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ミュンヘン会談 ミュンヘンかいだん Munich Conference

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ミュンヘン会談
ミュンヘンかいだん
Munich Conference

1938年9月 29~30日,ミュンヘンで行われたズデーテン地域 (ドイツと国境を接したチェコスロバキア北西部) の帰属をめぐる英仏伊独の首脳会議。同地域には中世以来ドイツ人が植民,定着していたが,第1次世界大戦後同地域がチェコスロバキア領となったため,K.ヘンラインを党首とするズデーテン・ドイツ人党が結成され,版図の拡大をはかる A.ヒトラーのひそかな支援のもとに,38年4月 24日民族自決権を要求した。

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デジタル大辞泉の解説

ミュンヘン‐かいだん〔‐クワイダン〕【ミュンヘン会談】

1938年、ミュンヘン開かれたドイツ・イギリスフランスイタリア首脳会談ヒトラーの要求を入れてチェコスロバキアのズデーテン地方のドイツへの割譲を決めた。イギリス側の対独宥和(ゆうわ)政策の頂点を示すとされる。

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百科事典マイペディアの解説

ミュンヘン会談【ミュンヘンかいだん】

1938年ミュンヘンで開かれた英・仏・独・伊の首脳会談。チェンバレンダラディエ,ヒトラー,ムッソリーニが出席。ドイツが,チェコスロバキアのズデーテン地方を併合する意図を明らかにしたために激化した緊張を緩和する目的で開かれた。
→関連項目第2次世界大戦ダラディエチェコスロバキア独ソ不可侵条約ベネシュ

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世界大百科事典 第2版の解説

ミュンヘンかいだん【ミュンヘン会談】

1938年9月29日,ミュンヘンで開かれたドイツ総統ヒトラー,イギリス首相A.N.チェンバレン,フランス首相ダラディエ,イタリア首相ムッソリーニの四大国首脳会談。翌30日未明,チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲する,いわゆるミュンヘン協定(日付は9月29日)が締結された。イギリスとフランスがドイツ,イタリアに対してとってきた,弱小国を犠牲にして侵略者と妥協しようとした宥和(ゆうわ)政策ピークであった。

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大辞林 第三版の解説

ミュンヘンかいだん【ミュンヘン会談】

1938年、チェコスロバキア領ズデーテン地方のドイツ併合問題をめぐり、独・英・仏・伊の首脳がミュンヘンで行なった会談。ヒトラーの要求が承認され、ナチスの侵略外交を増長させる結果となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ミュンヘン会談
みゅんへんかいだん

1938年ドイツのミュンヘンにおいて、当時チェコスロバキア領であったズデーテン地方をナチス・ドイツに割譲することを決めたイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの四国会談。
 1933年にドイツで政権をとったヒトラーの対外侵略計画の当面の目標は、37年11月5日の秘密演説に示されているように、オーストリア、チェコスロバキアの併合であった。この計画どおり38年3月13日のオーストリア併合後、ドイツの侵略の手はチェコスロバキアに伸びていった。チェコスロバキアの内部では、ドイツと国境を接するズデーテン地方のドイツ人の間でつくられたズデーテン・ドイツ人党(指導者ヘンライン)がナチスと連絡をとりつつ、4月に「カールスバート綱領」を作成、自治を求める姿勢を示したが、その目的はドイツによる同地方併合のきっかけをつくることであった。ズデーテン地方をめぐる危機がヨーロッパでの戦争につながるのを恐れて、英・仏政府がズデーテン・ドイツ人党への譲歩をチェコスロバキア政府に働きかける方針をとったこともあり、チェコスロバキア政府は9月6日、「カールスバート綱領」の要求に沿う案をズデーテン・ドイツ人党側に提示した。ヒトラーを背後にしたヘンラインは、もちろんこのような形での収拾を望まず、交渉打ち切りを通告、ヒトラーも同月12日ズデーテン・ドイツ人の民族自決(ドイツとの合併)を求める演説を行った。このようにして危機が深化するなかで、イギリス首相N・チェンバレンはヒトラーとの会見を希望し、15日にベルヒテスガーデンで会談をもった。ここでヒトラーは、ズデーテン地方のドイツへの併合要求を正式に提示、それを受けた英・仏政府は、この要求を飲むようにチェコスロバキア政府に圧力をかけた。チェコスロバキア政府はやむなく21日にそれを承諾したが、22~23日にゴーデスベルクで再度開かれた会談で、ヒトラーはチェンバレンに対して、ズデーテン地方の引き渡し時期を早めるなど、さらに拡大した要求を突きつけた。
 これによって緊張が戦争前夜を思わせる状況にまで高まるなかで、当事国のチェコスロバキアとその同盟国ソ連を除外し、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの四国によって開かれたのが、ミュンヘン会談である。会談は、9月29~30日に行われ、ゴーデスベルクでのヒトラーの要求を大幅に受け入れる形で、ズデーテン地方のドイツへの割譲を決定した。これはドイツの侵略に対する宥和(ゆうわ)政策の頂点となるできごとであったが、その時点では戦争の危険が回避されたことに注意が集まり、チェンバレンは「われわれの時代の平和」を唱えて、イギリス国民の賞賛を浴びた。[木畑洋一]
『斉藤孝著『第二次世界大戦前史研究』(1965・東京大学出版会) ▽綱川政則著『ヒトラーとミュンヘン協定』(教育社歴史新書)』

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世界大百科事典内のミュンヘン会談の言及

【スペイン内乱】より

…一般に〈エブロ川の戦〉と呼ばれるこの戦闘は,内乱における最後の大規模な戦いであり,まさに全面戦争であった。 エブロ川の戦の最中,38年9月に開かれたミュンヘン会談は,西欧民主主義国がヒトラーと対決する用意がないことを示した。戦局の劣勢を挽回する唯一の活路を西欧諸国の対ドイツ戦争に求めていた共和国政府は,この結果,運命を自らの手で切り開かねばならなかった。…

【戦間期】より

…37年11月ヒトラーは秘密会議の席上,オーストリアおよびチェコスロバキアの占領計画を打ち明けていたが,果たせるかな38年3月オーストリアを併合し,次にチェコスロバキアのズデーテン・ドイツ人党を使嗾(しそう)して自治を要求させ,混乱に乗じての介入をねらった。共産主義よりもナチズムを〈より小さな悪〉として選んだイギリス保守党政府はチェコスロバキア政府に圧力をかけて対独譲歩に同意させたが,最後には38年9月,イギリス,フランス,ドイツ,イタリアの4ヵ国会談でズデーテン地方のドイツへの割譲を一方的に決定した(ミュンヘン会談)。この動きからソ連が一貫して排除されたことは宥和政策の反ソ的性格を雄弁に物語るものであり,それまで現状維持陣営にコミットしていたソ連は徹底した現実政策に立ち戻るほかなかった。…

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