もしこのような者が戦争の開始時に朕の王国内で見出された場合には、朕または朕の最高判官が、その当時朕に対し戦争状態にある国で見出された朕の国の商人がどのように取り扱われているかを知るにいたるまで、身体または財産に対する損害をうけることなく、抑留されるものとする。しかして、朕の国の者が他国において安全ならば、朕の王国においても他の国の者を安全とする。
第44条 猟林外にある者は、今後、一般的召喚状によって、朕の猟林判官の前に出廷せしめられることはない。ただし、猟林〔事件〕のために裁判に付されている者、または猟林〔事件〕のために抑留されている1人もしくは数人の者の保証人となっている者を除く。
第47条 朕の時代に〔新たに〕指定されたすべての猟林は、直ちにその指定を解かれる。朕の時代に朕によって鷹狩(たかがり)地区に指定された河岸についても同様である。
第48条 猟林ならびに狩猟地、猟林官ならびに狩猟地官、州長ならびにその下役、および河岸ならびにその管理人に関する悪習慣は、すべて、各州において、その州の正直な人々によって、選ばれる12人のその州の騎士によって、宣誓の上直ちに審査され、審査終了後40日以内に、決して旧に復しないように完全に除去されなければならない。ただし、朕、または朕がイングランドにいない場合には朕の法官に対し、あらかじめ通知した上でこれをなさねばならない。
第55条 不当にかつ国法に反して朕の下で課されたすべての罰金、および不当にかつ国法に反して課されたすべての憐憫罰は、いっさい免除せられるか、または、後の平和の保証の項に記載されている25人のバロンもしくはその過半数の者に、上記のカンタベリ大司教スティーヴンが出席可能なときは彼スティーヴン、および彼がこのために召集しようと欲する者を加えての裁判によって、それについての決定がなされるものとする。しかして、もし彼スティーヴンが出席不能の場合でも、議事はその欠席のまま進められる。ただし、もし前記の25人中の1人または数人が〔自ら〕同種の紛争にあるときには、当該裁判に関するかぎり除斥され、前記25人のバロンの残余の者によって、他の者が当該裁判のためにのみ選ばれ、宣誓をなした上、補充せられるものとする。
第60条 さらに、朕が朕の王国内で朕の下にある人々に対する関係において遵守すべきものとして許容した上記の諸慣習および諸自由は、朕の王国内の者は、僧侶たると俗人たるとを問わず、すべて、かれらとその下にある人々との関係において、これらすべてを遵守しなければならない。
第61条 さらに、朕は、神のため、また朕の王国を改革し、朕と朕のバロンとのあいだに発生した紛争をよりよく鎮静するために、これら上記すべてのものを、完全かつ確固たる安定性をもって永久に享受することを望みつつ、許容したのであるから、朕は以下に記す保証をかれらに対してなし、かれらに対して許容する。すなわち、バロン達は、その欲するところにしたがい、平和と、朕がバロン達に許容しこの朕の特許状をもって許容し確認した諸自由を、その全力をあげて遵守し、保持し、遵守せしめる義務を負うべき25人のバロンを選出するものとし、もし、朕、朕の判官、朕の代官、または朕の役人のうちのある者が、なんらかの点において何人かに対して不法を犯し、または平和の条項もしくは保証のうちのある条項を蹂躙(じゅうりん)し、上記25人のバロン中の4人のバロンにその不法が提示された場合には、この4人のバロンが、朕、または朕が王国外にあるときには朕の判官、の下に来て朕にその違反を挙示し、その違反が遅滞なく改められることを要求するものとする。そして、朕、または朕が王国外にあるときには朕の判官、に、違反が示されたときから算(かぞ)えて40日の期間内に、朕が違反を改めず、または朕が王国外にあるときには朕の判官が違反を改めなかった場合には、上記4人のバロンは25人のバロンの残りの者にその事件を回付し、この25人のバロンは、全国の人々とともに、あらゆる可能な手段によって、すなわち、城、土地、財産の差押え、その他可能な手段によって、かれらの〔適当と〕判断する通りに改められるまで、朕に苛責(かしゃく)と強圧とを加うべきものとする。