アメリカの物理学者。ボストンに生まれる。ハーバード大学で学んだのち、イギリスのキャベンディッシュ研究所、ドイツのゲッティンゲン大学に留学。帰国してハーバードに戻り、1925年まで教授職を務める。1910~1947年ジェファソン物理学研究所長。凹面回折格子を用いた真空分光器を製作し、紫外線スペクトルの精密測定を行い、1906年波長1200~600オングストロームの間にあるライマン系列を発見した。その後も分光学的研究を続け、1914年にはボーアが予想した水素原子の遠紫外スペクトル線を発見した。
[兵藤友博]
アメリカの地質学者、鉱山学者。日本名を来曼と書く。マサチューセッツ州ノーサンプトンに生まれ、ハーバード大学、フライベルクの鉱山学校に学んだ。ペンシルベニア州の地質調査、インド、パンジャーブの石油調査ののち、1872年(明治5)開拓使の招きにより北海道で石炭調査に従事した。1876年工務省の依頼で新潟県、静岡県の石油調査にあたる。1881年に帰国するまで工務省地質技師として地質調査をし、13名の日本人助手の教育を行った。北海道の地質図を著すなど、日本への理学的地質学の導入に貢献があった。とくに鉱山の開発などについての応用地質学の導入に努めた。帰国後はペンシルベニア州地質調査所次長となった。
[木村敏雄 2018年8月21日]
アメリカの地質学者。日本で最初に本格的な地質調査を行った。マサチューセッツのノーザンプトンで法律家の子として生まれた。ハーバード大学で法律学を学んだが,1855年卒業後叔父の仕事に従い鉱山調査に従事し,パリ鉱山学校とドイツのフライベルク鉱山学校に留学,62年帰国後各地鉱山の地質調査を行い,鉱床の走向線図を作成して注目された。72年(明治5年),北海道開拓使に招かれて来日。開拓使仮学校(東京)で学生を教育し,73年から学生たちと北海道の地質・鉱床調査と測量を実施。76年,日本ではじめての広範囲な地質図《日本蝦夷地質要略之図》とその報告書を出版。その後日本各地の地質,鉱山,油田の調査を行い,日本の地質調査の基礎をつくった。81年帰国後はアメリカ各地およびフィリピンの調査に従事した。ライマンの育てた弟子たちは日本の地質・鉱山学界で活躍した。地質調査に用いられる走向,傾斜の語はライマンの弟子たちの訳語である。
執筆者:清水 大吉郎
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(村上陽一郎)
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…佐賀藩主鍋島直正がイギリス人T.B.グラバーとの共同経営によって本格的な開発に着手し,1869年出炭を開始したが,劣悪な労働条件に抗して,いわゆる〈高島炭鉱問題〉をはじめとする坑夫の暴動がたびたび起こった。 北海道では幕末にすでに幕府の手によって白糠,岩内で採掘が行われていたが,明治初期に北海道開拓使庁のお雇外国人B.S.ライマンが全道にわたって地質調査を行い,その結果に基づいて開拓使は78年,岩内炭鉱とともに幌内(ほろない)炭鉱の開発に着手し,さらにライマンの助手たちによって発見された夕張炭田,空知炭田の開発が進められた。【石井 量】。…
※「ライマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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