翻訳|Miranda
ラテン・アメリカ独立運動の先駆者の一人。ベネズエラのカラカス出身。スペインに留学し,のちスペイン軍に入隊して少佐に昇進。アメリカ合衆国を旅行したり,フランス革命に参加して祖国独立への意志を固め,東奔西走ののちイギリスの援助を得て,1806年祖国の解放を企てたが,国内の支援を得られず失敗した。しかし,ナポレオンのスペイン侵入をきっかけに革命運動が起こり,11年カラカス市民は独立を宣言した。帰国したミランダは革命軍司令官に任命された。しかし,翌年3月大地震がカラカスを襲い,これを契機に植民地政府軍の残党は反撃に転じた。同年6月,革命軍はラ・グアイラの戦で敗北し,彼は降伏文書に署名した。国外への脱出を革命軍の同志に阻止されて植民地政府に逮捕され,4年後スペインのカディスで獄死した。
執筆者:上谷 博
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ベネズエラの軍人、独立戦争の先駆者。カラカスの富裕なクリオーリョ(植民地生まれの白人)の家庭に生まれる。大学で哲学を修めたのち、1771年スペインに渡り入隊した。アメリカ独立戦争に参加し、81年ペンサコーラ奪回の戦いで功をたて陸軍中佐となった。その後ハバナとカルタヘナで密貿易、危険思想などの罪名を着せられ、植民地を追放された。欧米諸国で南米解放運動の資金調達に明け暮れたが満足せず、ふたたびアメリカに渡りジェファソン大統領の協力を得て、1806年200人の兵士をオクマレに上陸させた。しかし国内の反植民地運動が熟さず、国外からの進攻作戦はすべて失敗に帰した。イギリスに逃れた彼はボリーバル将軍に出会い、11年に独立運動の激化したベネズエラに戻り頭領として戦争を指揮した。しかしスペイン軍を封じることができず、秘密の降伏文書に調印したため裏切り者の烙印(らくいん)を押され、スペイン軍に引き渡された。身柄はカディスに移され、数年後に獄死した。
[寿里順平]
ポルトガルの詩人。スペイン、イタリアに遊学し、ルネサンスの先覚者としてポルトガル詩壇に大きな影響を及ぼした。ソネット(14行詩)、三行詩、八行詩などイタリアの新しい詩型を故国に紹介し、『詩集』(1595)のほかに散文による二編の古典喜劇『異邦人』(1559)、『ビリャルパンド家の人々』(1560)を書いた。
[濱口乃二雄]
「クレデンダ」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…1966年と2008年は赤道が太陽を向き,1985年は北極が,2030年は南極が太陽に向く。 天王星は,ミランダ,アリエル,ウンブリエル,チタニア,オベロンという衛星をもっているが,みな数百kmの半径をもつ比較的小さい衛星である。このほか,ボエジャー2号が発見した半径数十kmの衛星が10個ある。…
…ナチスやイタリアのファシズムの台頭は,欧米の研究者の強い関心を引き起こした。C.E.メリアムは権威主義をつくりだした状況をクレデンダcredendaとミランダmirandaで説明した(《政治学原理Political Power》1934)。ミランダとは,芸術,儀式,歴史の美化,大衆動員などによる威力誇示によって大衆の情動に訴え,権力が神聖,壮大なもの,調和をもたらす美的なものとして正統化される状況である。…
…ボリーバルはロンドンに使者として赴き,イギリス王室に独立の承認と援助を求めたが成功しなかった。しかし当時ベネズエラ解放に失敗してロンドンに亡命していたフランシスコ・デ・ミランダを説得して帰国させ独立運動を指導させた。11年7月ベネズエラは独立を宣言し,ボリーバルは独立軍の将校となった。…
※「ミランダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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