モスクワ遠征(読み)モスクワえんせい

百科事典マイペディアの解説

モスクワ遠征【モスクワえんせい】

1812年5〜12月,フランス皇帝ナポレオン1世が大陸封鎖令に従わぬロシアに対し60万余の軍隊を率いて行った遠征。一時モスクワを占領したがロシア軍(総司令官クトゥーゾフ)の焦土作戦のため糧食に不足し,厳冬の到来を恐れて退却。帰途コサックや農民ゲリラの襲撃で多くの死者を出して敗走。ロシアではこの戦いを〈祖国戦争〉と呼ぶ。
→関連項目アレクサンドル[1世]デカブリストナポレオン戦争モスクワロシア

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世界大百科事典 第2版の解説

モスクワえんせい【モスクワ遠征】

ナポレオンによる1812年のロシアへの遠征。ロシアでは一般に祖国戦争Otechestvennaya voinaという。ロシア皇帝アレクサンドル1世従来のいきさつからナポレオンの大陸封鎖に従った。しかしそれはロシアの経済体制を根本的にゆるがすことであった。したがってアレクサンドル1世は密貿易を黙認し,1810年にはイギリスとの貿易を再開し,対フランス戦争の準備も進めた。一方,ナポレオンの参謀の多くは対ロシア戦争に批判的であったが,征服欲にかられたナポレオンは短期戦で終了しうると考え,59万1000の〈大陸軍〉を率いて,12年6月,ネマン川渡り,モスクワ遠征を開始した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

モスクワ遠征
もすくわえんせい

1812年にナポレオン1世が行ったロシアに対する遠征。ロシア遠征ともいう。ナポレオンは、1806年11月のベルリン勅令で大陸封鎖を宣言し、翌年のティルジット条約によってロシアにも協力を約させたが、穀物輸出国であるロシアがこれに従わなかったため、12年、64万の大軍を率いてロシアに攻め込んだ。兵力の半分はポーランド、オーストリア、ドイツ、イタリア、スペイン等の同盟国軍であった。ロシア側は、スウェーデン、イギリス、スペインと同盟を結ぶ一方、バルクライ・デ・トーリ将軍麾下(きか)の第一西部軍(12万7000)、バグラチオン将軍の第二軍(4万5000~4万8000)、トルマソフ将軍の第三軍(4万3000~4万6000)など約23万をもって防衛にあたった。同年6月24日、ネマン川を越えたナポレオン軍は、ビルノ、スモレンスクを経て進撃し、総司令官クトゥーゾフ将軍の率いるロシア軍と9月7日ボロジノで交戦、多大の損害を出しながらも、9月14日モスクワに入城した。
 だが、ナポレオンの和平交渉の呼びかけはアレクサンドル1世によって無視され、またモスクワが原因不明の大火で炎上して糧食が乏しくなったのみならず、冬も間近に迫ったので、ナポレオンは10月19日モスクワ撤退に踏み切った。退却は、ロシア軍の追撃と農民のゲリラ攻撃により悲惨を極め、ネマン川を越えて逃げ帰ることのできたのはわずか2万5000人にすぎなかったという。捕虜10万を含めて55万人がこの遠征で失われたともいわれる。遠征は、2年後のナポレオン没落の遠因となった。[栗生沢猛夫]

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精選版 日本国語大辞典の解説

モスクワ‐えんせい ‥ヱンセイ【モスクワ遠征】

一八一二年にナポレオン一世が行なったロシア遠征。ロシアのアレクサンドル一世が大陸封鎖に反抗したのに対して、ナポレオンが大軍を率いて五月にパリを発し、九月モスクワを占領したが、厳しい寒気とロシア側の焦土作戦にあって退却、一二月パリに帰国した。ナポレオン衰退の契機となった戦い。

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