ただし、朕、朕の妃、および朕の子の身体は〔これら強圧の手段の対象から〕のぞかれる。そして違反が改められた際には、かれらは朕と従前通りの関係になるものとする。さらに、国の何人といえども欲するものがあれば、前記のすべてのことを実行するために、前記25人のバロンの命令に服従し、かれらとともにできるかぎり朕に強圧を加える旨を宣誓することができる。朕は、〔このような〕宣誓することを欲する者すべてに対して、宣誓をすることの許可を公然とかつ自由〔意思〕で与え、何人に対しても宣誓することを禁じない。さらに、25人のバロンたちに対してかれらとともに朕に苛責と強圧を加えることを宣誓することを、自ら自分の発意にもとづいて欲しない者に対しては、朕の命令により、前記のように宣誓させるものとする。またもし25人のバロン中、死亡し、王国を離れ、またはその他の事由によって前記の諸条項を実行することを妨げられたときには、前記25人のバロンの残りの者が、その判断にしたがって他の者をその代りに選出し、その〔選ばれた〕者は他の者と同様の方法で宣誓するものとする。さらに、25人のバロンにその実行が委任されたすべての事項に関して、万一この25人のバロンが出席し、かつある事項について意見が一致しなかった場合、または、かれらの中の何人かが召集されても出席することを欲せず、もしくは出席できぬ場合には、出席した者の多数が定めまたは命じたことは、25人全部がこの点について意見が一致したのと同様に、有効かつ確定的なものとされる。また前記25人は、前述のすべての事項を忠実に遵守し、かつ可能なるかぎり〔他人にも〕遵守せしめる旨を、宣誓しなければならない。また朕も、さきの諸々の許容と自由の何物でも、これを取消しまた〔その効果を〕減少せしめるようなことは、朕自らこれをなすと他人を通じてなすとを問わず、何人からもこれを獲ようとはしない。かつもしこのようなことが獲られた場合には、それは無効であり、朕自らこれをなすと他人を通じてなすとを問わず、朕がこれを用いることは決してない。
第63条 このように、朕は、イングランドの教会が自由であること、ならびに朕の王国内の民が前記の自由、権利および許容のすべてを、正しくかつ平和に、自由かつ平穏に、かつ完全に、かれら自身のためおよびその相続人のために、朕と朕の相続人から、いかなる点についてもまたいかなる所においても、永久に保有保持することを、欲し、かつ確かに申付ける。さらに、これら前述のことすべては、誠意をもって、悪意なく、遵守せらるべき旨が、朕の側からも、バロンの側からも宣誓された。上記の者およびその他の多数の者を証人として。ウィンザとステインズのあいだにあるラニミードと呼ばれる草地において、朕の治世第17年6月15日、朕の手より与えらる。
高木八尺他編『人権宣言集』(岩波文庫)所収、田中英夫訳による
1215年、イギリスのジョン王が彼の失政を批判する貴族らに強いられて承認した勅許状。大憲章と訳す。1204年フランス王フィリップ2世により大陸領の大半を奪われたジョンは、イギリスの内政に専念したが、彼の頻繁な課税と軍役の要求は貴族らの不評を買った。またカンタベリー大司教位を空位にしてその間の収入を横領したため、09年教皇インノケンティウス3世より破門され、14年には貴族の支持を失って、大陸領回復にも失敗した。このような内外の失政に対して貴族が反抗し、15年6月ジョンは彼らが起草したマグナ・カルタへの署名を強いられた。
前文と63か条に分けられるが、封建的慣行に反する不当な上納金、軍役代納金の徴収への反対(12条)、貴族らの封建的特権の尊重(34条)、不当な罰金や自由民に対する非合法的な逮捕の禁止(20条・39条)、そのほか適正な裁判、行政の実施、都市特権の尊重、商人の保護などを要求している。国王も法の下にあるという原則を確立した重要な文書で、王と貴族との間の封建的主従関係の原則を規定したものである。その後、この実施をめぐって紛糾し、1215年8月から内乱となり、翌年ジョンが死亡して、問題は次のヘンリー3世時代に持ち越される。