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宥和政策 ユウワセイサク

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デジタル大辞泉の解説

ゆうわ‐せいさく〔イウワ‐〕【×宥和政策】

現状を打破しようとして強硬な態度をとる国に対して、譲歩することで摩擦を回避していく外交政策ナチスドイツの要求を認めたミュンヘン会談がその典型。

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百科事典マイペディアの解説

宥和政策【ゆうわせいさく】

appeasement policyの訳。第2次大戦前に英・仏がドイツに対してとった妥協政策。英・仏はドイツの侵略政策に直面し,ミュンヘン会談などで小国を犠牲として一時的な平和を得ようとしたが,かえってドイツの強大化を許し,第2次大戦を招くことになった。
→関連項目第2次世界大戦チェンバレンチャーチル仏ソ同盟

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世界大百科事典 第2版の解説

ゆうわせいさく【宥和政策 appeasement policy】

歴史上,ナチス・ドイツの攻撃的な対外膨張に直面したイギリス政府が,話合いでドイツの望むものを探り,妥協をもって現状の修正を図りつつドイツを満足させ,戦争を回避しようとした政策を指す。 第1次大戦後の講和条約で大きな制約を課せられていたドイツであったが,ヒトラーは実力でベルサイユ体制の打破をめざした。ベルサイユ条約を次々に破棄しロカルノ条約に敵対して,1935年ドイツは再軍備を宣言し,翌年ラインラントに進駐,38年にはオーストリアを併合した。

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大辞林 第三版の解説

ゆうわせいさく【宥和政策】

他国の強硬な外交政策に対して、ある程度の譲歩をして衝突を避け、当面の安定を維持しようとする外交政策。第二次大戦前にイギリスがドイツに対してとった政策に代表される。アピーズメント-ポリシー。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

宥和政策
ゆうわせいさく

アピーズメント・ポリシー」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宥和政策
ゆうわせいさく
Appeasement Policy

一般的には、自己の要求と矛盾する要求を抱く相手方との間で妥協点をみいだし、摩擦を回避していく政策をさすが、とくに1930年代に、いわゆる「持たざる国」のドイツ、イタリア、日本の侵略的対外膨張を、「持てる国」のイギリス、フランスアメリカ合衆国が許容し、結果的に第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)を招いた政策をさすことが多い。1931年に開始された満州事変に際して、イギリスなどは、国際連盟で対日制裁を求める国々を抑えて日本への妥協的姿勢を取り続けたし、35年のイタリアによるエチオピア侵略にあたっても、侵略を容認する「ホーア‐ラバル案」が英仏の首脳の間で作成された。宥和政策が頂点に達したのは、ドイツによるチェコスロバキアのズデーテン地方併合を英仏が認めた38年9月のミュンヘン会談である。宥和政策には、このように侵略による領土拡大を容認する「政治的宥和」のほか、「持たざる国」の経済的不満を解消しようとする「経済的宥和」、植民地を取引材料に用いる「植民地宥和」が存在した。イギリスのN・チェンバレンなど宥和政策を積極的に推進した人々は、これらの方策によって、相手国内の穏健派が力を増し、対外侵略の勢いが弱まることを期待したが、実際にはこの政策によって日独伊の侵略衝動はいっそう刺激されることになった。[木畑洋一]
『斉藤孝著『第二次世界大戦前史研究』(1965・東京大学出版会)』

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世界大百科事典内の宥和政策の言及

【イギリス】より

…日英同盟の締結(1902)は,〈光栄ある孤立〉政策修正への第一歩であった。第1次世界大戦後のイギリスは,バランサーの実力に欠けた条件下で,ヨーロッパ大陸に勢力の均衡をなおも試みたが,結局は対独〈宥和政策〉として失敗した。(3)現実主義 政策決定におけるイギリス外交の特色は現実主義であり,しばしば諸外国から〈不実のアルビオン〉とか偽善者と非難された。…

【戦間期】より

…なお日本の全面的な中国侵略の開始(1937年7月)に対してF.ローズベルトは10月,有名な〈隔離演説〉で日本の危険性に警告し,その後きわめて慎重ながら,まだ圧倒的な孤立主義的ムードに抗して,極東政策の軌道修正に入った。
[宥和政策の失敗と独ソ不可侵条約]
 1930年代後半の世界は,こうして共産主義,自由主義,ファシズムの三大勢力の角逐の場となっており,イデオロギーと権力政治が複雑なパターンを織り成すようになった。37年11月ヒトラーは秘密会議の席上,オーストリアおよびチェコスロバキアの占領計画を打ち明けていたが,果たせるかな38年3月オーストリアを併合し,次にチェコスロバキアのズデーテン・ドイツ人党を使嗾(しそう)して自治を要求させ,混乱に乗じての介入をねらった。…

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