モロトフ(英語表記)Vyacheslav Mikhailovich Molotov

精選版 日本国語大辞典 「モロトフ」の意味・読み・例文・類語

モロトフ

(Vjačjeslav Mihailovič Molotov ビャチェスラフ=ミハイロビチ━) ソ連政治家本姓スクリャービン。一九〇六年ロシア社会民主労働党に入党十月革命コミンテルン常任委員、三〇~四一年人民委員会議長(首相)。三九年以降は外務人民委員(外相)を兼ね、スターリン片腕として、第二次世界大戦前夜、戦中戦後のソ連外交指導した。スターリン死後も外相・副首相となり、モンゴル人民共和国駐在大使などを歴任した。(一八九〇‐一九八六

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デジタル大辞泉 「モロトフ」の意味・読み・例文・類語

モロトフ(Vyacheslav Mikhaylovich Molotov)

[1890~1986]ソ連の政治家。1930年ソ連邦人民委員会議議長に就任、1939年外務人民委員として独ソ不可侵条約締結。第二次大戦中、戦後を通じてソビエト外交を指導し、スターリンを補佐してきたが、フルシチョフ時代に失脚した。

モロトフ(Molotov/Молотов)

ロシア連邦の都市ペルミ旧称

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改訂新版 世界大百科事典 「モロトフ」の意味・わかりやすい解説

モロトフ
Vyacheslav Mikhailovich Molotov
生没年:1890-1986

ソ連邦の政治家。1906年社会民主労働党に入党。15年流刑先のシベリアから脱走してペトログラードで地下活動に従事し,十月革命ではまず同市軍事委員会委員,ついで北ロシア,ボルガ,ドネツ地方で活躍した。21年共産党中央委員兼書記,26年政治局員へと昇進した。コミンテルンでも27年以降,連続して執行委員会幹部会のメンバーに選ばれ,29年ブハーリン失脚後,事実上の指導者となったが,30年人民委員会議議長(首相)に就任して第一線から退いた。終始スターリンの政策の忠実かつ冷酷な執行者の役割に徹し,39年5月から外務人民委員を兼ね,同年独ソ不可侵条約を締結して世界を驚倒させた。41年スターリンに人民委員会議議長の職を譲り,みずからは外交部門の指揮に当たり,独ソ戦が勃発すると国家防衛委員会副議長として議長スターリンを補佐し,また戦中から戦後の対英米折衝でしたたかな交渉ぶりを発揮した。スターリンの死(1953)後も集団指導制の一角を占めたが,57年フルシチョフ追落しの〈反党グループ〉の主謀者としてモンゴル大使に左遷された。のち国際原子力機関代表を最後に,62年年金生活に入った。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モロトフ」の意味・わかりやすい解説

モロトフ
Molotov, Vyacheslav Mikhailovich

[生]1890.3.9. ブヤトカ,クカルカ
[没]1986.11.8. モスクワ
ソ連の政治家。本名 V.M.Skryabin。 1906年カザン中学に入学,同年ボルシェビキに加入。 09年逮捕,流刑となり,11年釈放。その後ペテルブルグの高等工業学校に学び,ボルシェビキの常勤オルガナイザーとなった。 17年の十月革命後共産党の地方組織の種々のポストを歴任。 26年政治局員。 30~41年人民委員会議議長 (首相) 。 39年5月外務人民委員を兼ね,同年8月独ソ不可侵条約を締結。 41年5月 I.スターリンの首相就任に伴い第一副首相兼外相。 49年第一副首相専任。 53年 G.M.マレンコフ内閣の第一副首相兼外相。スターリンの忠実な片腕として活躍したが,スターリンの死後その威信も衰え,55年自己批判を余儀なくされ,56年外相を辞任。 57年6月党中央委員を含むすべてのポストを剥奪され,モンゴル大使に就任。 61年の第 22回党大会を前にして新綱領草案を修正主義と批判する意見書を送ったため,政治的に完全に失脚,年金生活に入った。 64年党籍剥奪が明らかになった。 84年に復党。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「モロトフ」の解説

モロトフ
Viacheslav Mikhailovich Molotov (本名 Skriabin)

1890~1986

ソ連の政治家。1906年にロシア社会民主労働党入党。16年ボリシェヴィキ党中央委員会ビューローの一員となり,二月革命を迎える。十月革命時は軍事革命委員会の一員。26年政治局員となり,スターリンの片腕として活躍。30年首相(~41年),39年には外務人民委員となり,第二次世界大戦前夜,戦中,戦後のソ連外交を指導した。スターリン死後も副首相兼外相であったが,57年に失脚。

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百科事典マイペディア 「モロトフ」の意味・わかりやすい解説

モロトフ

ソ連の政治家。学生時代から共産党活動に参加,十月革命ではペテルブルグで革命を指導。1921年党中央委員,1926年政治局員。さらに首相(1930年―1941年),外相(1939年―1949年,1953年―1956年)として内政・外交を指導。1957年反党グループとして失脚,1961年党から除名。
→関連項目日ソ中立条約ベリヤ

モロトフ

ペルミ

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旺文社世界史事典 三訂版 「モロトフ」の解説

モロトフ
Vyacheslav Mikhailovich Molotov

1890〜1986
旧ソ連の政治家
1906年ボリシェヴィキに入り,ロシア革命に参加し,その後共産党の要職を歴任。1930年には人民委員会議長,さらに39年外相に就任してからは,ソ連外交の中心として第二次世界大戦中,テヘラン・ヤルタ・ポツダムの諸会談に出席。スターリン死後,フルシチョフ路線に反対したため,1956年外相を解任され,失脚して61年に除名された。

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世界大百科事典(旧版)内のモロトフの言及

【ペルミ】より

…中部ウラル地方の西側にあり,人口109万3000(1993)。旧名モロトフMolotov(1940‐57)。カマ川とその支流チュソバヤ川の合流点の少し下流に位置し,市街地はカマ川両岸にまたがるが,東岸のほうが大きい。…

【ソビエト連邦】より

…スターリン批判はハンガリー事件のように東ヨーロッパでの動揺を呼び起こし,それがソ連国内の再引締めを招いた。しかし,スターリン派のモロトフらがフルシチョフ追落しを策して,逆に失脚すると,フルシチョフの地位は盤石のものとなり,58年ブルガーニンから首相の職を取り上げ,党第一書記と兼任するにいたった。 彼は平和共存を唱えて,59年にはアメリカを訪問した。…

※「モロトフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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