歴史上,ナチス・ドイツの攻撃的な対外膨張に直面したイギリス政府が,話合いでドイツの望むものを探り,妥協をもって現状の修正を図りつつドイツを満足させ,戦争を回避しようとした政策を指す。
第1次大戦後の講和条約で大きな制約を課せられていたドイツであったが,ヒトラーは実力でベルサイユ体制の打破をめざした。ベルサイユ条約を次々に破棄しロカルノ条約に敵対して,1935年ドイツは再軍備を宣言し,翌年ラインラントに進駐,38年にはオーストリアを併合した。しかし,第1次大戦の記憶からイギリス,フランス国民の平和への願いは強く,政治指導者の宥和政策を支持した。ドイツをソ連のボリシェビズムに対する防波堤とみる見解もこれを後押しした。
こうした展開は38年9月29日ミュンヘン会談で頂点に達する。戦争も辞さずにチェコを占領しようとするヒトラーに,チェコ領の段階的占領を条件としたイギリス,フランスは,戦争に訴えないことを約束させた。チェコを犠牲にした平和の救済は,国民に歓呼で迎えられた。だが39年3月ドイツ軍はプラハに侵攻し,ミュンヘン協定を踏みにじってチェコスロバキアを解体した。これを受けて宥和政策の変更は余儀なくされ,イギリスはポーランド,ルーマニア,ギリシアに軍事保障を与えた。5ヵ月後,ドイツ軍のポーランド侵略により第2次大戦へ突入する。
以上の経験をもとに,国際的に拡張主義をとる勢力がとくに周辺の弱小国を影響下に置こうとするような場合,目をつむり対立を回避してその行動を許してしまう政策を,批判的に宥和政策と呼ぶ。A.N.チェンバレンを非難したチャーチルが,第2次大戦中のイギリスを指揮し徹底的にドイツと戦い,同様に宥和を嫌ったイーデンが戦後スエズ紛争の際に強硬な態度をとったのは,歴史の教訓であったともいえる。
→第2次世界大戦
執筆者:竹中 千春
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一般的には、自己の要求と矛盾する要求を抱く相手方との間で妥協点をみいだし、摩擦を回避していく政策をさすが、とくに1930年代に、いわゆる「持たざる国」のドイツ、イタリア、日本の侵略的対外膨張を、「持てる国」のイギリス、フランス、アメリカ合衆国が許容し、結果的に第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)を招いた政策をさすことが多い。1931年に開始された満州事変に際して、イギリスなどは、国際連盟で対日制裁を求める国々を抑えて日本への妥協的姿勢を取り続けたし、35年のイタリアによるエチオピア侵略にあたっても、侵略を容認する「ホーア‐ラバル案」が英仏の首脳の間で作成された。宥和政策が頂点に達したのは、ドイツによるチェコスロバキアのズデーテン地方併合を英仏が認めた38年9月のミュンヘン会談である。宥和政策には、このように侵略による領土拡大を容認する「政治的宥和」のほか、「持たざる国」の経済的不満を解消しようとする「経済的宥和」、植民地を取引材料に用いる「植民地宥和」が存在した。イギリスのN・チェンバレンなど宥和政策を積極的に推進した人々は、これらの方策によって、相手国内の穏健派が力を増し、対外侵略の勢いが弱まることを期待したが、実際にはこの政策によって日独伊の侵略衝動はいっそう刺激されることになった。
[木畑洋一]
『斉藤孝著『第二次世界大戦前史研究』(1965・東京大学出版会)』
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宥和政策とは一般には和解政策,妥協政策ともいうべき意味であるが,歴史的には第二次世界大戦前史において,ナチスに対してイギリス,フランス(特に前者)がとった妥協政策をさしている。ナチスの要求を認められるかぎり認めて満足させ,ヨーロッパの平和を維持しようとしたものであるが,結果的に小国を犠牲とし国際民主主義を蹂躙(じゅうりん)して,ヒトラーを増長させ,結局第二次世界大戦を招くことになった。ミュンヒェン会談はこの宥和政策の頂点として知られている。
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…日英同盟の締結(1902)は,〈光栄ある孤立〉政策修正への第一歩であった。第1次世界大戦後のイギリスは,バランサーの実力に欠けた条件下で,ヨーロッパ大陸に勢力の均衡をなおも試みたが,結局は対独〈宥和政策〉として失敗した。(3)現実主義 政策決定におけるイギリス外交の特色は現実主義であり,しばしば諸外国から〈不実のアルビオン〉とか偽善者と非難された。…
…なお日本の全面的な中国侵略の開始(1937年7月)に対してF.ローズベルトは10月,有名な〈隔離演説〉で日本の危険性に警告し,その後きわめて慎重ながら,まだ圧倒的な孤立主義的ムードに抗して,極東政策の軌道修正に入った。
[宥和政策の失敗と独ソ不可侵条約]
1930年代後半の世界は,こうして共産主義,自由主義,ファシズムの三大勢力の角逐の場となっており,イデオロギーと権力政治が複雑なパターンを織り成すようになった。37年11月ヒトラーは秘密会議の席上,オーストリアおよびチェコスロバキアの占領計画を打ち明けていたが,果たせるかな38年3月オーストリアを併合し,次にチェコスロバキアのズデーテン・ドイツ人党を使嗾(しそう)して自治を要求させ,混乱に乗じての介入をねらった。…
※「宥和政策」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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