マワーリー(その他表記)mawālī

改訂新版 世界大百科事典 「マワーリー」の意味・わかりやすい解説

マワーリー
mawālī

アラビア語マウラーmawlāの複数形。マウラーはコーランで,信者の保護者としての神を意味し,イスラム研究者ゴルトツィーハーはその本来の意味は親族であるという。前イスラム時代および初期イスラム時代のアラブ部族社会では,解放された奴隷は自由人になるのではなく,旧主人のマウラー(被護民)とされ,しばしばその家庭内にとどまった。征服戦争の時代には,解放された捕虜も自由人になるのではなく,分配を受けた旧所有者のマウラーとされ,その家の一員とされた。ウマイヤ朝時代から,自由身分のアラブだけでなく,ムアーウィヤ1世のマウラーであったキリスト教徒マンスール父子の例のように,非アラブの非イスラム教徒も,アラブの有力者の保護を受け,そのマウラーとなる者が生じた。このような保護関係をワラー,保護関係を結ぶことをムワーラートといい,保護者に対して被護者,被護者に対して保護者を,いずれもマウラーと呼ぶ。非アラブが改宗してムスリム(イスラム教徒)になるのも,このムワーラートを通じてであり,いわゆるマワーリー問題は,このような非アラブ・ムスリムの増加によって引き起こされた問題である。

 征服地の非アラブ住民の改宗は古くからあったが,それが重大な政治・社会問題となったのは,7世紀末のイラクのサワード地方においてであった。ウマイヤ朝の政治はアラブの非アラブ支配の原則に立ち,アラブは事実上の免税特権を享受し,征服地の非アラブ農民は重いハラージュを支払わされていた。7世紀末のサワードで,多くの農民がハラージュを免れるため農村を逃れてクーファ,バスラに集まったが,アラブの支持を得られなかったムフタールは,クーファで反乱(ムフタールの乱)を起こすにあたり,彼らをディーワーンに登録してアター俸給)を支給し,兵士として利用した。その際,アターを受けるのはアラブ・ムスリムの特権と考えられていたので,これらの非アラブ農民のイスラムへの集団的改宗が行われた。反乱は鎮圧され,イラク総督ハッジャージュ・ブン・ユースフは彼らを農村に追い返し,従来どおりハラージュを徴収し続けた。マワーリーは,同じムスリムの当然の権利として,アラブとの租税負担の平等を求めてやまず,同じような要求は下エジプトでも始められた。またワリード1世の時代に再開された征服に多くのマワーリーが参加したが,彼らにはアターが支給されないことが多く,アラブとの平等を求めるマワーリーの不満は高まり,政府は対策に苦慮した。ウマイヤ朝カリフ,ウマル2世の税制改革はこのような背景のもとに行われ,それは直接マワーリーの不満の解消にならなかったが,それを契機にムスリムの平等がアラブ,非アラブ双方に強く意識され,それはアッバース朝の成立によって実現された。以後,非アラブ・ムスリムを意味するマワーリーという言葉は無意味となって使われなくなり,その後マウラーと呼ばれたのは,アラブ,非アラブに関係なく,カリフをはじめアッバース家有力者の腹心であった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マワーリー」の意味・わかりやすい解説

マワーリー
mawālī

アラビア語マウラー mawlāの複数形で,一般には「主人,保護者」を意味し,また定冠詞を付して「神」をさすこともあるが,歴史上の用語としては逆に「保護を受ける劣った身分の者」をさす。イスラム前のアラブ社会では解放された奴隷の多くは完全な自由人にはなれず,もとの主人の保護下におかれた。このような状態の解放奴隷をマワーリーといった。また大征服により,アラブが西アジアから北アフリカにいたる広大な地域の支配者集団を形成したことにより,非アラブはイスラムに改宗してアラブの保護下に入る必要があった。このようにアラブの集団,または個人の保護下にあった非アラブのイスラム教徒もマワーリーと呼ばれた。マワーリーは同じイスラム教徒ではあっても,アラブから何かにつけ差別され,劣った身分の者として扱われたが,次第に学問,芸術面ですぐれた才能を発揮する者が現れ,軍事面でも重要な地位を占めるようになった。それに伴いマワーリーが都市に集中するようになり,農村を離れて都市でアラブと混って生活するマワーリーの増加は,租税の源である農村の人口減少を招いた。そのため,政府はマワーリーの帰農という強圧対策をとることもあり,またその差別に対する不満もあって「マワーリー」問題はウマイヤ朝時代の重大な政治問題となった。しかし,アラブが次第に混血し,内部抗争も行われて,支配者集団としてのまとまりを失うにつれて,アラブにもマワーリーにも非イスラム教徒にも同一の土地税が課せられるようになり,アラブとマワーリーの差別は事実上解消していった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マワーリー」の解説

