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チェコスロバキアの政治家。ボヘミアの農村の生れ。ヨーロッパ各地で学び,法律学と哲学を修め,1909年にプラハの商科大学教授となった。第1次世界大戦が始まると,マサリクらの独立運動に身を投じ,15年には西欧に亡命し,連合国との交渉にあたった。18年のチェコスロバキア独立とともに外相に就任した。国際連盟の場で,小国の利益を代弁し,連盟の強化を唱えると同時に,パリ平和条約で生み出されたいわゆるベルサイユ体制の維持を目的として,ユーゴスラビア,ルーマニアとの間に小協商と呼ばれる同盟をも結び,さらに列強の中ではフランスとの関係を重視した。35年には大統領に就任したが,38年にナチス・ドイツに譲歩してズデーテンの割譲を認めたミュンヘン協定(ミュンヘン会談)が結ばれると,ロンドンへ亡命した。第2次世界大戦が勃発すると,亡命政権を組織し,45年祖国が解放されるに及んで再び大統領として帰国した。48年には共産党の大衆動員に直面し,結局共産党を中心とする新政権に権力を委譲し,辞任した。
執筆者:稲野 強
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1884~1948
チェコスロヴァキアの政治家。ボヘミア出身。プラハおよびフランスで哲学,法学を修め,1912年にプラハ大学で社会学講師となる。第一次世界大戦勃発後に国外でマサリクに協力して独立運動を進め,連合国に協力。18年のチェコスロヴァキア独立後に外相として19年のパリ講和会議に参加。国際連盟代表としても活躍。小国の利益を擁護し,21年には小協商を成立させる。列強のなかではフランスとの関係を重視したが,ソ連との同盟をも堅持した。1935~38年に大統領職にあったが,38年9月のミュンヒェン協定成立により,辞任し亡命。第二次世界大戦期にはロンドン亡命政権を組織した。戦後大統領に復帰し,国民戦線政府を率い,東西陣営の仲介を行ったが,48年2月のチェコ革命後に辞任した。
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旧チェコスロバキアの政治家。ボヘミアの農民の出。プラハとパリで学び、1909年からプラハの経済アカデミーで教鞭(きょうべん)をとる。第一次世界大戦中はマサリクらとともに国外での独立運動の指導者となった。独立後、外相(1918~35)、首相(1921~22)となり、35年から大統領。この間、一貫して当時のチェコスロバキア外交を指導した。西欧列強、とくにフランスとの関係を重視し、東欧ではユーゴスラビア王国、ルーマニアとの間に小協商を結成し、さらにソ連との関係改善にも努力した。また国際連盟でも小国の利益の代弁者として活躍。38年のミュンヘン会議のあと、ロンドンに亡命。45年の解放と同時に帰国し、ふたたび大統領となったが、48年2月の共産党による革命ののちに辞任。同年9月、失意のうちに世を去った。
[林 忠行]
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…この呼称はハンガリー人ジャーナリストが1920年に嘲笑(ちようしよう)気味に用いたのが最初とされる。オーストリアとハンガリーによるハプスブルク帝国再建を阻止することを目的として,チェコスロバキアの外相ベネシュが中心となり,ハンガリーの領土回復要求に脅威を感じるユーゴスラビアやルーマニアと相互援助を取り決めるための交渉に入った。その結果,20年8月チェコスロバキアとユーゴスラビア間に,ハンガリーの攻撃に対する相互援助条約が締結された。…
…初代蔵相ラシーンの通貨政策,デフレ政策は,失業問題などを深刻化したものの,戦後インフレの克服,通貨コルナの地位向上に貢献した。 新興独立国チェコスロバキアの存立には安定した国際環境が必要で,長期にわたって外相をつとめたベネシュは,戦後国際体制の現状維持を図り,国際連盟を重視した。また,ハプスブルク帝国の復活を防ぐため,1920年ユーゴスラビアと,21年ルーマニアと対ハンガリー防御同盟を結び,小協商が成立した。…
※「ベネシュ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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