その間の緊迫した内外の諸情勢から、マグナ・カルタは16、17年と修正のうえ確認され、25年には国王の立法権を回復する修正を加えて再確認のうえようやく公布された。しかし、親政したヘンリー3世はそれを無視し、独裁化して貴族の反乱をよび、ついでエドワード1世もまた晩年に再確認を要求されるなど、13、14世紀のイギリス国制史はマグナ・カルタをめぐって展開された。その後は忘れられたが、17世紀にイギリス国民の自由の伝統を象徴するものとして思い起こされ、19世紀には自由主義的発展のなかで近代民主主義の原点として過当に評価されたが、イギリス憲政の発展のうえで果たした役割は大きい。現在もイギリス憲政の最重要文書の一つとされている。
[富沢霊岸]
『高木八尺・末延三次・宮沢俊義編『人権宣言集』(岩波文庫)』▽『城戸毅著『マグナ・カルタの世紀』(1980・東京大学出版会)』
イギリスで1215年6月15日付で発布された63ヵ条の法で,その後たびたび再発行および確認されている。イギリス憲法の一部とされ,しばしば〈大憲章〉と訳される。マグナ・カルタを論ずる際には,それが1215年の発布当時に有していた意義と,それ以後今日まで立憲政治の上で果たしてきた意義とを明確に区別する要がある。
マグナ・カルタは直接的には当時のイギリス国王ジョンの失政をきっかけにして発布された。すなわち,ジョンは父王,兄王から継承したフランス内の領土をフランス王に奪われ,一方では戦費調達のため財政改革をし,苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)を行った。かくして敗戦と圧政への人々の不満が高まり,王の殺害計画まで発覚している。このような背景の下でも,王は領土回復の戦いを再び試み,1214年ブービーヌの戦で最後的な敗北を喫した。これをきっかけに,とくに貴族の不満は最高潮に達し,王はあらゆる方法で不満分子の抱き込み策を図った。15年5月5日貴族の一部が〈ジョンを主君と認めずみずからをジョンの臣下と認めず〉と宣言して公然と反抗し,後にロンドン市がこれに同調したときには,ほとんどの臣民が反ジョン側についてしまった。しかし,反王側の臣民に統一がとれ,初めから後のマグナ・カルタのようなものが意図されていたと考えてはならない。5月5日の段階ではなんらの文書もなかった。彼らの主たる目的は,人によってはジョンの廃位であり,人によってはジョンが彼らの不信感をなくするにたる行為をとることであった。6月10日までに両者の協約の主たる点が決まり,それに多くの雑多な項目が盛り込まれ,6月15日付で発布されたのが,マグナ・カルタである。
したがって,マグナ・カルタの63ヵ条にはなんらの統一もなく,また首尾一貫した統治原理を見いだすこともできない。それは国王と貴族を中心にした臣民との関係を規制する雑多な,しかも単なる当座しのぎの妥協にすぎない。その内容は,それぞれ王の具体的な専横を制限しようとするものであり,したがってきわめて広範囲である。教会の自由,封建的負担の制限,国王役人の職権濫用の防止,ユダヤ人からの貸借金,民事・刑事の裁判,度量衡の統一,テムズ川の魚梁の破壊や猟林に関する規定等々が含まれている。このような性格を重視し,また19世紀の自由主義的史観への反発もあり,近年はマグナ・カルタは単なる過去の慣習への復帰を目ざしたもの,すなわち封建法の確認とみる説が多い。確かに1215年段階ではこれでもって立憲政治の礎を置くという意図があったとは考えられず,その意味ではマグナ・カルタは第一に封建文書であったことは否定できない。しかし同時に,個々の規定を離れ全体として考えたとき,国政をつかさどることが国王個人の大権であり,また主君に値しない国王に対する対抗手段としてはその王への忠誠の誓いを破棄し,新たな主君すなわち国王を即位させることしか考えられなかった当時(1215年5月5日の貴族の行動を参照),主君に値しない国王を文書によって縛り,その大権を被治者側から制限しようとしたこの試みの新しさは,たとえ意図的ではなかったにせよ,立憲政治の礎としてのマグナ・カルタの輝かしい歴史を生む原因の一つであったことも重視されねばならない。