マワーリー
mawālī

非アラブ人のイスラーム改宗者
征服地の非アラブ人住民の改宗は進んでいたが,マワーリーという言葉が注目されたのは,改宗者が増加して問題化したウマイヤ朝時代である。ウマイヤ朝治下で,イスラームに改宗してもジズヤやハラージュを課せられていたマワーリーは,平等を求めて不満を募らせた。次のアッバース朝が税制や官職就任面で差別を解消したため,この言葉は使われなくなった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マワーリー」の解説

マワーリー
mawālī

イスラーム社会における公的な保護‐被保護関係(ワラー)の当事者である主人と被保護者双方をマウラー(mawlā,複数形がマワーリー)と称する。主に契約や奴隷の解放によって生じ,その関係は子孫に相続される。改宗者をさすこともある。アッバース朝以降,社会進出をとげた。

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世界大百科事典(旧版)内のマワーリーの言及

【ウマイヤ朝】より

…次のワリード1世(在位705‐715)の時,征服が再開されて同朝は最盛期を迎えた。以後,国家の創建以来続いていた政府とアラブ部族民の対立,アラブ諸部族間の反目,シーア派やハワーリジュ派の反政府活動,非アラブ・ムスリムのマワーリーの不満,ウマイヤ家一族内の対立などが相関しあい,帝国の支配体制は弛緩した。ヒシャームHishām b.‘Abd al‐Malik(691‐743。…

【書記】より

…【梅原 郁】
[イスラム社会]
 アラビア語で書記あるいは秘書をカーティブkātibとよび,軍人に対して〈筆の人〉と総称され,イスラム諸王朝の技術官僚として活躍した。公文書の作成は,ムハンマド時代以来一貫してアラブ人によって行われたが,地方の行政文書や租税台帳は,初期の時代には中世ペルシア語,シリア語,コプト語などをよくする現地人の非イスラム教徒によって作成され,8世紀以後,ディーワーンのアラブ化とイスラム化につれて現地人マワーリーとアラブ人ムスリムの書記が増大した。アッバース朝(750‐1258)時代になって官僚機構が発達すると,ペルシア人マワーリーが有力な書記階級を形成し,シュウービーヤ運動やアダブ(アラブの言語文化全体,教養を表す)文学の担い手となる者もあった。…

【食客】より

居候【川勝 義雄】
[アラブ社会]
 アラブ社会では7世紀末から,総督その他の有力者が私的軍団を持ち始めた。兵士の大部分は解放奴隷,逃亡農民からなる非アラブのマワーリーであったが,上層部には有力者と同じ部族に属するアラブのアスハーブaṣḥāb(仲間)および選ばれたマワーリーがおり,ともに有力者の最も信頼する腹心の部下だった。有力者はつとめてアスハーブおよび選ばれたマワーリーと食事をともにし,財貨を分け与え,必要の際の忠誠を期待した。…

【ムフタールの乱】より

…アリーの子フサインの血の復讐を求め,685年10月,ウマイヤ朝の総督を追放しクーファに政権を樹立し,一時はバスラを除くイラク南半とペルシア南西部を支配した。フサイン殺害に関係した者を処刑する一方,勢力拡大のため,これまでアラブの特権であったアター(俸給)受給の権利をマワーリーにも及ぼし,彼らを兵力として利用した。これがクーファの貴族層アシュラーフの反感・離反を招き,イブン・アッズバイルの弟ムスアブの率いる討伐軍に敗れ戦死した。…

※「マワーリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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