ジョンは,マグナ・カルタ発布直後にローマ教皇に頼み,その無効宣言をしてもらった。当然内乱となったが,16年10月に王は病死し,ジョン個人に反抗しての内乱は意味を失った。そして11月,未成年王ヘンリー3世を後見することになった貴族たちは,かなりの部分を削除・修正してマグナ・カルタを再発行した。以後マグナ・カルタは17年,25年に若干内容を変えて再発行され,その後は25年のものが現行法としてたびたび確認されている。しかし17世紀まではその役割を過大視してはならない。むしろ中世末から16世紀いっぱいまではマグナ・カルタは現実政治でほとんど何の役割も演じていない。イギリス立憲政治の発展にとって決定的な時期は,ピューリタン革命と名誉革命とで特徴づけられる17世紀である。マグナ・カルタが今日のように立憲政治の礎としての意義をもたされるのは,この時期にスチュアート朝の専制政治と戦った人々がみずからの主張のよりどころをここに求めたことから始まる。彼らの主張は17世紀の2度の革命を通じて勝利を収め,イギリス立憲政治が生まれたが,これを支える一大典拠としてのマグナ・カルタは,1215年当時有していた意義とはほとんどまったく別の新たな意義を与えられるに至り,権利請願と権利章典とともに,イギリス近代立憲政治を支える柱とされ,現在も憲法の一部であると考えられている。しかし当然のことながら,その多くの条項はすでに廃止されているか,現在では適用しえなくなっている。
執筆者:小山 貞夫
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1215年イングランド王ジョンが貴族に強いられて認めた勅許状。調印はウィンザー近くのテムズ河畔のラニミードで行われた。本来は慣習的に認められた貴族,教会,都市の特権の再確認と遵守を求めたものにすぎず,いったん承認したジョンが直後に無効を宣言して再び貴族の反抗を招いた。ヘンリ3世治世初期に改訂され,25年に最終的に確認された。長らく忘れられた文書であったが,17世紀に議会の国王に対する闘争において,法学者クックなどによって,議会の課税同意権,恣意的な逮捕の禁止,法の支配などのイングランド人全般の基本的な権利を定めたものと拡張解釈され,のちにイングランド国制の最重要文書とされるようになった。
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…また諸種の改革を行って封建諸侯や教会勢力を抑え,王権の強大化に努めた。しかしこのことは貴族の反発を招き,彼らはジョン王(欠地王)の失政に反抗して,1215年その要求を〈マグナ・カルタ〉として王に認めさせた。つづくヘンリー3世時代にもシモン・ド・モンフォールを中心に結束して国王を破り,従来の聖職者・貴族の集会に州騎士および都市の代表を加えて国政を議した(1265)。…
…
【基本的人権の成立と発展】
基本的人権の観念は中世ヨーロッパに芽生える。1215年に成立したイギリスのマグナ・カルタは,国王が封建貴族たちの諸要求を承認した契約文書であり,個人の権利・自由を宣言するものではなかったが,後世における解釈と再確認をとおして,その内容上の制約を超えて発展し,権利保護のシンボルとしての意味をもつようになる。17世紀に至り,国民の権利と自由を保障する権利請願(1628),人身保護法(1679),権利章典(1689)が成文法として登場するが,それらは天賦の人権を宣言するのではなく,祖先から継承したイギリス人の権利を確認するものであった。…
…この国制の展開は,しばしば大陸の所領回復を企てて費用調達を迫る国王とこれに反対して改革を唱える諸侯との対立と妥協を契機としている。〈マグナ・カルタ(大憲章)〉〈オックスフォード条項〉などの国王による認可がそれである。 またこの時代はローマ教皇権が強力となり,集権的統治をすすめる国王と対立した。…
※「マグナカルタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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